院政の先駆け・後三条天皇

後三条天皇は恥ずかしながら初めて聞いた名前でした。天皇諡号も平安期に入ってからは京都の地名に因んだものが多くなり、その上で「後」が付くものが量産されます。さらに藤原氏の勢力が文字通り朝廷を覆うようなものになり、どうしても天皇個人の活動の印象が薄いところがあります。しかし摂関政治時代から院政時代に転換を調べてみると非常に重要な人物であることに今さらながら気づきました。院政と言えば白河法皇になるのですが、後三条天皇白河天皇の先代で白河の父になります。後三条天皇wikipediaより、

宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏外戚としない天皇となった

これだけじゃ何の事やらわからないので系図を書いてみます。

摂関政治システムは自分の娘を入内させ、その娘が生んだ子供(つまりは外孫)を天皇にする事で権力を握るものぐらいで良いかと存じます。つまりは自分は天皇の外舅(母方の祖父)の地位にいる事になります。系図はそれを意識して書いていますが、系図にある道長の3人の娘は

  1. 彰子は66代一条天皇に入内し、68代後一条天皇、69代後朱雀天皇を産む
  2. 妍子は67代三条天皇に入内する
  3. 嬉子は69代後朱雀天皇に入内し、70代後冷泉天皇を産む
後冷泉天皇までは道長の外孫ですが、71代の後三条天皇は外曾孫になります。妍子が三条天皇との間に産んだ禎子内親王の子になるからです。それでもバリバリの血縁関係だと思うのですが、摂関家と皇室の関係に於ては大事件だったようです。

どうもなんですが天皇外戚になる条件は天皇の外舅である事のようです。この外舅と言うのは当主、この場合では道長が存命中であるかどうかも無関係のようです。と言うのは道長は1072年に死亡しています。道長の次はその子である頼通が摂関家の長者(当主)になるのですが、頼通が摂関家を継いだ時の後一条天皇も、その次の後朱雀天皇も、さらにその次の後冷泉天皇道長の外孫ではありますが、頼通にとっては甥になります。どうも当主ではなく、その家の外孫が天皇であれば外戚になるようです。

実はもう一つ判らないところがありまして、なぜに外戚であれば権力を揮えるかです。これも「天皇 > 外戚」の力関係で、天皇の親戚優遇で引き立てられるお話なら理解できるのですが、道長天皇の力関係は「道長 > 天皇」に思えてなりません。どう考えても天皇道長の後ろ盾になって保護している関係に思えないからです。それとも私の思い違いで、平安期でも天皇の力は絶対的で、道長とて天皇外戚という地位を得、天皇が後ろ盾になってくれたからこそ栄華の時代を築けたのでしょうか。どうもその辺のメカニズムが理解できないところがあります。

とにかく天皇外戚である事は平安朝廷の中では大きな意味を持つぐらいで話を進めます。後三条に行くまでの系図wikipediaから引用します。

村上天皇の後に冷泉天皇円融天皇の2系統が出現しているのがわかります。道長は抜かりなく冷泉天皇の子である三条天皇にも、円融天皇の子である一条天皇にも娘を入内させています。ここで三条天皇には皇子がいますが、これは道長の外孫ではなかったため、道長の圧力で一条天皇系に皇位が収束されます。問題は後朱雀天皇の後継で、

後冷泉は摂関家外戚であるだけでなく、後三条の兄でもあったので皇位に就いています。ここまでは摂関政治体制の文脈で理解できるところです。ここで後朱雀は後三条東宮にする事を強く求めたとなっています。頼通は賛成しなかったようですが、天皇のたっての願いであると言う事で最終的には不承不承ながら了解したようです。しかし頼通は後三条皇位に就ける気は毛頭なかったようです。頼通も道長と同様に天皇に自分の娘を入内させ、娘が皇子を産めば皇太子にするつもりだったようです。後三条の皇太弟は暫定と言うか、形の上で折れただけのものであったらしく、東宮時代の後三条は相当な冷遇を頼通から受けたとなっています。

ところが後冷泉は25年間在位していましたが、子どもに恵まれませんでした。1人だけ皇子が生まれたのですが早世し、後は梨のツブテです。頼通も息子は6人いますが娘は1人しか恵まれていません。頼通も摂関家の政治手法を踏襲し天皇家に外孫を作り外戚の地位を確保しようとしていますが、後冷泉に入内した頼通の娘は皇子を作れていません。頼通は最高権力者の権威で以て後冷泉の先代の後朱雀に養女(これは例外的なものになるようです)を入内させていますが、これまた皇子に恵まれていません。さらに頼通の弟の教通の娘を後冷泉に入内させていますが、これも空振りに終わっています。

