外戚政治考2

wikipediaより、

後三条院とその生母である陽明門院は、白河天皇の異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王皇位を継がせる意志を持ち、譲位時に実仁親王を皇太弟と定めた。白河天皇はこれに反発したが、生前の後三条上皇や他の反藤原氏の貴族の意志もあり(白河天皇は藤原茂子を母親としており、反摂関政治の立場としては好ましい状況ではなかった)、これを認めざるを得なかった。

これを題材にしてみます・・・と思って系図で確認しようと思ったのですが正直なところウンザリさせられました。とりあえず書いてみたのが、

まずなんですが

こうなります。それはエエのですけど皇室と摂関家は複雑かつ濃密な姻戚関係があるのがわかります。これでもかなり単純化しているのですが、フルにすれば・・・到底書ききれません。ただこれを書きながら外戚の地位とはなんぞやみたいな感想を抱きました。摂関家は忠平を始祖とするぐらいの解釈で良さそうなのですが、息子も娘も代々結構出来ています。娘は入内させて外戚関係の構築に励む材料となったと思うのですが、ここでまず一つの疑問が出ます。


女性の意識は?

当時の上流階級の家族制度は産まれた子どもは母方の実家で養育するのが原則ぐらいの理解で良さそうです。でもってある程度の年齢(成人までかどうかは存じません)になれば父方の家に引き取られる手順です。そのために

  • 母方の実家は身内感覚
  • 父方の実家は就職先感覚
こういう感覚が養われるんじゃないかの推測です。このシステムで外戚政治体制下のの天皇摂関家に対する姿勢・感情は説明可能なんですが、娘はどうなんだろうです。娘も息子同様の養育環境に置かれるはずですから、意識は母方の実家に肉親意識を持つはずです。実際そうであった傍証として光明皇后は署名に「藤三娘」と書いていたものがあったはずです。そうなれば摂関家に対しても嫁さんの実家の影響はあっても不思議なくなります。

もちろんあったとは思います。ここで問題が複雑になるのは男性は父方の実家で働くのですが、女性は嫁に出ます。この時の女性の意識はどうなんだろうかです。女性の帰属意識に影響を与えるものとして、

  1. 養育された母方の実家
  2. 引き取られた父方の実家
  3. 嫁ぎ先
この3つがある訳です。どこが果たして最優先されるんだろうかです。つうのも母方の実家意識が最優先ならば、摂関政治システムが崩れそうな気がするからです。ドライな感情の父方実家よりウエットな感情の母方実家を優先して影響力を行使される可能性があるからです。外戚政治システムを機能させるには女性に父方実家の帰属意識を強く持ってもらわないと困るぐらいです。そうなれば父方実家での息子と娘の扱いは相当差があったのかもしれません。

息子は跡取り候補者の1人に過ぎませんから、異母兄弟はもちろんの事、同母兄弟であってもライバル教育を行ったぐらいです。一方の女性は父方実家の先兵として婚姻関係を構築する使命が最優先されるので、父方実家に帰属意識を強く持ってもらうために「蝶よ、花よ」と扱われたぐらいは想像できそうなところです。

ではでは嫁ぎ先はどうなんでしょうか。ここは夫婦の愛情と言うか男女の仲になって来る気がします。現代と同じかどうかはわかりませんが、父方実家の便宜優先のみの意識で終始していたかどうかは・・・どうなんでしょうか。


禎子内親王

禎子内親王の母は道長の娘の妍子ですから、禎子内親王道長の家で養育されたはずです。つまりは基本的な帰属意識摂関家になります。ただなんですが上記した推測が当たっているなら、父方実家に引き取られた後に父方実家に対する帰属意識の薫陶がなされた可能性も出てくるわけです。実はここも判らなくて、臣下の家と、皇室が同じであったかどうかが不明です。ただなんですがwikipediaに、

禎子内親王の誕生は祖父道長と父三条天皇の間がしっくりいかない最中のことであり、それだけに皇子誕生で関係改善を期していた道長は女子の誕生に不機嫌であった。しかし三条天皇はこの末の皇女に非常に愛情を注ぎ、道長ものちにはその外孫にふさわしく遇して、裳着の際には伯母の太皇太后彰子が腰結いの役をつとめている。

皇室も慣例として内親王には「蝶よ、花よ」教育をやったかどうかは不明ですが、父である三条天皇が禎子内親王に対して愛情を注いだ「らしい」事は窺えます。そこまではエエとして良くわか来のが何故に道長後朱雀天皇に嫁がせたんだろうです。婚姻政策は政治そのものです。禎子内親王道長にとって身内ですが、禎子内親王の産んだ子供は摂関家から遠い関係になります。難しいお話ではなく、禎子内親王の子どもは禎子内親王の実家で養育する事になるからです。

ここも実は良くわからないところなんです。禎子内親王の子どもの母方の実家ってどこになるのかです。皇室って事になるのはなるのですが、当時の皇位継承状況は、

  • 冷泉系・・・冷泉 → 花山 → 三条 → 敦明親王
  • 円融系・・・円融 → 一条 → 後一条 → 後朱雀
この2系統があります。禎子内親王三条天皇の子どもであり、三条天皇の正統は敦明親王が継いでいると見えます。そうなれば三条天皇の息子(禎子内親王の異母兄妹)である敦明親王家が禎子内親王の実家になるのかなぁ・・・系図上ではそうなる可能性があるぐらいしか言いようがありません。どうも個人的にはどうもそうだった気がしています。敦明親王摂関家外戚ではなかっために道長の圧力で皇位を継げなかったのですが、その代わり、

道長の計らいで小一条院太上天皇の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得る一方で、道長の娘寛子(母・源明子)を妃に迎える。更に家司として受領・随身を受け、親王所生の子供達が三条天皇の猶子の資格として二世王でありながら親王宣下を受けるなど破格の待遇を受けた。

