銭経済のお話

富本銭もありますが皇朝十二銭からで良いと思います。発行はwikipediaより、

  • 和同開珎 708年(和銅元年
  • 万年通宝(萬年通寳) 760年(天平宝字4年
  • 神功開宝(神功開寳) 765年(天平神護元年
  • 隆平永宝(隆平永寳) 796年(延暦15年
  • 富寿神宝(富壽神寳) 818年(弘仁9年)
  • 承和昌宝(承和昌寳) 835年(承和2年)
  • 長年大宝(長年大寳) 848年(嘉祥元年)
  • 饒益神宝(饒益神寳) 859年(貞観元年)
  • 貞観永宝(貞観永寳) 870年(貞観12年)
  • 寛平大宝(寛平大寳) 890年(寛平2年)
  • 延喜通宝(延喜通寳) 907年(延喜7年)
  • 乾元大宝(乹元大寳) 958年(天徳2年)

乾元大宝の最後の発行は963年となっていますから、200年続いていた事になります。この8世紀から始まった古代の貨幣制度が終焉を迎えた理由の簡単な解説として、まだ銭経済を必要とするほど日本の経済が成熟していなかったからとされます。そういう部分は確実にあったとは思いますが、それだけでない気がしています。断片的な例を挙げると平安時代の後は源平の争乱があり鎌倉幕府が成立するのですが、段銭と言う税金が設けられています。段銭とはwikipediaより、

仁治2年(1241年)に鎌倉幕府が課した例が初出といわれる

200年も経てば経済が銭を必要としだしたと言われればそれまでですが、それだけでエエんやろかです。もうひとつ傍証として鎌倉時代の領地の大きさを表すのに貫高制を取っています。貫高制もwikipediaより、

鎌倉時代室町時代には、田地の面積は、その田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算し「貫」を単位として表された。これを貫高(かんだか)といい、それを税収の基準にする土地制度を貫高制と呼ぶ。同じ貫数でも土地の条件などによって実際の面積は異なることになる。これは、米で納めるべき年貢を銭で代納する「分銭」に由来するもので、武家の知行高も貫で表し、貫高に基づいて負担する軍役を定めた。

ここから読み取れる事は鎌倉期には銭経済が普及していた事が確認できます。銭経済と言うより銭と言う通貨の存在が広く認識され通用していたと言っても良いと思います。そうじゃなけりゃ段銭とか貫高制を敷く事が出来ないからです。ほいじゃどこから銭経済が日本で広まり定着したかになります。


清盛と銭

日本での通貨発行は963年なんですが、その後に銭経済を支えたのは大陸から輸入された宋銭、元銭、明銭です。この大陸からの輸入銭を普及させたのが清盛とされています。wikipediaより、

日本において宋銭の流通が本格化したのは、12世紀後半とされている。当時は末法思想の流行で仏具の材料として銅の需要が高まり宋銭(1文銭)を銅の材料として輸入していた。時の権力者の平清盛はこれに目つけ、日宋貿易を振興して宋から大量の宋銭を輸入して国内で流通させ平氏政権の政権基盤のための財政的な裏付けとした。

「へぇ」ってところで日本が大陸の銭を輸入していた当初の目的は仏像の原料だった事がわかります。平安期の仏像のそれなりの部分は大陸からの銭を鋳つぶして出来た事になります。おそらく清盛は宋銭を銅の原料として使うより、そのまま貨幣として使った方が差益が上がる点に注目したと思いますが、時期的には清盛は1118年に生まれ1181年に亡くなっていますから、12世紀半ばぐらいの話になるかと推測されます。清盛は宋銭を貨幣として流通させたとなっているのですが、どれぐらいの価値を持たせたのでしょうか。これが、えっと、調べても容易に出て来ません。ちなみに和同開珎はwikipediaより、

