院政考

わかっている様で良く考えれば知識が曖昧な院政の知識整理です。


天皇退位と家父長制

諸外国の王政・帝政的な者は終身が原則です。そりゃそうで国王なり皇帝が唯一の最高権力者であり、最高権威に位置付けられるからです。よほどの事情がないと死ぬまで座っています。日本でもそうで古代の大王位は長く終身制でした。ところが途中退位する天皇の先例が出来ます。たぶん皇極天皇が最初だったはずですが、時代が下ると例外的な事ではなくなり平安期以降では珍しくもなくなります。退位した天皇太上天皇上皇法皇)と呼ばれるようになるのですが、これは単なる隠居号ではなく格式としては天皇と同格とされます。

同格と言っても政治は朝廷で行われるわけで、朝廷の主宰者は天皇であり、ここに上皇が君臨する事は単純には出来ません。院政を行うためには家父長制のエッセンスが必要になります。天皇天皇家の一員であり、天皇家にも家父長がおり、天皇家の人間は家父長に従う慣習と言うか家族倫理があるとまず理解します。天皇が終身制であれば「天皇 = 家父長」なんですが、退位して上皇になれば「上皇 = 家父長」になります。そうなると

  1. 格式上は同格
  2. 天皇家の中では「天皇 < 上皇
上皇天皇家の家父長として天皇に口を挟めば、天皇とて逆らいにくくなるぐらいです。これがどうも院政の基本メカニズムのようです。ただ家父長の権威で天皇の上に立つのにも条件があった様で、
    天皇が自分の子ども(もちろん孫でもOK)であること
弟とか甥ではダメだったようです。ここも単純には家父長制の権威が通用し院政が可能になるのは親子関係の時だけだったとして良さそうです。院政時代の前の摂関政治時代は外戚天皇の外祖父)である事がポイントでしたが、これは母系による情の疑似家父長制であったと言えるかもしれません。これに対し院政は父系による家父長制として良い気がします。そんな回りくどい事をやらなくとも天皇位に座っていれば良さそうなものですが、わざわざ屋上屋を架すような院政が出来た理由として
  1. 皇位継承の安定
  2. 朝廷政治の硬直化
皇位継承問題は常に大きな政治問題になりましたが、院政であれば天皇家の家父長である上皇が指名権を握ります。院政時代を始めたのは白河ですが、白河が院政を始めた理由の一つに、自分の子どもに皇位を継がせたいがあったからだとも言われています。もう一つの朝廷政治の硬直化は私の憶測ですが、平安末期になると官位官職さえほぼ世襲制になり、貴族の家柄によって就ける官職、官位の上限も決まっていました。そうなると朝廷政治も儀式化し硬直化していたと想像してもおかしくありません。

院政にも政治のためのスタッフが必要ですが、院は朝廷ではないのでかなり自由に人材を登用できたと見ています。硬直化した朝廷ではうだつの上がらない人物でも、才能さえあれば家柄以上の出世も可能になります。院での出世は官位官職にも連動しますから、貴族の支持も出てくるぐらいでしょうか。


この院政的なシステムは日本は結構違和感なく受け入れている感じがします。戦国期の信長・秀吉・家康も実質的には院政的な政治体制を敷いています。この中で家康を例に取ると征夷大将軍の座も江戸城も秀忠に譲り、自分は駿府で隠居のスタイルは取っていますが、徳川家の実権はあくまでも大御所の家康が握っています。たとえば大坂の陣の徳川方の総大将は誰に聞いても家康であり、秀忠の名を挙げる者は皆無だと思います。

現代ですらそうで、大企業の社長も社長をやめれば会長(最高顧問とか相談役ってケースもあるかと思います)になって、会社の直接経営から手を引く代わりに財界活動に専念するなんてスタイルはよく見られます。ここで直接の経営は社長が行うにしろ、経営の大方針とかになると会長の発言力は社長を遥かに凌ぎ、時と場合によっては社長の首を挿げ替えたりも行います。院政の理解としてはこれぐらいで良いかと思います。


院政時代の系図から考える

主要系図を示します。

白河は息子の堀河に皇位を譲りますが、堀河天皇時代は院政って程でもなかったとされます。これは堀河が独自性にこだわり白河のイエスマンではなかったからとされます。おそらく堀河時代は院政への馴染みが一般常識になっていなかったからと思っています。堀河は1107年に崩御し、堀河の子(白河の孫)の鳥羽が5歳で皇位に就いた時から歴史に残る白河院政が始まったとされます。鳥羽は1129年に白河が崩御するまで頭を押さえ続けられ、かなりの鬱憤をためていたとなっています。鳥羽は1123年に崇徳(4歳)に皇位を譲っていますから白河崩御後に院政を開始しています。鳥羽院政が保元の乱を呼ぶことになるのですが、ちょっと解説してみます。

鳥羽は白河の養女である待賢門院を妻にしています。待賢門院は崇徳と後白河の実母なんですが、鳥羽の白河憎しの感情は寵愛を美福門院に移します。鳥羽は崇徳を退位させ、美福門院の子である近衛に1142年に皇位を継がせます。崇徳と近衛の関係は近衛が崇徳の皇太弟とされたため、この時点で崇徳に院政を行う資格が失われます。

近衛は1155年に子ども作れず崩御します。この時の後継問題が複雑なんですが、後白河の子どもの二条は幼い時に母を亡くし、美福門院が引き取って養育しています。養母である美福門院は二条を皇位に就けるのを熱望します。鳥羽在世中の事で結果として、

  1. 崇徳の子の重仁親王は外された
  2. 親の後白河を越えて皇位に就かせるのはさすがに無理があるとして、後白河を中継ぎの天皇とする
これで崇徳には完全に院政を行う資格が失われた事になります。後白河は崇徳の弟ですから起こるのは後白河親政であり、後白河の後に二条が継げば院政資格は後白河に発生する訳です。憤懣がたまった崇徳は保元の乱に至り自滅したぐらいでしょうか。鳥羽は1156年に崩御しています。


その後の院政

院政時代は白河に始まり後鳥羽ぐらいで終わったぐらいが私の認識ですが、院政自体は延々と江戸期まで続いています。無くなったのは明治維新後に天皇が制度として終身制になり、上皇の存在がなくなったからだとされています。ちょっとだけ面白かったのはwikipediaより、

霊元上皇院政を行うと、江戸幕府との間に確執を生み、朝幕関係に緊張を走らせた。結果、江戸幕府院政の存在を黙認せざるをえなくなる。元々院政は朝廷の法体系の枠外の仕組みであったがために、『禁中並公家諸法度』ではそれを統制できず、江戸幕府による朝廷の統制に限界があることを露呈した格好となった。

なんとなく院政の本質を表している気がします。院政は上述した通り、天皇家の親子関係が根拠となっています。言ってみれば天皇家の家父長である上皇から、子である天皇への私的なアドバイスみたいなものです。これに天皇が逆らえない関係が基本ですから法の枠外のものです。そもそも天皇は法で規定されない存在であり、上皇もまた同様です。雲の上の2人の関係も法で規定されないぐらいです。たぶんですが崇徳が憤慨した院政を開く権利も明文法の規定ではなく、天皇家内部の不文律による慣習法であったと思います。