頼通雑感

摂関政治が頂点に達したのは道長の時代ぐらいの理解で良いと思っています。道長の次の頼通の時代も絶頂期だったと思っています。ところが「突然」ってな感じで白河法皇による院政時代になります。まあ一般的に面白いのはその次の源平時代になるのですが、こうやって歴史のムックをやっていると「なぜ」に興味がわきます。色々調べてみてのとりあえずの結論は摂関政治が栄え過ぎた反動と藤原氏の変質・衰退の気がしています。とりあえずなんですが、摂関政治時代の貴族と言えば藤原氏になりますが、藤原氏もまた一枚岩でなかったと見る必要があります。

そんな藤原氏自体の衰えと言うか変質が確実にある気がしています。藤原氏不比等以来、数多の豪族との権力闘争に勝ち抜いています。ほいじゃ藤原氏が常に一枚岩であったかといえばそうではなく、内部ではこれまた不比等の息子以来の四家が基本としてあり、内部抗争もまた激しいものがあります。藤原氏の特徴は内部抗争も行いながら、外部に藤原氏を脅かすような豪族の台頭があれば、一致団結してこれを排除して来たのが強みであったぐらいと解釈しています。内部では争うが外部の脅威には協力するってなところです。

藤原氏は平安期に入ると北家の天下でした。ところがこの北家も分流していきます。摂関政治を担ったのは摂関家と言われる家になります。当時の貴族の栄華を支えたのは荘園になりますが、荘園となって各種の免税権を得るには有力貴族の荘園が望ましい事になります。摂関期であれば言うまでもなく摂関家です。摂関家には直接寄進された領家分もあれば、領家から寄進される本所分も次々に集まる事になったと考えるのが自然です。逆に言えば非摂関家には荘園が集まりにくくなります。荘園が寄進されるのは有力貴族ですが、その中で最有力貴族は摂関家になるからです。摂関家が独り勝ちになれば非摂関家は官位もそうですが、荘園の集まりでも不満が出ます。非摂関家は反摂関家に傾き政治力学は、

こういう状況が摂関家が栄えるほど煮詰まっていった気がします。別に不思議な展開ではなく利が確実に絡みますから、そうなるのが自然です。でもって反摂関家側が摂関家攻撃の材料に使ったのが荘園整理令だったんじゃないでしょうか。荘園整理令は繰り返し出されていますがwikipediaより、

  • 延喜の荘園整理令 902年(延喜2)醍醐天皇 この整理令以後の荘園を「格後の荘園」と呼び、整理の対象にした。
  • 永観の荘園整理令 985年(永観2)花山天皇 延喜整理令以後のものを整理
  • 長久の荘園整理令 1040年(長久元)後朱雀天皇
  • 寛徳の荘園整理令 1045年(寛徳2)後冷泉天皇 前任の国司の在任中に立てた荘園だけ停止。
  • 天喜の荘園整理令 1055年(天喜3)後冷泉天皇

この後もあるのですが、とりあえず頼通の時代まででもこれだけ出されています。荘園整理令が出された表向きの理由は荘園の拡大により朝廷の歳入減が深刻になったためとされています。実際にそうだった面もあり、朝廷の場で荘園整理を持ち出されると摂関家とて「却下」って訳にもいかないところがあったと思っています。しかし本当の狙いは最大の荘園を抱える摂関家叩きが目的ではなかったかと思います。反摂関家とて荘園整理を行うと確実に向う傷をもらいます。ただ向う傷をもらってもより傷が深くなるのは摂関家であり、向う傷も摂関家が衰えれば修復は十分可能の戦術だった見ています。しかし朝廷での現実の勢力は「摂関家 >> 反摂関家」であり。摂関家は余裕で荘園整理令の骨抜きで対応していたのが後冷泉時代までだったと考えます。

風向きが変わったのは頼通時代の後期〜晩期に入ってからの気がしています。頼通時代も道長時代と同様に摂関家は強大でしたが、頼通にとって計算外の事態が訪れます。

    入内した頼通の娘が皇子を産まない
摂関政治の必要条件の一つとして天皇外戚である事がありますが、頼通の娘が皇子を産まないと摂関家外戚の地位を失います。頼通の娘が皇子を産みそうにないとの観測が有力になってから、摂関家レイムダック状態と見なされるようになった気がします。一挙に反摂関家勢力の活動が激しくなったの見方です。摂関家の凋落は頼通の娘が皇子を産まなかった事がキッカケではありますが、本当の理由は摂関家外戚カードを失いそうになった事による「摂関家 vs 非摂関家」の政治抗争の激化だった気がします。


頼通にとって入内した娘が皇子を産まなかったのは不運でしたが、重大なミスもやっている気がします。後冷泉は子どもに恵まれなかったので、皇太弟は外孫でない後三条です。後三条は外孫でこそありませんが、外曾孫ではありますから他の氏族の赤の他人ではありません。系図も確認しましたが「バリバリの親戚じゃん」としか思えないところがあります。ところが頼通は娘に皇子が出来た時にお払い箱するだけの存在とみなし冷遇で対応したようです。wikipediaより、

