ツーリング日和9(第21話)後南朝

「コトリ、なに躍起になって調べてるの」
「大嫌いな太平記の時代や」

 コトリは歴女だけど南北朝時代は嫌いなんだよね。学者じゃなく趣味の歴史好きだから構わないようなものだけど、

「なに言うてるんや。学者なんか専門の時代以外に興味あらへんやろが」

 たしかにそうだ。コトリが調べてるのは南朝の歴史みたいだけど、わたしに言わせると後醍醐天皇で終わりみたいなもの。だけどその後も続いてるから南朝はあるのよね。ちなみに、

 後醍醐天皇
 後村上天皇
 長慶天皇
 後亀山天皇

 この四代となってる。とにかく南北朝時代は複雑なのだけど、

「そんなもん尊氏が英雄やなかったことに尽きる。モタモタ、モタモタしやがって、信長やったら・・・」

 時代が違うから比べられないよ。もっともわたしも尊氏の評価は高くないけどね。そんなコトリが調べてるのは南北朝時代の終りだね。南朝最後の最後の天皇の後亀山天皇の時に南北合一が為されるんだよ。

 南北合一についてはその前から両朝の接触はあったんだけど、南朝三代の長慶天皇が徹底抗戦派だったみたいで、四代の後亀山天皇の時代になってようやく実現したぐらいの流れになる。

「あの時点でも遅すぎたぐらいぐらいやった」

 武力的には北朝の優位が確定してるから、誰が見たって北朝による南朝の吸収合併みたいなものになる他ないじゃない。でもそれじゃあ南朝はウンと言えないから明徳の和約が結ばれたんだ。この和約は四か条からなり、

 ・南朝の後亀山天皇より北朝の後小松天皇への譲国の儀における神器の引渡しの実施。
 ・皇位は両統迭立とする
 ・国衙領を大覚寺統の領地とする。
 ・長講堂領を持明院統の領地とする

 このうち守られたのは後亀山天皇以下が京都に戻り三種の神器を北朝に渡し、自らは退位して後小松天皇が唯一の天皇にすることだけで良いと思う。それでもこれで南北合一がなり二度と分裂することなく現在に至っている。

 それでも揉めたのが南北朝で、とくに南朝側が強い不満を持ったとされるのが両統迭立になる。これは持明院統と大覚寺統が交代で皇位に就くって約束だけど、

「そんなもん守れるはずないやろ。守られへんから鎌倉幕府崩壊から南北朝時代になったんやんか」

 そうなんだよね。とくにこの明徳の和約は北朝が直接関与したものじゃなく室町幕府が主導したものなんだ。だから北朝として都合の悪い両統迭立なんて聞く耳もなかったで良いと思う。さらに言えば室町幕府だって南朝の天皇なんか欲しくないはずだものね。

「両統迭立なんかやったら、また南北朝に逆戻りせんとも限らんしな」

 だけど皇位はともかく皇統としては大覚寺統は残ったのは残った。この辺が日本史の面白いところだけど、弱体化した南朝を北朝は冷遇はしたけど即座に皆殺しにしなかったものね。他の国の王朝なら虐殺されるのだろうけどね。

 明徳の和約を反故にされた大覚寺統の皇族だけど、この後も細々と皇位回復のための活動を続けることになる。言っても吉野とかに兵をあげて室町幕府に叩き潰される小さな反乱程度のものだけどね。

「そういう活動を今では後南朝と呼ぶねんけど、とにかく資料が少のうてはっきりせえへん」

 南北合一後の南朝の皇族についての記録が乏しいのよね。南朝初代の後醍醐天皇も子沢山だったし、二代の後村上天皇も子どもは多かったはず。

「ヒマやから精出しとったんちゃうか」

 そこまではわからないけど三代の長慶天皇も少なからず子どもはいる。息子がいれば宮家も出来るはずだけど、これがとにかくはっきりしないのよね。南北合一と言っても実質的に北朝に吸収されたものだから、

「南朝の宮家は京都に行かんかったんか、行っても宮家として扱われんかったんかもしれん」

 落ち目になればそんなものだけど、それでも南朝系の宮家が存在したらしいのだけはわかってる。

「とりあえずやけど惟成親王がおる」

 南朝三代目の長慶天皇は後村上天皇の息子だけど、四代目の後亀山天皇は弟で、南北合一時の東宮だった惟成親王も弟。つまりはすべて後村上天皇の息子なんだよ。惟成親王は南北合一後に東宮の地位を失ったけど護聖院宮家になったで良さそうなんだ。

 それと後亀山天皇の息子が小倉宮になったらしいのと、長慶天皇の息子が玉川宮になったらしいとなっている。どれも記録に乏しすぎて『らしい』だろうばかりになっているのが実情。

「それだけ冷遇されて存在感がなかったんやろ」

 このうち小倉宮はまだしも記録が残ってる方かな。小倉宮は初代が恒敦、二代が聖承となってる。なぜか記録に王と書いてないけど後亀山天皇の息子と孫なのは確実そう。この二代の聖承が事件を起こしている。

 北朝の後小松天皇は両統迭立の約束を反故にして称光天皇を即位させるのだけど、息子を残さずに亡くなるんだよね。これで持明院統の嫡系は死に絶えたから大覚寺統に皇位を回すべきだと主張したんだよ。

「観応の擾乱の余波やな。そやけど元の正統に戻っただけやから通るかい」

 ここもややこしすぎるから簡単にするけど、足利氏の内紛で一時的に北朝が廃絶になる事件が起こるんだよ。尊氏の政治的な奇策みたいなもだけど、この時に北朝二代の崇光天皇だったのだけど退位させられたのよね。