頼通は道長と並んで摂関政治の黄金時代を築いた人物ですが、摂関政治の原動力である天皇外戚の地位を維持できなかった事になります。この事は頼通に取って痛恨事であったようで、後冷泉が崩御した時に失意のあまり宇治に隠棲してしまっています。後冷泉の跡は頼通がお払い箱にするつもりだった後三条になります。

ここにはもう一つ底流があったと考えて良さそうです。。世は藤原氏の時代であり、上級貴族はほぼ藤原氏及び藤原氏の血を引く者で独占しているとしても良いかと思います。藤原氏不比等の後に4家に分裂していますが、様々な経緯の末に藤原氏の主流は北家です。この北家も時代が下るとさらに分裂していたようです。その北家の中で圧倒的な強さを誇っていたのが摂関家です。摂関家以外にも藤原氏はいるのですが、摂関家の栄華に対して対立関係が出来ていたぐらいに考えて良さそうです。まあ、まあ出来て当然でしょう。

そういう気運の下地があったところに摂関家外戚の地位を保持するのに失敗すると言う事件が起こったぐらいに見ても良さそうです。非摂関家系の藤原氏も含め、反摂関家系の勢力が後三条政権に集まったぐらいでしょうか。後三条の政治自体はwikipediaより、

決して報復的態度を取らないように公正な態度を示した。

こうは書かれていますが一方で、

頼通が失意のあまり引退した後、上東門院彰子の推挙で弟の教通を関白にしたが、反摂関家の急先鋒で東宮時代の天皇を庇護していた故能信の養子の藤原能長や、村上源氏源師房や源経長等を登用して摂関家の政権独占打破を図り、大江匡房や藤原実政等の中級貴族などを登用し、積極的に親政を行った

この辺の解釈ですが、後三条摂関家にあからさまな報復的姿勢を取る様な愚かな事はしなかったのですが、頼通の外戚政策の結果的な失敗を巧みに利用し、後三条も非摂関家勢力を巧みに取り込んだと考えて良さそうです。それと人間ですから東宮時代の感情的なしこりも確実にあったと見て良さそうです。後三条の在位はわずか5年ですが、長年の課題であった荘園の本格的な整理に乗り出します。wikipediaより、

特に延久の荘園整理令は、今までの整理令に見られなかった緻密さと公正さが見られ、そのために基準外の摂関家領が没収される等(『後二条師通記』に記載有り)、摂関家の経済基盤に大打撃を与えた。

これは表向きには朝廷の財政基盤の再建ですが、モロ摂関家潰しに見えなくもありません。摂関家も抵抗したかったんでしょうが、これまで絶大な切り札あった外戚の地位を失っており、さらには東宮時代の冷遇のツケを確実に支払わされたぐらいの構図と見ます。ここで少し驚いたのは摂関家に対する荘園整理は頼通存命中に行われています。wikipediaより、

愚管抄』は記録所が頼通にも文書提出を求めたとき、「そんなものはないので全て没収しても構わない」と答え、頼通の荘園のみ文書の提出を免除されたという話を伝えているが、実際には頼通の荘園も文書を提出したことや、その審査の過程で規定外の荘園が没収されたことなどが、孫の師通の日記『後二条師通記』に記されている。もっとも、頼通の荘園の中核であった平等院領の9か所については、全く手をつけることが出来なかった。

ここも平等院領に関しては書類が整っていたための説もありますが、ここまで天皇摂関家に強権を揮えた事にビックリしました。でもって次のところが院政については案外重要そうに思います。

1072年、即位後4年にて第一皇子貞仁親王に譲位して院政を開こうと図ったが、翌年には病に倒れ、40歳で崩御した。尚、近年の研究では、天皇の退位は院政の実施を図ったものではなく、病によるものとする説が有力である。後三条天皇の治世は摂関政治から院政へ移行する過渡期としての役割となった。

「近年の研究」の詳細は存じませんが貞仁親王白河天皇から白河法皇になり院政を始めたのは史実です。院政と言う政治形態が白河のオリジナルなのか、それとも後三条が構想として抱いており、それを白河に伝えていたのかを確認するのは無理じゃないかと思っています。確実そうなのは、後三条は白河に摂関家さえ圧迫出来る政治権力を渡していたぐらいは言っても良さそうな気はしています。