ツーリング日和14(第27話)朽木

 保坂から朽木までも十分足らずかな。保坂からすぐに谷間の道って感じだ。そういえば朽木って要害の地だよね。

「それなりにはな。そやけど真ん中に若狭街道が突っ切っとうから、交通不便の地とは言い難いな」
「朽木に入れる道は三本だから、それを塞いだら守りやすい気がするけど」
「京からはけっこう遠いで」

 朽木に入ったけど、これは盆地というより谷間の町だよ。そこからまず訪れたのが朽木陣屋。ここは予約制みたいで、

「それぐらいしか見に来るやつがおらへんってことやけどな」

 まあそうなんだけど。陣屋ってことは朽木氏は江戸時代も小大名だったのか。

「そうじゃないよ、関が原の時に一万石切ったから旗本」
「あれも、関が原の時に二万石あったのが半分以上削られて大名から旗本にされたって話になっとるのが多いんや。そやけどホンマに二万石あって大名やったかもはっきりせんとこがあるねん」

 とりあえず江戸時代は旗本なのは間違いなさそう。だけど旗本なのに大名並みの待遇を受けた部分もあったとか、

「この陣屋は三の丸まであって、多門櫓も七か所あったそうや。他にも御殿、侍所、剣術道場、馬場、倉庫とかも備わっていて大名の陣屋として良いぐらいの規模やねん」

 旗本だから江戸に住んでいて参勤交代もしないのに、

「交代寄合言うてな・・・」

 自分の領地に屋敷を構えて住む大身旗本ぐらいの意味で、交通の要衝とかの家が多かったとか。

「旗本は若年寄支配やねんけど、交代寄合の旗本は老中支配やねん。そやから上位旗本ちゅうか、旗本と大名の中間ぐらいの待遇やと思うで」

 交代の意味合いは参勤交代を行う旗本の意味なんだって、

「参勤交代って罰ゲームみたいに言われるけど、交代寄合の旗本に関しては権利みたいな扱いやったんちゃうかな」

 大名の参勤交代は一年おきの義務のはずだけど、交代寄合の参勤交代は数年おきでも良かったそう。これも義務じゃなく自発的に行ってるとされたとか。朽木氏は元網の時に江戸時代に突入しているとなってるけど、

「元網は三人の息子に領地を分けて、宣綱六千四百七十石、友綱二千十五石、稙綱千百石にてとる。さらに宣綱も次男と三男に合わせて千七百石を分けてるねん」

 どうしてそんなことを、

「元網に聞いてくれ」

 そりゃそうだけど、江戸初期の大名家ではしばしばあったとか。この頃の相続も原則は惣領制のはずだけど、

「関ヶ原の教訓もあったかもしれん。まだ大坂城に秀頼はおったし」

 天下分け目の決戦が起こった時にどちらに乗るかは家の存亡に直結するのか。ここで勝ち馬が見抜けたら良いけど、そうじゃない時は、

「両方に賭けて、勝った方で生き残る戦略や」

 そんなかんなで朽木本家は五千石足らずで明治を迎えることになり、陣屋も維新後に取り潰されてる。形式として平城よね、

「詰めの山城が別にあって、ここは麓の屋敷みたいなもんで、そこを順次拡大したとなっとる」

 だからどうしたって程度の陣屋だけど、実はタダの陣屋じゃない。だってだよ、義晴、義輝の二人の室町将軍がここに住んでいた華麗すぎる経歴があるんだよ。まあ京都から逃げて来ただけだけど、朽木氏は二人の室町将軍を庇護してたことになる。

「無理やりいうたら首都やった時期もあったことになるもんな」

 かなり無理やりだな。まあ将軍は日本の統治者だから、その将軍が住んで、そこで政治の指示を出していたなら政府、それも中央政府と言えなくもない。シケていても中央政府があることころが首都と強弁できない事もないか。

 首都と言うより亡命政権の所在地ってほうが合ってる気もするけどね。京都からの距離感が微妙な気がするけど、朽木なら京都の戦乱が避けれたのか、

「当時の政治情勢やろうけど、京から見たらよっぽど遠いイメージやってんやろな」

 あの頃の情勢は複雑怪奇らしいけど、南近江の六角氏が将軍派であることが多かったみたいで、六角氏が南近江に頑張っていると朽木まで攻め込むのが大変ぐらいの判断もあったかもしれないって。

「次は興聖寺や」

 この寺は道元禅師が佐々木信綱に頼まれて建立した由緒あるものだって。この寺の見どころが旧秀隣寺庭園。ここはもともと義晴や義輝が朽木に逃げ込んだ時に建てられた屋敷の跡で、将軍の無聊を慰めるために作られた庭園がこれだって。

「庭だけでも残ったのはたいしたもんや」

 この将軍館は秀隣寺になったんだけど、後に移転して、代わりに興聖寺が移って来て今に至るとなってるそう。だから興聖寺にあるけど旧秀隣寺庭園と呼ぶそうだ。

「この庭見ながら、京都に戻れる日を夢見てたんやろな」

 そんな気がする。

「わび住まいの朽木の生活の中で、京都の匂いを感じれる場所やったかもしれん」

 朽木は歴史も古いはずだし、江戸時代も城下町みたいなものだし、鯖街道の宿場町でもあったはず。だけど歴史的な見どころとしてはこれぐらいしかないみたい。まあ鯖街道、若狭街道って言ったって小浜から京都まで十八里しかないから、途中でどこかで一泊したら着いちゃうから朽木にはあんまり泊まらなかったのかも。

「参勤交代ルートでもあらへんかったみたいやし」

 熊川宿も立派だったけど、東海道や中山道の宿場町だったら定番のようにある本陣や脇本陣はなかったんだって。小浜藩ぐらいなら使いそうなものだけど、

「敦賀まで領地やさかい刀根越で木之元に出て、中山道なり東海道で行ったんちゃうか。今津に出ても遠回りになるだけやからな」

 なるほどね。ついでだからと訪れたのが丸八百貨店。昭和八年に開業した三階建ての建物で国の登録有形文化財となっています。

「なんか懐かしい感じがする。戦前だって大きなデパートは大都市にあったけど、地方都市にはこれぐらいのなんちゃって百貨店がわりとあったのよ」

 あのぉ、まるで見て来たような物言いじゃない、てか見てるのか。

「そやったな。その中には地方の百貨店グループに成長したり、地方スーパーになったのもあったけど、全国チェーンのスーパーの進出で潰れたところも多数やったもんな」
「潰れたところは無くなってるし、生き残ったところも建て直したり、移転してるからね」

 朽木の丸八百貨店も商店としては生き残れなかったみたいで、今はカフェとし営業してる。それでもかつての朽木には、これぐらいの百貨店が出来るぐらいには活力があったぐらいには言えるのかな。カフェでコーヒーを飲みながら、

「信長は朽木に泊ったのかな」
「泊まってへんと思うで。ここまで来たらもあるし、やっぱり裏切りは怖いやろ」