皇女の結婚ムック

 あくまでも気になっただけの話ですが、女性皇族の扱いがどうなっていたかを軽く調べてみました。現在は皇籍離脱後に結婚ですが、律令制が皇室に残っていた江戸期以前はどうだったかです。現在残っている最古の記録は養老律令の継嗣令となっており、まず

天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること{女帝の子もまた同じ}。それ以外は、いずれも諸王とすること。親王より五世(=五世の王 ※ここでは親王を一世として数える)は、王の名を得ているとしても皇親の範囲には含まない。

 これをかみ砕いてみると、

  1. 天皇の息子、娘はすべて親王であり、一世となる
  2. 二世から四世までは王であり、皇親に含める
  3. 五世も王ではあるが皇親ではない
 これも補足と時代の変遷がテンコモリあるのですが、皇親とは皇位継承権があるもので現在の皇族に近いものぐらいで良いと思います。後に六世王まで皇親に拡大されていますが、七世はどうなるかですが、臣籍降下扱いになるのが原則だそうです。

 原則と言うのは、七世王以降でも王を名乗り、賜姓されない系統があり、これを王氏と呼び準皇親扱いとしています。次に結婚ですが、

王が親王を娶ること、臣が五世の王を娶るのを許可すること。ただし、五世の王は、親王を娶ることはできない。

 これは女性皇族への規定と見て良く、

  1. 四世王までは互いに結婚できる
  2. 五世王も王となら結婚できるが、親王とは出来ない
 ここには明記されていませんが、女性皇族は臣下との結婚は認められていません。五世王も当初は結婚できたそうですが、706年に禁じられています。こりゃ、不自由だ。

 ただこの辺は変遷もあるようで、桓武天皇が793年に良家と大臣なら三世王の結婚を認めています。特例で二世王との結婚を認めたのもあります。これは9世紀から10世紀に多くなり、源氏物語の大宮、女三宮、落ち葉の宮、女二宮はすべて女性皇族です。

 しかし平安後期から鎌倉・室町時代は殆ど途絶えたそうです。理由としてwikipediaには、

女院の増加や内親王宣下の減少

 これも判じ物みたいでムックが必要だったのですが、女院とは院のことで、男性皇族なら院政の院に匹敵するものになります。元は后妃の中で国母になったものに与えられたもので、有名なものなら建礼門院とか、待賢門院とか、美福門院、八条院とかがあります。

 院号は名乗りだけではなく附属する荘園がセットになっているのが特徴です。つまりは自活できるだけの経済力を女院になると持てるということになります。女院も当初は国母だけでしたが、これが拡大されていった時期があるぐらいの解釈で良いかと思います。

 国母の女院なら隠居料ぐらいでしょうが、女院は未婚の内親王にも与えられるように拡大します。さらに女院の所領は相続されます。たとえば八条院なら、

    八条院→春華門院昇子内親王→順徳天皇→後高倉院→安嘉門院→亀山院→後宇多院→昭慶門院憙子内親王→後醍醐天皇
 天皇が相続するときもありますが、これも女性が優先して相続するようです。さらに言えば未婚の内親王が相続すれば結婚できなかったぐらいです。ここでさらにがあり、天皇の娘であっても淳仁天皇の時代から内親王宣下が必要になっています。

 内親王宣下を受けられない天皇の娘はタダの女王になりますが、おそらく内親王宣下と女院相続がセットになったぐらいの感触があります。増えた女院の相続者のみに内親王宣下を受けるぐらいでしょうか。

 ほんじゃ内親王宣下を受けられなかった天皇の娘がどうなるかですが、出家して門跡寺院に入るコースがメインだった感触があります。この辺は、天皇や親王の奥様が藤原氏が独占していた関係もあるはずです。藤原氏台頭の前は、皇親同士の結婚はワンサカあり、異母兄妹の結婚なんてゴロゴロいましたからね。

 おそらくですが、天皇の娘は釣り合い問題が大きすぎて誰も結婚できなくなっていったと見て良い気がします。同時に天皇直系の女系の子孫も残らなかったぐらいです。


 調べてきてはっとしたのですが、内親王は天皇の娘だけですが、女王はそれだけではないということです。ごく簡単には親王の娘も女王で、これが四世王でも、五世王でも生まれます。

 天皇家にも親戚がいます。宮家です。宮家は親王の家ぐらいが始まりのはずですが、世襲する宮家がまず成立します。世襲宮家は所領もあり、待遇は皇位の直接の継承権こそなかったものの、猶子として内親王宣下を受ければ皇位に付けるぐらいの準皇親みたいなものでしょうか。

 世襲宮家の中で世襲親王家が生まれ、皇位継承権を持つように変わって行きますが、世襲宮家ないし世襲親王家の奥様に互いの宮家の女王が選ばれるケースはありそうな気がします。有名な和宮も有栖川宮と結婚予定だったはずだからです。もっとも江戸時代は五摂家との降嫁は復活していましたし、その延長線上で家茂との結婚もありました。

 それはともかく、世襲宮家も、世襲親王家も女王が産まれているはずです。天皇の娘こそ女院なり、門跡寺院コースがありましたが、世襲宮家や世襲親王家となるとどうたっだろうはあります。


 天皇家も朝廷も戦国時代に衰微します。衰微したって子どもは産まれます。産まれたからこそ家が続いているのですが、有名な話に戦国時代の貴族は生活のために自分の娘を各地の有力大名に売ったと言うのがあります。妾にして生活費を稼いだぐらいです。

 貴族の娘が高く売れたのは、美貌と教養、さらに身分の高い女性を抱くと言う劣情もあったはずです。現代で強いて例えれば、お金持ちのお嬢様をカネに任せてみたいな、エロ小説のステレオ・タイプのシチュエーションです。

 女性蔑視の批判もあるでしょうが、そういう時代というか、そういう事を力任せにやっていた時代ぐらいにご理解ください。そういう嗜好を上犯とするらしくて秀吉が有名ですが、そういう嗜好の行き着く先が女王であり、究極として内親王が位置付けられます。

 さすがに表立ってはなかったと思いますが、密かに売り飛ばされた女王はいても不思議ありません。司馬遼太郎の国盗り物語に、頼芸の命を受けて庄九郎が今日に内親王を買いに行く話があります。これは創作だと思いますが、実話として存在しても不思議無いと思います。

 天皇の娘も生母によって扱いが変わるのが当時の常識です。腐っても鯛で、名門貴族の生母なら扱いはマシでしょうが、いわゆる天皇の気まぐれによるお手付きクラスの生母の女王なら・・・無かったとする方が無理がある気もしています。

 ふう、ふう、貴種流離譚的な設定を書くプランがあって、あれこれ調べた一部でした。作品になるかどうかは予定であって決定ではありません。