知行国理解のためのムック

知行国ぐらいのムックはお茶の子サイサイが当初の予定でしたが、手を付けてみると泥沼状態になりました。なんとか大づかみかつ簡潔にまとめようとしましたが、私の基礎知識の薄さも相俟って悲惨なムックになってしまった事を先に遺憾とさせて頂きます。


徴税

律令制は公地公民制に基づいて口分田を公民に収授し、その見返りに租庸調に代表される税金を取り立てるシステムだった事は中学生の教科書レベルのお話です。この税金なんですが公民を正丁単位に管理する一種の個人課税的なものと理解しても良いかと存じます。延喜式にもそう書いてありますが、課税単位は正丁つまり成人男子が「1人当たりナンボ」って計算法です。それが成り立つ背景としては、正丁には公平に口分田を配っているがあったからで良いと見ています。収入が同じになる前提を作っているので、税金も正丁なら同じぐらいの考え方です。

この個人課税制度は平安期に入ると崩れていったとされています。理由の一つとして私有地の増加はあるとなっています。墾田永代私財法により自力で開発した土地は私有地になります。これが広がると正丁にも貧富の差が広がります。そうなると収入が同じだから、同じ税金と言うのは実情と乖離していきます。それと公平配分の基本であった班田収授自体の事務作業量が膨大になります。どれぐらいのスパンで班田収授を行っていたかは確認できませんでしたが、基本メカニズムは正丁の増減ごとに口分田の調整が必要になり、それをやらないと税金の取り立てがままならないってところです。

そこに私有地の拡大、口分田の不足、荘園の発生で貧富の差が大きくなれば「お手上げ」って感じでしょうか。そのため公有地も実態的に固定の農民が耕すようになったぐらいの理解でもそんなに間違っていないと思います。ちなみに最後の班田収授は902年とされています。

とは言え税金は必要ですから、個人課税に代わって土地課税に変わっていきます。田畑を名と言う単位に整理して、名単位で税金を徴収する方式です。名の管理者は田堵と呼ばれる有力農民の請負制にしたようです。請負者は当初は負名と呼ばれたようですが、後に名主と呼ばれるようになっていますので、ここでは名主としておきます。名主は名内の徴税業務プラスアルファを扱い、国衙は税を名主から集める方式になったと見て良さそうです。


荘園面積

平安貴族は給料制です。官位が上がるほど高給がもらえ、上級貴族(三位以上)はその給料だけで十分な収入があったと見て良さそうです。平安貴族の収入と言えば荘園はどうなんるんだになりますが、前に平安後期の荘園面積の概算をやったので再掲しておきます。

田籍(町) 計算上の田面積(町) 計算上の荘園(町) 計算上の荘園化率(%)
平安初期 平安後期
862915 956875 1150553 193678 20.2
あくまでも概算ですが荘園化率は20%ぐらいです。国衙領である田籍に記録されている田畑も平安初期に較べて後期は減ってはいません。むしろ微増ぐらいです。平安後期は摂関政治時代ぐらいと見て良いと思いますが、摂関政治体制を打ち破り摂関家にも重大な影響を及ぼした後三条天皇の荘園整理令でも、摂関家の基幹荘園は平等院領8ヵ所であったとなっています。上級貴族の荘園収入依存は主収入ではなく、副収入ぐらいの位置づけであったと私は見ます。これが平安末期になると荘園化率は5割に及んだとなっています。
貴族の利益配分
あくまでも私見ですが平安後期ぐらいまでの貴族の収入配分は
  1. 上級貴族・・・官位による給料
  2. 下級貴族・・・受領になる事による儲け
こうなっていたんじゃないかと見ています。受領になるには下級貴族の中でも上位のものにはなりますが、上級貴族は受領にはなりません。つうか貴族は都にいて「なんぼ」のところがありますから、いくら実入りが良くても地方へのドサ回りは忌避されたぐらいに見ています。それと受領は地方四等官のうちで、中央から派遣された最上位の者にしか資格がありません。ここも整理しておきたいのですが、
  1. 遥任では受領になれない
  2. 在庁官人では受領になれない
官位による給料が少ない下級貴族は受領になる事による儲けを分配されていたぐらいの見方です。上級貴族は受領となった下級貴族が中央に納付した税金を給料としていたぐらいの構図です。ここでポイント思うのは
    受領は儲かる
これは院政初期(白河時代)でも同様で、わかりやすい例として平忠盛は受領を歴任する事によって巨万の富を蓄えたとなっています。これは忠盛が別格的に悪辣であった訳ではなく、貴族社会においては受領とはそういう役得がある職であったぐらいの位置づけです。この受領の取り分は荘園面積が2割から5割に増えても変わらなかったと私は見ています。そこまで荘園化が進めば、税金が取れる国衙領が減り、税収自体が落ちているので、中央の税収が減ります。中央の税収の減少は上級貴族の給料が支払えなく事態を起こします。


