ツーリング日和25(第26話)ノロケ

 ツムギちゃんとは西宮でバイバイした。もう東灘まで帰って来ちゃったね。楽しかったお泊りツーリングもこれで終わりか。あれこれあったけど、また日常に帰っちゃうのか。

「今回のはな。そやけど二人の旅は終わってへんで。終わりはな、次の始まりに繋がるんや。そもそもやぞ、家に帰ったら、帰ったで、そこかって千草と二人きりの生活が待ってるやんか」

 コータローらしいな。たしかに結婚式も挙げて籍も入れたけど、コータローとは夫婦生活と言うより、なんか同棲やってる気にもなるんだよ。エラそうに言ってるけど同棲も経験ないのだけどね。

「オレとやったやんか」

 そうだった。でも話に聞く限り夫婦生活と同棲は同じじゃないはずなんだ。そりゃ、同棲に引き続いて夫婦生活があるはずだけど、なんかさ、もっと落ち着いてと言うか、同棲の時とは違った接し方になると言うか、

「決まりはあらへんで。どんな夫婦になろうが夫婦の勝手や」

 コータローも言うね。同棲と夫婦生活が同じじゃないの理由は、たぶんだけど同棲はあくまでも恋人関係の形態の一つにあるのに対して、夫婦生活は、

「夜の営みが必須になる」

 アホか。清い同棲なんてこの世に存在する訳がないだろうが。夫婦生活になれば変わるのはやっぱりお互いの夫婦観が強く出るからじゃないかな。同棲の時だって出るだろうけど、夫婦になれば遠慮会釈なしに噴き出すとか。

「上手いこと言うな。男やったら亭主関白をいきなり目指すとかか?」

 それも良く聞く話だ。夫婦生活となると役割分担が出て来るのだけど、もめるのはやはり家事で良さそう。そりゃ、生活の根本みたいなものだもの。ここで家事は女の役割どころか、男が手を出すなんてトンデモないに走れば最悪離婚だ。

「未だに昭和脳の男はおるらしいもんな。そやけどあれが成立したんは・・・」

 そうなのよね。昭和の頃は男の稼ぎだけで家計を支え、女を専業主婦に出来てたのはあったとは思う。女はずっと家にいるから家事をやらないのはトンデモぐらいの流れかな。あの頃は共働きと言うだけで色眼鏡で見られたらしくて、

「もう死語になってると思うけど、カギっ子は哀れとされとったぐらいやそうや」

 カギっ子て何かだけど、まだ子どもだからカギを失くさない様に首からぶら下げてた子どもなんだって。これは家に両親がいないから、学校から帰った時に子どもがそのカギで家に入るためのものぐらいのはず。

 そのためにカギを持つ状態を貧乏とか、可哀そうとかの象徴とか、アイテムみたいに使われていたのが昭和のある時代まで常識としてあったそう。それぐらい当時は母親が働きに出ると言うのは例外的に扱われていたらしい。それから女性の社会進出が活発になり共働きが多くなっていったのだけど。

「それだけやないはずやねん。男の給与が減って行ったのも同時進行してたはずや」

 なるほど、そうのはずだ。だって今ですら専業主婦志望の女はいるし、それ以前に働くのが好きでない女だっている。

「専業主夫希望の男はさすがに少ないけど、仕事が好きやない、働きたくない男やったらナンボでもおるわ」

 それを言い出せば千草だって働かずに遊んで暮らせるならそっちを選ぶよ。そりゃ、女性の社会進出の尖兵みたいな女は仕事の鬼、仕事が生きる事のすべてだったかもしれないけど、全員がそうだと思ってもらったら困るもの。

「男かってそうや。オレかって趣味に生きれるんやったらそうしたいで」

 だけど男の給与が一家を養うのに足りない現実は、共働き夫婦を当たり前にした現実の側面は確実にあると思う。

「生活水準の問題もあるとは思うけどな」

 夫婦の収入が一家を支えるのに必然の時代になると家事に対する考え方も変わる。だけど今だって家事は女の仕事だと押し付けようとする男は少なくないのよね。あれって、

「あれやけど結婚して夫婦になった時の家庭のモデルが、なんやと言う話になると思うねん」

 家庭のモデル?

