外戚政治考

私の個人的な知識整理です。


天皇外戚とは?

天皇の継承権があるのは皇室の子孫のみです。平たく言えば○○天皇の皇子とその子孫になります。当たり前と言われそうですが、たとえば信長がいくら権力を極めようとも天皇にはなれないって事になります。ただし天皇に自分の娘を嫁がす事は可能です。つまり天皇と自分の娘の間に出来た皇子を天皇にする事は可能ということです。自分の娘と天皇の間に出来た子供は孫ですが、嫁ぎ先の孫なので外孫って事になります。この外孫の皇子が天皇になれば母親方の実家が外戚になります。ではでは、天皇に嫁がせた娘が産んだ皇女が天皇と結婚した場合はどうなるかです。ややこしいので実例を出します。

道長の娘の妍子は三条天皇と結婚して禎子内親王を産んでいます。禎子内親王道長の外孫になります。この外孫である禎子内親王後朱雀天皇と結婚し後三条を産んでいます。道長にとって後三条は外曾孫になります。現在的な感覚なら孫も可愛けりゃ、曾孫はもっと可愛いんじゃないかと思ったりしますが、孫と曾孫では意味がかなり異なるのが平安時代です。Bugsy様に丁寧な解説を頂きましたが平安貴族の子弟は母方の実家で養育されます。天皇とて同じです。

人は養育された人(家)に情を強く持ちます。成人(もうちょっと早いかもしれませんが調べてません)すれば本当の実家(父方の家)に戻りますが、感覚として「母方も実家」感覚が育まれます。これじゃ何を言っているのか判らないので、

  1. 養育期の母方の実家感情
  2. 成人後の父方の実家感覚
母方も父方も実家には違いないのですが、二つの実家に対する思いはかなり違うと思います。まず母方への実家感情は肉親感情だったんじゃないかと考えます。いわゆる身内感覚です。これに較べると父方の実家は成人してから入る関係もあってもっとドライな感覚、それこそ就職先みたいなものとすれば言いすぎでしょうか。上の系図で言うと禎子内親王は藤原家の人になりますが、禎子内親王の子である後三条天皇家の人になってしまいます。ここも実態的には微妙で、後三条も禎子内親王摂関家に肉親感情を抱く関係になりますから、必ずしも摂関家にとって「身内でない」まで言い切れない気がしますが、どうも摂関家から見ると全く他所の人として扱われた「らしい」です。

これは天皇の世継ぎは摂関家の死命を制しかねない最重要政治問題だからとするのが良さそうです。そのために「たぶん身内と思ってくれているだろう」ぐらいの甘い判断は許されなかったんだと思っています。摂関家にとって身内としての天皇として擁立できるのは、たぶん身内と思ってくれるだろうではダメで、あくまでも生まれた時からしっかり手許で薫陶した外孫だけが皇位継承権者だけであるとの判断です。まあ自分が散々やっている手法ですから逆の立場になる怖さも熟知していたぐらいでしょうか。

純化すると外孫と外曾孫の違いは摂関家で養育(摂関家の身内教育)されたか否かであり、その差は決定的に近いほどの差があるぐらいになります。


No.2の意味

藤原氏の政治手法は常にNo.2である事です。知ってはいたのですが、教科書的には藤原氏の権勢は天皇を飾り物にしている感じで受け取っていました。ただどうも誤解をしている部分があったようです。天皇はただの飾り物ではないって点です。No.2の権威はNo.1の権威に支えられています。No.1の権威が高いほどNo.2の権威は高まります。天皇はその気になれば摂関家でも取り潰せる実力・権威があったとするのが良いようです。その気とは天皇の自発的意志です。No.1にそれぐらいの権威があってこそNo.2の権威が高まるって仕組みです。

ただ額面通りにNo.1に自発的意志を揮われたら政治の実権を握る事が出来ません。藤原氏の政治戦術はNo.1に自発的意志を発揮させない様に封じ込める事であったと考えています。天皇の自発的意志が自然に摂関家擁護に動き、間違っても摂関家攻撃にならないようにするには、天皇を身内の人間にしてしまうのが有効です。天皇は朝廷の主宰者ですから、朝廷で誰が味方かを考えると思いますし、天皇でなくともそういう時にまず信頼を置くのは身内ぐらいの見方です。

なんとなくですが、奈良の末期に出現した桓武の時に痛感したんじゃないかと思います。いや後三条の170年前の宇多天皇の時にも藤原氏宇多天皇の活動に手を焼いています。宇多天皇じゃ判りにくいのなら菅原道真を取り立てた天皇と言えば分るかと思います。とにかく天皇がその気になれば「どうにもならん」の教訓です。天皇はある種のジョーカーであり、ジョーカーが独り歩きされるとトンデモないぐらいのところです。そのために自家製ジョーカーを保持する事に血道を上げたのが摂関政治の一つの側面の気がしています。


院政にマルっと移行してしまったのは・・・

摂関家はNo.1を自分の都合の良い飾り物にして政権を握っていましたが、頼通の時代に外孫天皇を維持できなくなってしまいます。ほいでも後三条の子どもは閑院流藤原氏道長の叔父さんの家系)の娘の子どもですから、藤原氏に活気があれば閑院流藤原氏が新たな摂関家として台頭していたはずです。奈良期はそんな感じでした。ところが藤原氏動脈硬化を起こしていたと見てよさそうです。平安期のうちに藤原氏の家もそれぞれの家格が固定してしまっていたようです。なんというか摂政や関白を出せるのは摂関家の人間に限るみたいな感じです。つまり閑院流藤原氏では外孫が天皇であっても摂政・関白に容易になれなかったぐらいです。wikipediaより、

鳥羽即位時、公実は摂関家の若年の当主忠実を侮り、幼帝の外舅の地位にある自分こそ摂政に就任すべしと主張したが、「五代もの間、並の公卿として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当源俊明に一蹴された。

まあ鳥羽即位後には白河上皇院政を始めるわけで、政治的思惑として道長時代の様な外戚政治をやられたら困るの判断もあったとは思います。こうやって外戚の台頭が抑え込まれると、摂関時代に政治システムとして休眠状態であったNo.1の実力が発揮される事になります。No.1が自発的意志で政治権力を行使すれば摂関家でも止められないのは後三条の荘園整理令が摂関家にも及んだ事で判ります。摂関家藤原氏にとって不運だったのは、外戚の地位を保持できなくなった途端に後三条が出現し、さらには白河法皇と言う怪物が出現した事かもしれません。宇多天皇の時にも院政チックな政治形態に移行しつつあったようですが、この時は次代の醍醐天皇を取り込んで失地回復を果たしています。凡庸な天皇であれば元の鞘に収まった可能性もあったからです。。

でもこれが歴史の栄枯盛衰かもしれません。栄える時には人材が次々と現れますが、衰え始めると枯渇するのが歴史の一つの法則でもあります。藤原氏が頼通の晩年に失った実質的なトップの座を二度と取り返す事が出来なかったのは紛れもない史実です。