荘園制度雑感

平安後期の田籍のデータから私が行った概算では荘園化率は2割ぐらいですが、平安末期には5割に近づいたなんて研究もあるようです。これは平安後期とされた田籍のデータの後に荘園化に拍車がかかったのか、人口推定自体に間違いがあって、もっと荘園があったぐらいが考えられますが、平安末期に向うほど荘園が増えたんだろうぐらいは言えると思います。

荘園と公領の関係は面白いと言うか奇怪なところがあって、荘園主は有力寺社以外は政府高官として良いかと思っています。単純には荘園が増えるほど政府高官の懐は温かくなるわけです。当然ですが政府の歳入は減ります。政府高官としては歳入が減るのも問題ですから荘園の抑制策を何度か打ち出しています。この抑制策は荘園主でもある政府高官の収入を減らすものですから、何回打ち出しても実効性が乏しいものになったとされています。あまりにも見事な本音と建前みたいなものです。荘園制度は複雑なので細かくは触れたくないのですがwikipediaより、

開発領主は中央の有力者や有力寺社へ田地を寄進し、寄進を受けた荘園領主は領家(りょうけ)と称した。さらに領家から、皇族や摂関家などのより有力な貴族へ寄進されることもあり、最上位の荘園領主を本家(ほんけ)といった。

開発領主とは開墾を行ったもともとの地主ぐらいの理解で良いかと思います。開墾者はその土地を私有する事が出来るのが墾田永代私財法で確立していますが、このままでは墾田の所有権が開墾者にあると言うだけで公領と同様に税金がかかります。構図的には

    農民 → 地主 → 国衙(政府)
政府への税金が同じなら、地主が開墾による利益を得ようと思ったら農民に国税以上の小作料を課せないとならなくなります。そうしないと手元に何も残りません。国税もかなりシビアですから、それ以上はそうそう農民から取り立てる余地は多くなかったと推測しています。開発領主は墾田を私有していますから、これを譲渡・売買する事は可能です。ここも完全に売り払ってしまったら何をやっているのかわからなくなりますから、ある種の黙契の上での寄付を行うのが荘園のカラクリの一つです。何度か書いていますが、
  1. 貴族の別荘の庭園(荘園)の名目にすれば国税が免除される
  2. 地主は所有権を貴族に寄付して荘園にし、地主はそこの管理人に任命される事にする
  3. その代わりに国税より安い料金を貴族に払う
これが開発領主と領家の関係です。ここにさらに本所と言うものが出て来ます。開発領主から寄進をうけた領家はそれをさらに上級貴族に寄付する事も行われています。これも面白くて、これまた単に譲渡してしまう訳ではなく開発領主と領家の関係と同じことを行います。単純化すると、
  1. 公式の所有権は本所になる
  2. 開発領主は領家に料金を払う
  3. 領家は本所に料金を払う
こういう関係で荘園が運営されます。これが成立したのは様々な理由があるんでしょうが、
  1. 開発領主は切実に節税の必要性があった
  2. 領家や本所は実際に土地を管理運営する能力がなかった
能力がなかったかどうかはアレですが、何もしなくても収入が転がり込むので直接経営をする熱意が極めて乏しかったぐらいに考える方が良いかもしれません。荘園は雪だるま式に拡大していったのは確実ですが、さすがに限界ってのがありwikipediaより、

1069年に延久の荘園整理令を発し、荘園整理事務を中央で処理するために記録荘園券契所を設置した。それまでの荘園整理令と異なり、この整理令では摂関家領も審査の対象となるなど、厳重な審査が行われ、大きな成果を上げた。これは、院政の開始へつながる画期となった。その一方で、延久の荘園整理令は「天皇の勅許のもとに太政官符・太政官牒の発給を得て四至が確定された荘園は公認される(荘園整理令の対象にはならない)」という荘園成立の原則が確立される画期となる。

これも読みようなんですが、そこまで「なあなあ」で拡がっていた荘園を公式管理に移したものぐらいに見ます。中央で一元管理し、中央で公認されたもののみを荘園として認める制度が出来上がったぐらいでしょうか。つうか、それまでは必ずしも「そうではなかった」と言うか、非公認の扱いであったものを公式の物に移行したぐらいに考えます。摂関家も審査の対象としたなっていますが、ここも摂関家も対象にする事により実効性を確保した面が一つありますが、私は摂関家がより有利になる制度であった気もしています。摂関家が身を切るとは思えませんし、摂関家が身を切らすとも思えませんから。


ここまでの話は「そんなものか」ぐらいなんですが、前々から不思議だった事があるのです。摂関政治道長・頼通の時代が一つの頂点なんですが、その後には院政時代が来ます。白河法皇が活躍するのですが、なぜに天皇から上皇法皇)になった程度で政権を摂関家から奪う事が出来たのだろうです。そりゃ頼通は自分の娘から生まれた子供を天皇にする事はできませんでした。そのために摂関政治のカラクリが次代に使えなかったのは史実ですが、中央のとくに上級貴族はほぼ全部藤原氏です。それがやすやすと院に政治の実権を奪われるのが不思議だったのです。その原因の一つらしいものが荘園にあったようです。wikipediaより、

更に院政の確立によってこれまで荘園整理事務の中心的役割を果たしていた院(上皇法皇)に対する開発領主からの寄進が相次ぐようになる。

ここももう少し情報が欲しいところですが、白河法皇はなんらかの手段によって記録荘園券契所の権限と言うか荘園管理権を握ったようです。大袈裟に言えば全国に広がる荘園の生殺与奪を握ったぐらいの理解でも良さそうな気がします。ここを握られれば摂関家も頭が上がらなくなります。抵抗すれば摂関家の荘園でさえ脅かされるからです。知らんかったな・・・