ツーリング日和11(第6話)デジャブ

 夜は襲って来なかった。もっとも、もし襲われたら・・・さすがに会ったその日は無理だ。起きて着替えをしていたら、

「おはよう」

 早起きなんだと思ったら、早朝から関が原の取材をしてたみたい。さすがはモトブロガーだ。それから朝食を頂いて、

「とうりゃ」

 やった今朝は一発だ。久しぶりじゃないかな。今日はきっと良い事あるぞ。

「プラグ替えたからやろ」

 かもね。プラグって大事だものね。今日も中山道を行くのだけど、信州に向かうのだったら通常は国道二十一号線を走る。だけどこれは現在のバイパスだから、すこし北側を走る事になりそう。まずは垂井宿本陣跡、次は赤坂宿本陣跡、さらに美江寺宿本陣跡、河渡宿一里塚跡、加納宿本陣跡、ここからちょっと離れて鵜沼宿脇本陣。ここは残ってるんだ。

「再建やけどな。それと関が原からここまでが一日の限界やろ」

 なんか近いと思うけど、

「歩きやからな。鵜沼宿までなら五十キロや」

 大名行列が一日にどれぐらい進むかだけど、加賀藩の記録で平均で三十七キロだそう。当時の旅人の目安が十里、つまり四十キロだそうだから、同じぐらいかむしろ早いぐらいかもしれない。

 大名行列って悠然と行進するイメージがあるけど、実際のところはかなりセカセカ歩いていたみたい。仮に一日に十時間歩いたなら時速四キロだけど休憩時間もあるから、時速五キロぐらい必要かもしれない。それにしても一日四十キロって昔の人はタフだね。

 それと宿場ってどこでも本陣があるのに驚いた。こんな短い間隔にこれだけ本陣が必要だったのかな。

「ああそれか。あの参勤交代って旧暦の四月にするもんやったらしいで」

 始まりは外様大名からで、まず西国六十一家が参勤し、次に東国三十九家が交代したんだそう。これに譜代大名も加わり西国の譜代大名が二月、関東東海の譜代大名が九月になったとか。

 なるほど、東西に参勤グループを分けたのは街道上で鉢合わせしないようにしたのもあるんだろうな。それでも参勤時期は重なるから、

「そういうこっちゃ。渋滞は起こりうる」

 大名行列が多かったのはやっぱり東海道で百四十六家、中山道はぐっと少なくて三十家だそうだけど、旧暦の四月に集中するからラッシュになるよね。一つの宿場に二つの大名の宿泊もあったの。

「大名の規模にもよる」

 まず大名行列は本国を出る時や江戸に入る時の本御行列とそれ以外の御道中御行列があって、御道中御行列は本御行列の半分か三分の一なんだって。出発の時は本国の、江戸到着の時は江戸屋敷の人が加わってたんだろうな。

 大名行列の人数も規定があって最小は四万石以下のもので、馬四騎、足軽二十人、中間人足三十人だから全部合わせても五十人ちょっとだ。これも経費節約があったらしくて、

「大名行列をチェックするところがあったらしいんや」

 経費節約で誰でも思いつきそうなのは御道中御行列を減らすこと。それこそ殿様と数人で本陣も使わず旅籠で江戸に急行すれば安上がりになる。だから幕府も対策として、要所要所の宿場で規定通りの大名行列になっているかチェックして報告させていたとか。

「ウソかホンマか知らんけど、チェックポイントの宿場の直前で人足を雇い入れて行列を整え、宿場を通り抜けたら解雇するのもあったそうや」

 そういう人足の調達をする職業もあったそう。小大名なら本陣なり脇本陣だけで宿屋が足りるから、二つが一緒はあり得るそうだけど一方で、

「大きな大名やったら本陣だけで済まへんやんか。草津の本陣かって最大で七十人ぐらいやから、残りは旅籠やとか寺院、それだけでも足りんで前後の宿場に分散したそうや」

 そうなると歩ける距離でも前が詰まっていたら、手前の宿場で泊まったりはあるってことよね。大名行列の追い越しは?

「無いやろ。そんなんやったら血見るで」

 鵜沼宿から、太田宿、伏見宿、御嶽宿まではだいたい市街地だったけど、御嶽宿を過ぎてしばらくすると、郊外から山道に入って行く感じだ。あれだろうな、平野部から信州に向かう山岳部に入りかけるぐらいのはず。

 街中の中山道も道幅が旧街道って感じがあったけど、山道に入ると昔の旅人はこんな風景を見ながら歩いてた感じがするよ。それでも山道を上がると農村があるじゃない。エエ、こんなところを入るの。

「細久手宿まで一・七キロってなってるやろ」

 なってる。これって完全な一車線。前から軽トラが来てもすれ違いに困りそう。でもこれこそが中山道そのものだよきっと。なんか急に道の左右に家が増えてきた。これって街なの、家もなんか古そうなのがあるけど、へぇ、こんなところに旅館があるんだ。