頼通や教通は、後冷泉天皇後宮に娘を入内させて外祖父として権力を握るために、尊仁親王に対して陽に陰に圧迫を加えていた。その一例として、歴代の東宮が伝領する「壺切御剣」を頼通が「藤原氏(特に摂関家)腹の東宮の宝物」との理由で、23年もの間、親王が即位するまで献上しなかった事が、大江匡房の談話集『江談抄』に記されている

後出しジャンケンみたいなものですが、頼通の娘は1人だけです(他に養女が1人いますが後朱雀に入内し皇子を産まず)。子どもが出来るかどうかはどうしても運に左右される部分があり「もし出来なかったら」の保険をかけておくべきだった気がしています。全然かけていなかった訳でなく姉の彰子と一条天皇の間に生まれた娘を嫁がせてはいましたが、関係は宜しくなかったとされます。これが後になって響いてきたと見ています。

後三条も頼通の娘が後冷泉の子を産む期待があるうちは頼通だけでなく、他の貴族からも軽視されていたと思っています。肩書は皇太弟ですが摂関家の外孫以外が皇位に就いた例は170年も前の話であり、いずれ廃されるぐらいの扱いです。ところが後冷泉に子どもが出来そうにない観測が強くなれば状況が変わります。次期天皇の最有力候補であるだけでなく、反摂関家側の拠点と化していたんじゃないでしょうか。反摂関家側が持ち出すカードは荘園整理令ですが、今度は天皇も取り込んで骨抜きにさせない熱気が出ていたんじゃないでしょうか。この空気を頼通は濃厚に感じていたと思います。wikipediaより、

治暦4年(1068年)3月、後冷泉天皇が病に倒れ、最早天皇崩御と、皇太子尊仁親王の即位が避けられないことが明らかになると、頼通は同月23日に致仕の上表を行い、28日には先の9か所の平等院領荘園に対する不入の権の適用を求める申請を行った。前者は4月16日に勅許され、後者は3月29日に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認める太政官牒の発給を受けた。そして、4月19日に後冷泉天皇崩御すると、頼通は宇治に閉居した。

平等院荘園は摂関家の中核をなす荘園とされますが、その法的地位に頼通は不安を感じていたと受け取ります。頼通の不安は的中します。後三条は即位すると、これまでにない厳格な荘園整理令を反摂関家と組んで作り上げます。頼通は本拠である平等院荘園は守りましたが、それ以外では結構手痛い打撃を受けたようです。これは荘園が減っただけの話ではないと思います。摂関家は力関係で朝廷の下に置かれた事を示した事になります。


この先は白河法皇の時代になるのですが、藤原氏の変質と言うより衰えを見る気がしています。摂関家の衰退は見ようによっては藤原氏内部の権力闘争です。そうやって藤原氏の筆頭勢力が衰えてると必ず新たな藤原氏勢力が取って代わっていたと思います。簡単に言えば道長・頼通の摂関家に変わって、新たな摂関家が出てくる感じです。ところが藤原氏には新たな人材が出てこなかったと見ます。出てこなかったが故に後三条に寄りかかっただけでなく次代の白河にも寄りかからないと、衰えたとはいえ摂関家に対抗できなかった状態に見えます。

逆に皇室側はリーダーたる人材が続出します。院政の主宰者は、

    後三条)→ 白河 → 鳥羽 → 後白河 → 後鳥羽
白河法皇の次の鳥羽上皇の評価は本当は微妙なところですが、それでも藤原氏院政を覆すような人材は現れなかったとして良い気がします。そう、新たな人材は武家に出現する事になります。清盛であり、頼朝でありです。これが歴史の流れと感じます。では”if”ですが頼通の娘に皇子が生まれ天皇になっていたらどうだっかです。その場合でも少し遅れて院政期に入っただけの話になったか、せいぜい院政期抜きで武家の時代に突入しかただけの違いになる気がしています。


ちょっと感想なのですが、藤原氏の基本政治手法はNo.2でいる事です。道長時代とて後ろ盾にNo.1の天皇が必要だったと理解する方が良さそうです。道長皇位継承を左右する実力者ですが、その道長でさえ天皇には逆らえないの感覚があった気がどうしてもします。その逆らえない天皇イエスマンにする政治手法が外戚の地位にある事であったぐらいです。パッと見では天皇に実権がなさそうに見えますが、摂関体制とは本当は実権がある天皇に自発的に実権を揮わせないようにする体制であったと理解するのが良い気がします。

いかに摂関家であっても、天皇が自発的に実権を揮われたら逆らえない事を示したのが後三条時代の荘園整理令であると思います。だから天皇家が実権を揮いだすと抵抗できなくなり院政時代が出現してしまったぐらいです。見ようによっては一種の王政復古です。ほいじゃ武家の時代はどうなのかですが、建前上はともかく実質的に天皇の命令を平然と拒否できる政治体制とするのも一つの見方の気がします。つまりはNo.1で実権を揮う政治体制です。

本質的な歴史の流れはそこにある気がしています。