「そんな深遠な話やない。自分が育った家庭をまず考えるやろ」

 なるほど一番自分が慣れ親しんだモデルだよね。けどさぁ、けどさぁ、もう平成も終わって令和だよ。そんな昭和モデルの家庭なんてそんなにあるのかな。

「減ってるはずやけど息子はわからんところがある。物凄い勢いで少子化が進んでるやんか。平均で言うたら一家の子どもの数は二人をだいぶ割り込んでるんや」

 そんなに減ってるのか。言われてみれば千草の家だって二人だし、コータローの家なんか一人息子だ。それだけ減れば、

「親が子どもを可愛がるのは何の問題もあらへんけど、度を過ぎて可愛がるのがおるそうやねん」

 見ようによっては共働きで家事にかけられる時間も減ってるけど、子どもが少ない分だけ子どもに愛情をかけられるのも増える関係かも。そうなると、

「昭和の家庭みたいなもんが出来てまうんちゃうか」

 なんとなく想像できてしまいそうだ。とくに息子がそうなりそうじゃない。だって千草もそうだったけど、娘ならなんだかんだで家事の一通りを仕込まれるもの。夫婦で家事分担が当たり前の時代になっても女が家事から解放されるわけじゃないからね。

「そういう家庭で育った息子の家庭モデルは、シンプルに言えば母親が果たしてきた役割を嫁さんに求めると言うより、それを果たすのが嫁やと信じて疑わんのがおるはずや」

 背筋に寒イボが出そうだけど、その男にとっては生まれて来てからの家庭のすべてみたいなものだし、結婚して夫婦になればそうなって当然ぐらいしか思わないかもね。三つ子の魂百までって言うけど、揉めるだけ揉めるだろ。

 この辺は千草だって他人の事は言えないところはあるのよね。夫婦になって作ろうとする家庭のモデルに、自分が生まれ育った家庭を参考にするのはおかしいとは言えないもの。アンチテーゼにするのもあるだろうけど、そんなに不満が無ければまず考えるのはおかしいと言えないよ。

 実はコータローとだってそういう問題が出てくるのじゃないかの懸念はあったんだ。でも今のところは影も形もない。これ言ったら悪いけど、結婚式も挙げて、籍も入れて、正式の夫婦になってるけど、やってることは同棲の続きをやってるとしか思えないのよ。だから毎日がすっごく楽しいの。

「オレもやねん。今かって千草の下着を洗うのはドキドキもんや」

 だからそれは千草が洗うってあれだけ言ってるでしょ、

「アホ言うな。これが千草と結婚できた特権やないか」

 いくら夫婦でもそんな特権があるものか! 千草だって汚れた下着をコータローに洗われるのがどれだけ恥ずかしいか。こればっかりは、これから経験することだろうけど、いつの日か、こんな感覚も無くなるのだろうな。

「こればっかりは初体験やからこの先のことはわからんけど、オレは今の関係がベストやと思うてるねん」

 千草もだ。この辺は千草の家もモデルにしたくなるような家じゃなかったし、

「オレのとこはとにかく口煩そうて辟易しとってん」

 あのお袋さんならそうかも。二人とも生まれ育った家庭をモデルにする気なんてなくて、むしろそれを否定した家庭モデルにしたいぐらいだもの。どうもコータローは同棲の延長みたいなスタイルを出来るだけ続けたいみたいだけど、千草もそれに異論はないよ。

 それにしても今日の感覚はどこかおかしいぞ。向かっているのは我が家だし、そこが旅の終着駅のはずなのに、なんか五泊目に入ろうとしてる感じがする。

「宮島がお預けになったからちゃうか」

 それは、えっと、えっと・・・

「今夜は燃えるで」

 言うまでもなく千草もOKだよ。心の底から欲しいって思ってるもの。これだって恥ずかしいとは思わない。だってだよ、

「新婚や」

 今夜に向かってワクワクしてきた。

「夜まで待てるかい」

 そうだ、そうだ。夜まで待てるものか。こんな日々がいつまで続くかわかんないけど、今が幸せならそれで良いじゃない。