 それからあれこれあって、北朝は復活するのだけど北朝の三代目は崇光天皇の弟の後光厳天皇になるんだ。だけどこれが遺恨を残すことになる。

「崇光天皇は光厳天皇の長男やから嫡系やねん。またぞろ二系統の皇位争いになりかねへんぐらいかな」

 だけどそうはならずに皇位は後光厳天皇から称光天皇まで弟の家の皇統が続いている。一方で長男の崇光天皇の子孫も伏見宮家として続いてたんだ。弟の皇統が途絶えれば長男の皇統に戻しただけって事になる。

 持明院統だけで見ればもともと崇光天皇の伏見宮家の方が嫡系とも言えるから、コトリの言う通り元の嫡系の正統に戻っただけと言えなくもない。この伏見宮家の皇統だけど、

「そのまま現在に至るや」

 小倉宮聖承は兵まで起こしたけど皇位は遠く、小倉宮家はこれで歴史から消えている。後の二つは?

「親北朝、親足利氏でとりあえず生き残ってたみたいやが・・・」

 室町幕府は観応の擾乱だけでなく、とにかく内紛が多い幕府。これも色々原因があるけど尊氏が信長や秀吉、家康のような英雄じゃなかった事と、そのために足利将軍家の力が弱く、将軍家より大きな大名がゴロゴロいたこと。

 そういう連中が権力争いをするから、いつまで経っても天下泰平にならないのよ。その最たるものが応仁の乱で良いと思う。応仁の乱までは話が飛び過ぎるけど、足利幕府も少しでも内紛のタネを取り除こうとしたんだよ。

「そういうこっちゃ。南朝復活を大義名分にするやつが出て来るから、南朝の火種を消してまうことにしたんや」

 これは小倉宮の反乱行動を重視した結果としても良いかもしれない。そのために玉川宮家も護聖院宮家も実質的にお取り潰しで息子は坊主にさせられたぐらいで良さそう。そのせいか名前も坊主風のもので記録に残り、本名の記録がされなかったみたいなんだ。

 だけど江戸時代風に言えばお家断絶を喰らったようなものだから、反発が起こったのよね。まずは護聖院宮家だけど二代目の世明王の死後すぐに臣籍降下させられ宮家は廃絶になっている。

 世明王の子に通蔵主、金蔵主の兄弟がいるんだけど禁闕の変を起こし三種の神器を奪い比叡山に立て籠もってる。すぐに鎮圧されたけど、この時に通蔵主も金蔵主も亡くなってる。

「世明王の弟とされる円胤も楠木正理に擁されて挙兵したがこれも殺されとる」

 これで護聖院宮家の子孫は歴史から完全に消えることになる。これが玉川宮になるともっとわからない。因幡に遷ったらしいの記録があるそうだけどそれぐらい。ただ玉川宮の子孫として名前を残しているのが梵勝、梵仲の兄弟。

「北山宮自天王、河野宮忠義王になったとされとるが、これもはっきりせえへんとこがある」

 禁闕の変で八尺瓊勾玉のみが吉野にもたらされたんだよね。これを自天王、忠義王が守っていたのだけど奪還作戦に遭って殺されたのが長禄の変。これだって自天王、忠義王が本当に玉川宮の子孫かどうかは不明なんだよ。

「西陣南帝が最後やな」

 これも今から思えば奇々怪々の話なんだけど、応仁の乱の真っ最中に西軍が南朝の末裔を迎え入れて天皇として擁立させられそうになる事件が起こっている。山名宗全の陰謀みたいだけど、もちろん実を結ばずに終わっている。

 歴史から南朝が消えたのは勢力の衰えもあるけど、争っていた天皇位どころか朝廷の勢力も権威も応仁の乱で完全に失墜してしまったのもあると思う。応仁の乱の後は戦国時代になるけど、戦国の英雄は信長みたいな例外的なのを除いて日本の最高権威は足利将軍家と思い込んでいたぐらい。

「信長かって、幕府を開きたがる義昭に手を焼きまくって、天皇を担ぐことにしたぐらいやもんな」

 信長だって最初に神輿として担いだのは義昭だものね。義昭も義昭で、征夷大将軍になったからには、幕府を再興して信長は当然家臣として忠誠を尽くすものぐらいと考えてたはず。その軋轢が信長包囲網になったぐらい。

 衰えても足利将軍の権威はそれぐらいあったけど、天皇とか朝廷はこの世にあるぐらいは知っていた程度。そうだね、せいぜい神主の親玉ぐらいにしか思ってなかったぐらいかな。でも歴史の不思議さは幕末になって再び南朝が脚光を浴びるのよね。

「維新志士はもちろんやけど、当時の読者階級である知識人の歴史常識が南朝こそ正統やったからな。明治天皇も逆らわんと南朝を正統にしてもたもんな」

 でも今の天皇家は南北朝感覚で言えば北朝の持明院統の子孫なんだよね。この辺のギャップだけは今でも南北朝時代を引きずっているのかもしれない。

「南朝の皇族はすぐには抹殺されんかったけど、徐々に消されていったぐらいや。せめて明徳の和約の時に南朝の姫君が后にでもなっとったら、女系でも血筋は残ったかもな」

 言われてみれば。今だって結婚は両グループの和解とか融和の象徴として使われるものね。武家同士なら出てくる発想だけど、公家と言うか皇族ではなかったのかもしれない。というか、そういう火種さえ北朝は拒否したのかもね。

「南朝かって嫁を出して屈服する形を拒否したんかもしれへんで」