ぐるぐる回る様なお話ですが、後三条天皇道長から圧迫を受けた円融系皇統への帰属意識を持っていたんじゃなかろうかの推測が出て来ます。これは禎子内親王もそうであった可能性があります。


主流と分流

上で示した系図を良く見て欲しいのですが、摂関家と言っても数多の分流が発生しています。たぶん当時の相続慣例だと思うのですが、摂関本流を継げなかった者は分流を立てていると解釈して良さそうです。当時の貴族の主たる収入は封戸収入(給料)だったので、高位に就きさえすれば一家をなすぐらいの収入は確保できたんだと思っています。そうやって一族の者を高位に就かせる事が出来るのが摂関家の権勢だとも言えます。

この本流と分流の関係ですが道長以前はかなり流動的であった感じがします。道長までの系図はバッサリ単純化していますが、摂関家の当主の座は複雑に入れ替わっています。これは兄弟間で外孫皇子の皇位継承レースがあり、これに勝った者が本流となるシステムです。言い換えれば皇位継承の度に自分の外孫を皇位に就けた者が本流となり、敗れた者は分流に甘んじるぐらいです。

この本流と分流の争いですが、道長の出現により変質したように見えます。道長登場からは摂関家世襲に変わります。つまり本流は本家として固定され、分流は分家として固定されるぐらいです。これは道長も兄弟親族との本流争いに勝ち抜いた者ですから、自分の血統を本流として固定しようの思惑であったと考えています。またそれを可能にする強大な政治力も道長にあったと見て良いと思います。

本流争い状態と本家固定では何が違うかと言えば、本家固定では摂関家の外孫天皇該当者は本家の娘の子どもに限る事になります。分家の娘の子どもの外孫親王は除外される事になります。本家固定は皇位継承者が限定される上に、すべて自分の外孫ですから皇位継承がスムーズになるメリットがあります。このメリットはチトわかりにくいかもしれませんが、皇位継承はそれにより臣下のメリット・デメリットに直結しますから常に紛争のタネになり、これをなんとか安定させたいの政治的課題が時代背景としてあったとされます。

デメリットはメリットの裏返しになります。皇位継承者が限定される前提は本家の娘が順調に皇子を産んでくれる事になります。これは道長の代は問題を起こしませんでしたが、頼通の代に現実化します。頼通はは娘が1人しか恵まれず、そのうえ皇子を産まなかったのです。そうなれば本家は外孫天皇を擁立できず、さらに分家の外孫親王を排除していますからニッチもサッチといかない状況に陥る訳です。

それと本家固定となれば、栄華は本家に集中し、分家は固定された冷遇に甘んじざるを得なくなります。本流・分流時代であれば逆転の可能性がありましたが、本家固定では無くなってしまいます。ここも判りにくい説明になってしまうのですが、

  • 道長の前の政争は摂関家の本流争いであり、勝敗の結果は本流と分流にる(次の本流争いで結果はまた変わる)
  • 道長以後の政争は打倒本家になる(サイバイバル戦になる)
系図を見ると摂関家と皇室の姻戚関係はベタベタなんですが、本家筋と分家筋は道長以後は敵対関係と見ないといけないようです。もう少し細かく見ると道長の子どもも2系統に分かれる様で、
  • 源倫子系
  • 源明子系
本家筋は源倫子系であり、源明子系は分家筋にみなされたいたぐらいで良いようです。道長の息子の動きが判りやすくて、倫子系の頼通と教通は協調路線を取っていますが、明子系の能信は反摂関家の立場で動いています。


白河即位の時の動き

後三条時代は反摂関家時代で良いと思うのですが、その後継を巡る思惑の解釈にやっと戻ります。後三条の息子は3人です。

白河は第1皇子であり、母も摂関分家筋ですから白河即位自体には異論はなかったと見て良さそうです。問題は白河即位時に東宮を立てようとした点です。白河即位は1072年なんですが、その時点では「たぶん」子どもはいません。子どもはいませんがまだ20歳ですから、これから生まれる子供が皇太子になるのを期待するのが一般的です。しかし即位の条件に異母兄弟を東宮にするのを強要されています。

なぜにそういう動きになったのかの説明として即位前に白河は摂関本家の師実の娘である賢子を嫁にしています。もしこの賢子が皇子を産めば摂関家による外戚政治が復活するのを警戒したためぐらいの説明になっています。ただなんですが話が矛盾している気がします。賢子が入内したのは即位の1年前です。この入内も白河が大恋愛の末に家族の説得を振り切ってのものではないと思います。当たり前ですが父である後三条の政治的思惑の上での政略結婚のはずです。そうですねぇ、後三条時代に争った摂関本家と折り合いをつけておこうぐらいです。

つまり父親である後三条は摂関本家と白河の婚姻を認めており、さらに言えば賢子の子どもが次代を継ぐ事があるのも容認していたと受け取れます。そうなると異母兄弟を東宮にさせたがっていたのは後三条院と陽明門院になってきます。この2人の女性ですが、系図を遡ればどちらも三条天皇に行き着きます。今日、長々と書いていた帰属意識の問題で、三条天皇の属した冷泉系の皇統復活を狙っていたのではないかと思えてきました。後三条帰属意識の中に冷泉系があり妻と母親に迫られると曖昧な態度を取ったぐらいの見方です。

だからなんだと言う話になりますが、母系が大きな影響を随所に及ぼすと言う話があります。そうやって見ると面白い見方が出来るの話はあるのですが、実際やってみると・・・難しいですねぇ。父系は系図で系譜が明らかですが、母系は意識問題になり、その時にどこの家に帰属意識を強くもっていたかなんて想像でしか語れないもので。。。。