なんで急速に歳入が減ったのだろう?

wikipediaより、

加えて、貴族官人や寺社に与えられていた封戸制度の崩壊もこれに拍車をかけた。太政大臣を務めた藤原伊通二条天皇のために著した『大槐秘抄』には、かつての貴族には封戸や節会などの行事における臨時の賜物などの収入があったが、今はそうしたものがないので荘園や知行国からの収入で公私の資を賄っているのであるとして、荘園整理令が現実と乖離していることを指摘している。また、当時、天皇や院が相次いで造営してきた御願寺には封戸が与えられたものの実質が伴うものではなく、寺の維持や行事のために封戸の代わりとなる御願寺領となる荘園を求める事態も発生した

二条天皇は後白河の息子であり、平治の乱の時の天皇です。この時期には既に朝廷歳入の減少は深刻化どころか常態化していたと見て良さそうです。それは史実としてわかるのですが、何故にそうなったのだろうです。ここら辺については「そうなった」と書いてありますが、なぜそうなったかを書いてありません。どうもヒントはwikipediaより、

  • その一方で後三条天皇は、収公された審査基準外の違法荘園を国衙領に戻すだけでなく、勅旨田の名目で天皇支配下に置くなど、事実上の天皇領荘園を構築しており、それらは後三条院勅旨田と呼ばれた(延久の荘園整理令)
  • 1069年(延久元年)後三条天皇の発布した延久の荘園整理令の実施に伴い設置された。反摂関家的な源経長、学者の大江匡房らが起用された。主な業務は不正荘園の調査・摘発、書類不備の荘園の没収などを行った。後三条の死後には消滅(記録荘園券契所)
  • 1156年(保元元年)にも設置されたが、後白河法皇によって院庁に吸収される。(記録荘園券契所)

後三条天皇院政こそ行いませんでしたが、摂関政治を排し天皇親政を行っています。延久の荘園整理令が代表的な施策になりますが、この時に天皇家の荘園を形成しています。でもって次の白河は本格的な院政を開始しますが、院政を行うには財政的な裏付けが求められます。院政自体は非公式と言うか律令外の政治システムですから、独自財源の形勢が必要ぐらいです。白河が記録荘園券契所を廃止したのは、天皇時代は父の後三条を見習って天皇家荘園の拡大を行い、院政開始後は院のための荘園獲得を行ったと見れないだろうかです。天皇家荘園の拡大はどれほどであったか不明ですが、院政のための荘園拡大はかなり積極的に行ったと見ています。荘園の許認可権限は院が握っていた「らしい」となっていますから、ある意味やり放題です。天皇家のための荘園が作れるのなら、院のための荘園も当然獲得可能になるからです。

白河の次の鳥羽時代もそうだったと見ます。さらにがありまして、天皇位は世襲であり財産も世襲しますが、院は世襲ではありません。たとえば鳥羽上皇の持っていた荘園は美福門院が相続しています。つまり新たに院政が始まるたびに、あらたな院政のための荘園獲得が行われたんじゃなかろうかです。白河はもちろんの事、鳥羽も院政で権力を揮っていますから、この2代の間にドット荘園化率が急上昇した可能性を考えます。院が荘園獲得に動いて、官職への給料に影響して来たならば朝廷を主宰する摂関家等も積極的な荘園獲得に走ったと考えるのは想像の範囲です。その上ですが、院は受領任命権を下級貴族への求心力に利用しています。そう、受領の役得権は院が保証しています。

あくまでも仮説ですが、これぐらいのメカニズムが急に働いた可能性を考えています。


荘園化率の増大による歳入不足は上級貴族の主な収入源を給料から荘園収入にシフトさせたぐらいに考えていますが、それでも給与の減少分を補うには不足していたようです。そこで荘園も公領も一体化させてしまう税制にシフトさせます。ここのところを理解するのに苦労しました。つうか今でも半煮え状態です。つうのも荘園には国税は非課税だったはずだからです。まずはwikipediaより、

11世紀頃になると、内裏や大寺社の再建を目的とした臨時課税をするため、たびたび荘園整理令が出されたが、これにより基準年以前に発生していた荘園は臨時課税の対象として正式に公認化されることとなり、それまで散在していた荘園を一つの領域に統合する措置も行われた。

ここにある臨時課税とは一国平均役と言われるものらしいのですが、臨時と言いながらほぼ国衙領への税金と変わらぬようになった「らしい」です。荘園も非課税のところとそうでないところに分けられた様ですが、ここの解釈として新たに増大(基準年以降)した荘園も公式に荘園として認める代わりに、国衙領並みの税金をかけるシステムに変更したぐらいです。ここも表現としては荘園が国衙領になったと言うよりは、国衙領が荘園化したに近いとの表現が用いられています。

