ツーリング日和14(第24話)金ヶ崎からの撤退

 部屋に戻ってもバカスカ飲んでるのだけど、高校生の亜美さんの教育に良くないよ。でも感心するのは、どれだけ飲んでも崩れる様子がまったくないこと。それどころか何とも言えない品があるって感じ。とにかくどれだけ飲めるのか想像もつかないよ。話は撤退戦の真相みたいなものになっているのだけど、

「すぐに無視すると言うか、知らん顔するのが多いけど、スマホどころか固定電話も、電報も、無線もあらへん時代やねん」

 木の芽峠なんか今でも圏外じゃないかな。信長が浅井の離反を知ったのは間違いけど、どうやって知ったかになるってこと。浅井の重臣の誰かを買収してるとか、小谷城の動きで知ったぐらいになるだろうけど、

「浅井は離反を決めたら何をするかや」

 朝倉の味方だけど、

「そうや、軍勢の小谷城への総動員令や。この動きの報告が信長の判断の決定打になったんやと思うで」

 信長公記にも、

『江北浅井備前手の反覆の由、追々注進候。然共、浅井は歴然御縁者たるの上、剰 江北一円に仰付けらるるの間、不足これあるべからずの条、虚説たるべきと思食候処、方々より事実の注進候。是非に及ばす、の由候て』

 ちょっと長いけど、浅井離反の報告は一つじゃなく続々と届られたと見て良いはず。最初はそんなことはないとしていたけど、最後に、

『是非に及ばす』

 とうこなってる。

「これがいつことかや」

 信長公記は日記形式に近いけど、数日分をまとめて書くのも多いみたい。四月二十五日もそうで、

 四月二十五日・・・手筒山城を落とす
 四月二十六日・・・金ヶ崎開城

 ここは確認できるけど、四月二十六日から四月二十九日の間のどこで信長が浅井の離反を聞いて撤退を決意したかはわからないのよ。

「ここでやけど、敦賀と小谷城の情報伝達を一日と見るんよ・・・」

 隣の国の出来事だけど、近江と敦賀の間は結構な山岳地帯だからそれぐらいかかりそう。

「そやけど信長の敦賀侵攻はその日のうちに伝わったと見とる」

 早朝に信長軍が敦賀に攻め込んだ情報が二十五日の夕には小谷城に伝わり、その夜のうちに離反を決定し、二十六日の朝から軍勢の招集が発動されたぐらいかな。その動きが怪しいと見ての報告が次々と金ヶ崎の信長の元に届き始めたのが、

「二十七日になってからの気がするねん」

 四月二十六日の浅井の動きを信長が四月二十七日の夕方ぐらいから受けて悩むのか。ならば三河物語にあった信長が宵の口に撤退したのは信じて良いとか。

「コトリはそうは思わん。信長は撤退するにあたって何を考えたかや」

 そりゃ、どうやって逃げるかでしょ、

「そうやどうやって見栄張って逃げるかや」

 見栄? 緊急事態じゃない。見栄張ってる場合じゃないじゃない。

「信長がまず一番懸念したんは浅井が刀根越で敦賀に攻め込んでくることちゃうか。そやけど、四月二十六日に軍勢の招集をかけても、それなりに集まって来るのが二十七日、出陣が二十八日、敦賀に攻め込んで来るのを早くても二十九日と読んだ気がする」

 当時の軍勢の集まりってそんなものなのか。

「それやったら四月二十八日はまだ安全や。二十七日の夜に撤退を決めて、二十八日の日の出とともに撤退や。ここも思い出して欲しいんやが金ヶ崎から佐柿まで四里ほどしかあらへんねんよ。普通に歩いて四時間、急いだら三時間で着くやろ」

 日の出は四時四十分ぐらいだから、信長は九時に佐柿についていてもおかしくないのか。それで見栄って。

「撤退する時の作法みたいなもんで、金ヶ崎に持ち込んだ物を全部持って帰るんや。そやな、その後もチリ一つ残さず掃除しといたら理想的や。それをこの急場で秀吉なら宰領できると信長は選んだと思う」

 それはそれで大変だ。この時に信長軍の前線拠点は金ヶ崎城に移っていたはずだから、兵糧とかもかなり持ち込まれていたはず。これを運ぶ人足連中も動揺しているはずだから、これをまとめあげて佐柿に運ぶのだものね。

