ツーリング日和14(第23話)宿場町の歴史

 これだけ大きな宿場町となると、

「わからんかった」
「小浜は有名だけど」

 そこまでは無いにしても、

「調べた範囲で言うたら、一日に四百人ぐらい泊っとった記録はあるそうや」

 それは多いはず。

「それにここは水運と陸運の中継ポイントみたいなとこじゃない。馬だって一日千頭なんて話も残っているそうよ」

 それは盛り過ぎじゃ、

「そういうけど今津も・・・」

 多い時は一年に二十万頭って記録があるのか。

「一日平均で五百五十頭ぐらいやけど、今津からの年貢米は若狭や丹後の分も多かったさかい、多い時やったらホンマにあったかもしれん」

 とにかくそれだけいれば、

「あったらあったで話に残りそうなもんやけど」
「巡礼客を呼び込むアピールにもなりそうだけど」

 あれかな小浜にあったから、次は今津みたいな感じだったとか。

「今津に明治の頃はあったんは間違いあらへん。そやけど江戸時代は微妙なのよ」

 へぇ、今津って加賀藩の飛び地だったんだ。だけど加賀藩って色街の許可がなかなか下りないので有名だったそう。でも東の廓とか、

「あれもやっとこさやったらしい」

 なら、えっと、えっと、今津から竹生島に行ったら、次の長命寺は、

「遊ぶなら近江八幡やな。あそこは京都祇園の一流どころを集めて栄えとったとなっとる」

 小浜の次が近江八幡だったのか。

「でもわからんで」
「熊川宿にも旅籠はあったからね」

 そっちね。だけど飯盛女が有名なところは今でも話が残ってるそう。熊川宿の場合は規模こそ大きいけど、そっちで売っていた訳じゃないぐらいみたい。その辺は、

「あれかもしれん」
「馬糞臭いじゃない」

 荷物の行き来が多いのは宿場町が栄える条件だろうけど、馬の数に比例してウンコも増えるものね。どこの宿場町だって馬ぐらいは通るだろうけど、流通の要みたいなところだから、

「飯盛女で集めんでも、なんぼでも客が来るやろし」
「客かって、こんな臭いところより小浜なり、近江八幡で遊びたいんじゃない」

 こんな下らない話をしてたんだけど亜美さんが、

「小浜の行商人は熊川宿を利用したのでしょうか」

 小浜から京都まで十八里らしいけど、小浜から熊川宿まで四里ぐらいになるらしい。そうなると残りは十四里になるけど、もう少し進む可能性はあるだろうって。それを言えば巡礼客もそうのはずだけど、

「これは当時じゃないとわからへんねんけど、竹生島まで今津から舟やんか」
「今みたいな定期客船じゃないのよね」

 竹生島は聖地で僧侶や神官しか住めないところで、今でも民家は一軒もないそう。そうなると舟で渡っても泊まれないから、

「昔は泊まれたらしいねん。明治の頃の天田愚庵の巡礼日記には、宿坊で休憩して本堂で通夜したってなってるねん。さらに今津から湖上三里、竹生島から長明寺が船路十里ってなっとるから、今津から竹生島を経由して近江八幡まで一日で行くのは無理やったと見たい」

 湖上三里ってどれぐらいだと思ったけど、陸の上でも水の上でも里は一緒だから三時間と考えて良いみたい。竹生島から長命寺まで十時間もかかるのなら、一日じゃ難しいよな。それに水路の弱点は天候の影響が大きいこと。

 だから昔は竹生島に泊るのがポピュラーの気がする。だったら小浜からなら一気に今津になりそうなものだけど、

「この辺は当時の人の感覚がわからんのやが」
「巡礼も物見遊山だから」

 いわゆる小浜観光をしたかもしれないって。小浜からは半日ぐらいで余裕で熊川宿に着くから、午前中に小浜観光をしてから熊川宿に向かった可能性か。そうでも理由を付けないと熊川宿に泊る理由が出てこないよな。それはそうと家康は得法寺に泊ったんだろうな。

「腰掛けの松があったやんか」

 おいおいあれが根拠かよ。そうそう家康もかなりの部隊を率いていたはずよね。

「ここら辺は想像や」

 家康が参戦してるのは間違いないけど、どれほどの軍勢だったかの記録が皆無に近いそう。姉川で五千ぐらいの説もあるけど、金ヶ崎にそれだけの軍勢を率いて来たのかも不明で良さそう。

「わからんけど少ない印象はあるねん」

 これもわからないとしか言いようがないのだけど、家康は木の芽峠の攻略に入っていたとは見られている。三河物語だそうだけど。

『信長も大事とおぼしめして、家康をあとに捨て置き給ひて、沙汰無しに、宵の口に引き取りたまひしを、夜明けて、木下藤吉、御案内者を申し立てて、退かされれ給ふ。金ヶ崎の退き口と申して、信長のおんために、大事の退き口也。このときの藤吉は、後の太閤也』

 これを素直に取ると、金ヶ崎城にいた信長が撤退を決めた時に、金ヶ崎城の軍議に来れる場所にいなくて、さらに敵地に踏み込んだ場所にいたとしか考えられないのよね。だから朝倉の追撃軍とも戦ったで筋が通るけど、

「五千もおったら逆襲して踏み潰せるんちゃうか」

 家康軍も苦しい立場だけど、本国が遠い分だけ結束力は強かったのは同意だ。家康が率いる部隊は強いのが定評だから、これだけの人数の部隊が逆襲も強力のはずだものね。

「姉川の時も強かったみたいやもんな」

 撤退戦は事情が違うだろうから同じに出来ないだろうけど、追撃する朝倉軍もそんなにいたかの問題も出てくるのか。

「それにやけど、京都からどないして帰ったかの問題も出て来る」

 ここもはっきりしないとこが多いみたいだけど、浅井軍は南下してきて京都と岐阜の交通を遮断しようとしたのはわかってる。遮断される前に駆け抜けたのかもしれないけど、とにもかくにもどうやって家康が三河に帰ったかの記録はないそう。

「とにかく無事に帰れたんは間違いあらへん」

 軍勢は多いほど動きが鈍くなるから家康軍は千とか二千ぐらいじゃんかったかとコトリさんは見ているよう。ホント歴史って欠けているピースが多いと思うよ。

「だからおもろいし、なんぼでも歴史小説が出て来るんやんか」

 たしかにね。作者によって戦国の英雄像はだいぶ変わるものね。

「戦国どころか、第二次大戦でもちゃうで」

 ああなるのは史観だって。要するに歴史を解釈する時の基本スタンスみたいなもの。史実と抜けてるところを埋め合わせる時に、一定の思想ファクターをかけて想像していくみたいな感じ。

「史観を持つのは悪いこっちゃないけど、そこに政治的イデオロギーがすぐに入り込むから胡散臭くなるのも歴史やねん」
「大戦前の皇国史観も相当なものだったけど、戦後の自虐史観と言うか、行き過ぎたマルクス的な史観というか」

 そんな時代があったらしいのは知っている。

「非武装中立万事解決主義もなぁ」

 コトリさんに言わせると、

「コトリかって戦争は大嫌いや。そやけどな、平和は天から降って来るもんやあらへん。自分で勝ち取り、守り抜くもんや。世の中の物事に話し合いは大事やけど、それで解決できるんはちょっとしかあらへんねん」

 もめ事の解決交渉で最後にものを言うのは力って身も蓋もないけど、

「あんまり言わんとこ。政治はコリゴリや」
「わたしも」