土地を巡る権利関係は、

  • 下地・・・土地自体の所有権
  • 上分・・・税金
こういう風に分けて考えるらしく、荘園とは上分の取得権利を国ではなく上級貴族が持つ事になるはずです。これをかなりの部分の荘園では国衙が持つシステムが荘園公領制ぐらいの理解で良いようです。そのために荘園にも名を置き、名主が徴税を行うシステムになったようです。


知行国

知行国とはどんなものかですが、これも変遷があれこれあるようですが、まず大雑把にまとめてしまいます。知行国主になれば、

    国司(受領)の任命権(推挙権)が手に入る
こういう事だそうです。だからなんだと言われそうなのですが、あれこれ調べてみた感触ですが、令制国支配で受領の上に屋上屋を架した制度に見えています。中央への税収が減り、上級貴族への給与もままならなくったので、上級貴族に受領の取り分を流し込むシステムぐらいの理解です。それなら受領を兼務すれば良いようなものですが、受領になるには現地赴任が鉄則であり遥任では受領になりえません。また官位による官職制限もあります。そこで国司の旨味を都にいたままで味わえる知行国制度を作ったぐらいの見方です。

知行国主は受領を任命できるのですが、それこそ我が子とかを受領として送り込みます。少年受領なんてのも存在します。メカニズムとして受領と言うか従来の国衙は徴税のための下部機関となり、知行国主は国衙を監視するために目代と言う役割の者まで派遣します。そうやって手にした上分を知行国主家に流し込むスタイルです。見ようによっては室町期の守護にも似ている気もします。言いようによっては中央集権体制から封建体制に移行したぐらいにも思えます。


成功

知行国も本来は任期制であり、知行国主も受領と同様に異動があります。ただこれも段々に固定していった部分があるようです。さらに院が知行国主を任命できる国も固定されていったようで、鳥羽時代には固定化が完成していたとの説があります。この院の知行国ですが、当初は院が知行国主的な地位にあったようです。院宮分国制に近いのですが、院が任命した受領が実務を行い、院が受領から「功」を受けるシステムです。なんのこっちゃらですが、受領は任期終了後に受領功過定なるものを受けます。要はちゃんと税金を納めたかです。一方で「功」とは受領が院に納める上納金みたいなものです。院政期の功についてwikipediaには、

11世紀末期には「成功」の名称が採用されて手続も受領成功と同じように成功の申請→成功宣旨→費用進納または造営→返抄・覆勘→申文提出→闕官に補任という手続が採られるようになっていった。

寺院などの現物であった事もあるようですが、ここは上納金の方がわかりやすいと思っています。上納金を納める事によって受領功過定を院は抑え込んでしまいます。代わりに院に対する功を院が審査して次の人事を考慮するみたいなシステムです。事実上の院の領国と思っても良さそうです。これが白河・鳥羽時代ですが、後白河時代になると知行国主が任命されます。知行国主は従来の受領機能を目代を派遣する事によって事実上代行し、知行国主もまた院に功を上納します。この知行国主も院の近臣になります。

ただなんですがすべての令制国知行国になった訳ではなく、またすべての知行国が院の知行国でもなさそうです。それでも院の知行国は31国に及んだとなっています。またその知行国も院宮分国制により上分を公式に受け取る知行国と、院の縄張り国として功を受け取る知行国に分類はされるそうです。実質的には相違は少なさそうな気がしますが、分類上は分けた方が良いの意見がありました。


院の知行国

院政期知行国制についての一考察 : とくに平氏知行国の解明をめざしてから、

地域 令制国
畿内 和泉、摂津
東海道 尾張三河、甲斐
東山道 美濃、信濃陸奥
北陸道 若狭、越前、加賀、能登越中、越後
山陰道 丹波、丹後、但馬、因幡伯耆
山陽道 播磨、美作、備前、備中、備後、周防
南海道 紀伊、淡路、阿波、讃岐、伊予
西海道 筑前
これだけあったとしています。ちなみに治承三年の政変以前の平氏知行国は同論文より、この6か国であったとされ、このうち駿河を除く5か国が院の知行国になります。清盛と後白河の関係は保元の乱からしばらくは密月状態で、以後に対立模様を濃くするのですが、平氏が独自に持っていた知行国駿河だけじゃなかったかの見方もされています。後は院近臣として任じられていただけじゃなかろうかです。ちなみに治承三年の政変以前の知行国主と受領も資料があるそうで、こういう感じであったそうです。これも固定でなく、たとえば越前では「教盛 → 重盛 → 維盛」と交代があったりしています。