「これは珍しいで。現役の本陣の大黒屋や」

 現役? そっか参勤交代はないけど旅館として現役だよね。つまり泊まろうと思えば普通に泊まれるんだ。この細久手宿は長さが四百メートルぐらいだけど、江戸時代には六十五軒の建物があり、そのうち二十四軒が旅籠とかだったんだって。

 家の数は今でもそれぐらいの気もするけど、旅籠や木賃宿が二十四軒もあったらさぞ賑やかだったんだろうね。そりゃ、それだけ泊まる客に加えて、通り抜けるだけの旅人は数倍はいたはずだもの。こんなところにって思っちゃうけど、

「毎年、上り下りの大名行列も通過しとるもんな」

 そっか、そっか、参勤交代は一年おきだから、去年上った大名が翌年は下ってくるもんね。細久手宿にも本陣や脇本陣もあったらしいけど、尾張徳川家は他の大名家と別にこの大黒屋を尾張藩専用の本陣に指定したんだそう。残っているのが奇跡みたいなものだし、言ったら悪いけどこんなところで今でも旅館が営業出来ているのが不思議過ぎる。

 でも尾張徳川家って名古屋じゃない。名古屋からなら東海道になりそうなものだけど、わざわざ中山道で参勤交代していたの?

「どっちも使うとったみたいで、名古屋から伏見宿までの参勤用の道まで作ったそうや」

 加藤さんも理由は知らないとしてたけど、

「紀州とガッチャンするのを避けたんちゃうか」

 紀州からなら東海道は鉄板だろうからあるかもね。次が大湫宿だけど、ここにも脇本陣が残ってるけどやっぱり再建かな。

「いや本物やけど非公開や」

 ちょっと残念。中津川宿で昼ごはん。

「信州そばにしょうか」

 立派なお蕎麦屋さんだけど、

「とろろ付ざるそば」
「鶏なんそばにエビ天」

 う~ん、普通のざる蕎麦だよ。それでも次々にお客さんが入って来るから人気店なんだろうな。加藤さんは、

「悪かった。これも取材やねん」

 食レポってやつか。大変だな。次が落合宿だけど、ここは本陣が残ってるとか。

「中山道美濃十七宿でここだけが本物の本陣が残ってるねん。そやけど公開は日曜だけやから見れへんわ」

 本陣の前後の石畳は昔の街道の雰囲気があって良い感じ。そしてだよ、ついに次は馬籠だ!

「エルさん。ここまで仕事ばっかりで悪かった。馬籠はゆっくりするさかい」

 駐車場にバイクを停めてレッツ・ゴー。馬籠って坂道の両側に街が出来てるんだ。さすがに観光客で賑わってるよ。道が石畳なのも良い感じ。おやきに煎餅、五平餅がたまんないな。嬉しそうに歩いてたら加藤さんがお手洗いに。待ってたら、

『ドスン』

 人とぶつかったんだけど、

「なにするんや」

 て、ぶつかったのはアンタでしょうが・・・と言いかけたけど、見るからにガラの悪そうな若者たちじゃない、いわゆるヤンキーだ。

「ああ痛、これ骨折れたわ。弁償してくれるか」

 そんなもので折れるか! そんなに華奢だったらエルに勝てるわけないじゃないの。てな理屈が通用する相手じゃないよね。とりあえず謝ってみるか。

「ゴメンで済んだら警察いらんわ」

 なんて古典的な返しセリフだ。

「ちょっとゆっくり話しょうか」

 カ、カツアゲだ。決してトンカツとかビーフカツじゃないカツアゲだ。この歳でカツアゲされるのも珍しいかも。そんなことをノンビリ考えている場合じゃないか。そしたらエルの後ろから、

「エルさんはわいの連れや、代わりに話を聞いたるわ」

 加藤さんが戻って来てくれてる。それは嬉しいけど、さすがに加藤さん一人じゃ・・・そこから店の裏手の方に行ったけど、五分もしないうちに戻ってきて、

「話し合いは終りや。これで円満解決」

 あれ、なにをしたの。加藤さんはまるで何もなかったように、

「ここのパフェ美味しいらしいで」

 あれどうしたのだろう。どこかでこんな体験をしたような。いつだっけ、どこだっけ、あの時に助けてくれたのは、加藤さん・・・のはずないのに、なぜかそんな気がしてしまう。いやいや、そんなはずはない。加藤さんとは昨日会ったばかりじゃない。

「どないしたん。栗入りパフェは行けると思うが」

 そうじゃない。あの時に助けてくれたのも加藤さんのはず。あれいつだったんだ。素直に話したら、

「デジャブやないか」

 デジャブって、初めて経験するはずなのに、まるで前に経験したことがあると感じるってやつ。う~ん、加藤さんとは過去に会ったことがないはずだから、これがデジャブなのか。それよりあのヤンキー連中は、

「だから話し合いで円満解決言うたやんか」

 おカネを渡したの。

「会話いうてもボディ・ランゲージや。ああいう連中は言葉の会話が苦手やからな」

 えっ、あんな短時間に、

「最近のヤンキーはボディ・ランゲージも落ちたもんや」