ツーリング日和14(第37話)エピローグ

 コトリ、今回のツーリングだけど、

「不満は受け付けん」

 不満って程じゃないけど、ちょっと偏りがあった気がしてさ、

「鯖寿司美味かったやんか」

 そりゃそうだけど、

「ソースカツ丼も良かったやろ」

 ああいうのも旅の楽しみだけど、

「鹿蕎麦とか鹿カレーはなかなか食べられへんで」

 たしかに。でもさぁ、でもさぁ、

「大原の温泉もなかなか入る機会無いで」

 京都市内の温泉が珍しいし、神戸からなら京都市内に泊るってことがまずないものね。

「寂光院も火事になってから行ってへんやろ」

 焼失したのは惜しんでも惜しみきれないけど、立派に再建されてたのは嬉しかった。でもだよ、たったあれだけの距離に時間かけ過ぎじゃない。

「そない言うけど、駆け抜けてもたらオモロないで」

 おかげで熊川宿はゆっくり見れたし、朽木も行って良かったと思ったよ。

「ユリがタンデムやから無理さしたらアカン」

 それもわかるんだよ。亜美さんに丁寧に解説してあげたのも。

「コースかって敦賀からは初めての道が多かったやろ」

 近畿にまだこんなコースがあったのかと思ったもの。鯖街道も絶景ロードじゃなかったけど、あれはあれで気持ちが良い道だから人気があるのもわかったもの。

「それやったら文句あらへんやろ」

 そうなるのだけど、このお話ってツーリングの楽しさがメインじゃない。あんなに途中停車が多くて、それも長いとリズム感は悪いと思わない。これじゃ、歴史ムックじゃない。

「今回はそういうツーリングにするって宣言してるやろ」

 そりゃ、そうだけど、宣言したから問題無しって態度は良くないよ、

「歴史ムックやけど、あれでもだいぶ端折ってるねん」

 たとえば、

「微妙過ぎるとこやねんけど・・・」

 こりゃ細かいところだ。手筒山城が一日で落ちて、翌日には金ヶ崎城が開城引き渡しになってるのだけど、どうやら同時に疋壇城も開城になったみたい、信長公記には、

『引壇之城是又明退候』

 これは開城したというより、手筒山城に続いて金ヶ崎城も信長の手に渡ったから、孤立無援になる前に逃げちゃったのだろうね。金ヶ崎城の朝倉中務大輔の指示もあったかもしれないけど、

「そうなるとやな、金ヶ崎と疋壇の城兵は無事に退却したことになるやんか」

 そこか! 金ヶ崎開城は四月二十六日だからその日は朝倉の城兵たちは木の芽峠を通り抜けたことになるはず。開城と言っても、その前の交渉があるし、あくまでも仮にだけど、金ヶ崎と疋壇がセットみたいに開城したら朝倉軍が木の芽峠に消えるまで停戦状態になるはず。

 そうなると四月二十六日の信長軍は金ヶ崎に入城して終わりだった可能性もあるのか。こうやって書くとノンビリしてるようだけど、二日で三つの城を落として敦賀を掌握したのだから大戦果だし、それに満足したって悪いとは思えない。信長だってこんなにスムーズに進むのは予定以上だったはず。

 となると信長軍が木の芽峠に取り掛かるのは四月二十七日からになるはず。でもそうなると信長公記の、

『木の芽峠打越国中可為御乱入所』

 ここの解釈が微妙になって来るのか。これはそういう状態になったと見るより、そういう予定で木の芽峠に兵を進めたとした方が良さそうだ。というのも朝倉軍だって二十五日の信長の敦賀侵攻に反応して木の芽峠方面に軍勢を送り込み始めてるはずだものね。

 とくに四月二十六日は開城に伴う停戦状態だから一日まるまる使えるし、金ヶ崎や疋壇の城兵も活用できそうじゃない。というか、開城で撤退したからと言って義理堅く一乗谷まで帰る必要もないから、木の芽峠の要所に陣を敷いていたと見る方が良い気がする。