「秀吉を選んだんは、それが実行できる才覚と、くどくど説明せんでも、信長の真意をわかるはずもあると思うわ」

 木の芽峠の信長軍はどこまで進んでいたんだろう。

「情報は『木目峠を打越し、国中御乱入たるべきの処』しかあらへんねんけど・・・」

 木の芽峠には敦賀側に新保宿、今庄側に二つ屋宿の二つの宿場があって、その中間に木の芽峠の頂上があったのか。ここで『国中御乱入たる』を木の芽峠の頂上を越えると取れば、

「金ヶ崎城から四里ぐらいやから、四時間で連絡出来るやろ。この使者は日の出前の四時に出れるから八時ぐらいに到着したとみたい。もちろんやが、先頭部隊に続く後続部隊は先に連絡を受けて撤退を始めるやん」

 ここでコトリさんが強調したそうなのは、

「木の芽峠は険しい道やろ。つまりは狭い一本道や。朝倉が追撃しようと思うても、信長軍の先頭部隊を潰さん限り前には行けん」

 もっと言えば、木の芽峠を下りて敦賀に入らないと部隊を展開出来ないよな。それだけ時間があれば、

「木の芽峠の下におった連中は余裕で佐柿に行ける」

 信長軍の最後尾になるのは、木の芽峠の先頭部隊と金ヶ崎城で残務処理担当だった秀吉になるのか。

「それとやけど尻啖え孫市やったら、木の芽峠を下りて来た信長軍も朝倉軍も金ヶ崎城を関門みたいに通っとるけど、誰が通るかいな。当時の道はわからんとしても、木の芽峠から気比神宮に行く道ぐらいあるやろし、気比神宮から丹後街道行く道ぐらいあったはずや」
「そうなのよね。金ヶ崎城って敦賀の北東の端っこにある城だから、南側から朝倉軍が攻め寄せたら秀吉は袋のハゲネズミよ」

 言われてみれば。だったら秀吉が殿軍で奮戦した話は、

「あれもわからん。金ヶ崎城の撤退作業が長引いて結果的に殿軍になった可能性がまず一つや」
「もう一つは殿軍やる事で功名手柄を狙ったのかもよ」

 家康と一緒だった説は、

「なんとも言えん。さすがに先頭部隊が下りてくる頃には、朝倉軍の追撃部隊も食らいつき始めとったんちゃうか。そやからある程度乱戦にもなるさかい、佐柿に行くまでに家康も巻き込まれて一緒やった可能性ぐらいはある」

 えっと、信長軍の先頭部隊が仮に九時に撤退を開始して、敦賀に下りて来たのが十三時とするじゃない。そこから佐柿まで四時間としたら十七時ぐらいになるけど。

「さすがにもうちょっとかかったんと思うで。そやけど日の入りが十九時ぐらいやから、それまでには佐柿に着いたはずや」

 それまでは押して引いての繰り返し、

「それはあったやろ。そやけど朝倉軍が追い切れんかったんは確かや」

 これは朝倉家記と言って、朝倉側からみた金ヶ崎の退き口の結果だそうだけど、

『人数崩れけれども宗徒の者ども恙なし』

 さすがに逃げ崩れそうな状態にはなったみたいだけど『しゅうと』の者ってなんだ。信長軍にどっかの宗教軍団でも混じっていたのか。

「それはね『むねと』って読むのよ。宗徒の者って集団で主要な人、この場合は大将ぐらいの意味になるけど、大将を守る雑兵部隊はある程度崩せたけど、大将は無事だったと書いてあるぐらい」
「ああそうや。信長軍の被害は諸説あるけど、コトリが注目するのは名のある武将が誰も死んでへん事や。ほんまに苦戦したんやったら一人や二人は死ぬやろし、戦果やからアピールするのが戦争の側面や」

 そうなると尻啖え孫市にあった、

『殿軍である藤吉郎・孫市の部隊が西へ、西へと退却してゆく途中にも、首のない織田方の雑兵の死体が散乱し、はやくも屍臭をはなっていた』

 こうはならないよね。

「屍臭を放ち始めるまでにはそれなりの時間が必要じゃない。そんなに早くから朝倉軍が敦賀に出て戦っていたとは思えないもの」
「そもそもやで、そんな状態になっとるいうことは、秀吉より前に朝倉軍がおるってことになるやんか。挟み撃ちなり、包囲されて生きて帰れるかい」

 司馬遼太郎が撤退戦の厳しさを演出しようとしたウソなのか。

「脚色だけど無理あるよ」
「ホンマに金ヶ崎に来たのか疑うで」

 金ヶ崎に来たのなら佐柿ぐらいまでは行くはずよね。