金ヶ崎の退き口では朝倉軍の不手際が酷評されるのですが、そこまで不手際だったのかは疑問です。表は信長公記に基づいた信長の動きですが、4/27~4/29は私の推測です。
月日 | 事柄 |
4/25 | 敦賀侵攻、手筒山城を落とす |
4/26 | 金ヶ崎開城 |
4/27 | 浅井離反の注進 |
4/28 | 金ヶ崎から佐柿に撤退 |
4/29 | 佐柿から熊川宿に移動 |
4/30 | 京都帰還 |
もし示し合わせてのものなら、それこそ信長が木の芽峠を越えて福井平野に雪崩れ込んだ時点でしょう。そこで浅井が離反し敦賀に攻め込めば、信長は福井平野で完全に袋のネズミになっているからです。だから朝倉に連絡なしの単独行動であったと見ます。
そうなると朝倉が信長軍の動きを知るには敦賀の信長軍の動きを見るしかありません。木の芽峠は南に新保、北に二つ屋の宿場がありますが、仮に二つ屋が朝倉軍の前線であったとして、そこから一乗谷まで約40kmで一日の距離になります。
木の芽峠に攻めかかられるのが必至の情勢で準備していたぐらいは想像しますが、そこに、
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信長軍は撤退の様子
この時に朝倉軍が全軍で効率よく追撃していれば信長軍に大損害を与えたはずとするのが通説ですが、追撃するにも木の芽峠を下りないと軍勢の展開は出来ません。木の芽峠を下りるには信長軍の先鋒部隊を叩き潰さないと前には進めない地形であったはずです。
さらに金ヶ崎から佐柿まで四里です。佐柿にある椿峠は要害で、朝倉軍は1563年から毎年のように攻め寄せながら一度も突破出来ていないぐらいです。信長軍もそこに後方部隊を置いているはずですから、そこまで逃げ込めばとりあえず安全圏です。
撤退戦はいつの時代でも困難なものですから、これをやり遂げた信長の手腕は称賛されてしかるべきですが、こういう条件で十分な追撃戦を行えなかった朝倉軍への酷評はやり過ぎと感じた次第です。