「そうやねん。四月二十七日にどこまで登っとったんやろうと思うて」

 ここで気になるのは信長の浅井への読みがどうだったかが絡んでくるのよね。浅井は絶対に裏切らないとしていたのか、もし裏切るならそろそろと考えていたのかだよ。

「信長は相当気にしてた気はするねん。そやから次々って感じで注進が来たんちゃうやろか」

 そうなると、常に撤退の腹積もりを置きながらの作戦行動をしてた事になり、言葉とは裏腹に木の芽峠の奥深くまで軍勢を進めてなかった可能性も出て来る訳か。

「これに連動するのやが、浅井が離反するタイミングがなんであそこやってんもあるねん。考えてもみいや。信長軍の主力が木の芽峠を越えたタイミングやったら、それこそ血の雨が降りまくるで」

 でもそこなら説明出来そうな気がする。まず信長の敦賀侵攻が浅井にしてもデッドラインでトリガーとなったのだろうけど、たった二日で金ヶ崎城まで落城するのは予想外だったと思うよ。

 浅井の戦略としては手筒山城や金ヶ崎城を攻める信長軍の背後に攻め込むぐらいじゃない。そうこうしているうちに朝倉軍も木の芽峠を越えて来るから、そこで決戦を挑まれたら敦賀の姉川状態だし、信長が逃げたらそれこその追撃状態になるじゃない。そうなったら椿峠も守り切れるかわからないもの。

「するとやな、金ヶ崎の退き口のホンマのイフは手筒山城とか金ヶ崎城がどれだけ頑張るかで変わっとったんかもしれん」

 そうなるかも。一週間ぐらいでも持ちこたえてたら歴史が変っていたかもしれない。状況によっては信長だけでなく、家康も秀吉も一網打尽だった可能性まであるものね。

「それでも生き残ってまうのが英雄やねんけどな」

 それは言えてる。もう少し言えば、そういう可能性があっても勝ってしまうのも英雄とも言える。そんなのたくさん見てるもの。よく悲劇の英雄とか、悲運の名将なんて表現があるけど、悲劇や悲運に見舞われるのは英雄でも名将でもないとないと思ってる。

 とくに英雄というのはラッキーが団体さんで押し寄せるってこと。だからこそ時代を創れるの。あれは歴史の女神が微笑んでいるとしか言いようがない。

「それが歴史や」

 逆にどんなに才知に優れ、人望があろうとも幸運に恵まれないものは歴史の荒波に消えてしまうってこと。

「光秀のことか」

 三成もね。天下を争えるほどの人材であれば、ちゃんと天下を運用できるのよ。個人的には三成の天下を見たかったかな。

「あの辺は秀吉の衰えやろ。秀頼が生まれたんが遅かったんは同情するけど、ボンクラまで言わんでも、そこそこの息子やったら受け継げる形にしてへんのが悪い」

 秀吉の衰えは、次は家康の機運が醸し出されていたと歴史小説家は書くけど、あれだってどこまでかは適当のはず。だってだよ、関が原で西軍に加勢した大名がどれだけいると思ってるのよ。

「コトリもそう思う。家康って言うほど人気があらへんかった気がするねん。もっともやが、家康に取って代われる人材がおったかと言われると思いもつかん。三成じゃ、荷が重すぎるわ」

 あれも英雄が為すナチュラルコースよね。

「ああ、大坂の陣を戦うまで寿命があったんもな」

 秀吉並みの寿命だったら、大坂の陣の指揮を執るのは秀忠になるけど、秀忠に家康みたいなカリスマ性はないから大坂城は落とせなかったかもしれない。

「というか、秀忠の才能はそっちやあらへんから、なんやかんやと丸め込んで、最後は三万石ぐらいの小大名で生き残らせていたかもな」

 コトリはそういう中途半端なのは嫌いでしょ。

「まあな。散るのも歴史の華やからな」