和同開珎が発行されて間もない頃には、銭1文で米2kgが買えた

舂米と考えると現在単位の4斗で60kgですから、1斗が15kg、1升が1.5kg、1合が150gです。律令期の石単位で4升の米ぐらいと推測されます。ずっと時代が下がって建長3年(1251年)に銭直法が出た時には米1石が銭1貫文とされたようです。ここで難しいのは鎌倉期の米1石がいくらかになります。かなりの難題でして、鎌倉期は様々な升の基本単位があったようです。ただ銭直法は朝廷もからみます。朝廷では後三条天皇が1072年に定めた宣旨升になっていると考えて良さそうです。この宣旨升は現在升で換算すると0.627升になるんだそうです。そうなると

    米1石(宣旨升)= 0.627石(現在升)= 銭1貫文
では1貫文とは何文かになるのですが、もともとは銭1000枚を1貫としていたそうですから、銭1文で宣旨升なら1合、現在升なら0.627合ぐらいになります。これだけでは本当は何とも言えないですが、清盛が宋銭を流通させるのに持たした価値も
    米1合(宣旨升)= 銭1文
これぐらいのレートであった可能性はあると思います。計算もしやすいですし。


もう少し引いて見る

少し話を戻しますが、皇朝十二銭の発行が終わったのが10世紀半ばで清盛が宋銭を流通させたのが12世紀半ばです。銭の輸入元の大陸の様子はどうだったかです。wikipediaより、

北宋代には銅銭や鉄銭の鋳造量が格段に増え、太宗の至道年間(995年-997年)80万貫(八億銭)から、真宗の景徳年間(1004年-1007年)には183万貫となり、神宗の元豊元年(1078年)には506万貫と最高点に達する。元豊年間の増産により一応の安定を見たため、その後は6割程度の鋳造量で推移した。

宋代は前近代と言われるぐらい経済が発達したのですが、その経済の発達を充足させるために大量の銭が鋳造されています。北宋の成立は10世紀半ばで11世紀半ば頃には経済に見合うぐらいの銭が供給されていたんじゃなかろうかと考えます。ちょっと笑ったのは次のところでwikipediaより、

しかし、銅銭を鋳潰して銅器を作製する利益は10倍以上になったため、刑死する者が続出しても鋳潰す者は後を絶たず、士大夫や官吏までもが鎔銭に手を染めたため、政府は市場の需要に見合わない多量の銅銭を発行し続けた。

アハハハ、日本が中国から銭を輸入していた理由も上述したように銭を鋳つぶして仏像を作るためです。日本で仏像需要が増した原因は末法思想のためと解説されています。日本の末法思想が盛り上がったのはwikipediaより、

一般的には、特に1052年(永承7年)は末法元年とされ人々に恐れられ、盛んに経塚造営が行われた

11世紀半ばぐらいになります。ここで思うのですが中国では豊富な銭供給があったので鋳潰した方がメリットがあったようですが、日本では銭のまま流通させた方がメリットがあった可能性を考えています。メリットがあったのは清盛が12世紀半ばに実証していますが、清盛の前にも輸入された宋銭は貨幣としても使われていても不思議とは言えないぐらいです。10世紀半ばに国産銭は廃止されていますが、銭経済自体は滅んだ訳でなく都を中心に細々であっても続いていたと見たいところです。

国産銭が滅んだ原因は朝廷の無謀なデノミ的政策と、原料の銅の不足から来る品質の極度の低下(最後の乾元大宝は銅貨と言うより鉛銭であったとされます)であったとされます。そこに良質の宋銭が供給されると銭経済が息を吹き返して来たぐらいの想像は許されると思います。つうか輸入銭の方が銭経済の普及には有利であったと見れそうな気がします。前にもやりましたが国産銭が発行された時の朝廷の経済政策は、

  • 和同開珎が発行されてから52年後、万年通宝への改鋳が行われた。この時、和同開珎10枚と万年通宝1枚との価値が等しいと定められた。この定めはその後の改鋳にも踏襲された
  • 9世紀中頃には、買える米の量は100分の1から200分の1にまで激減してしまった

こんな事をやれば銭への信用はなくなります。しかしこれが輸入銭なら外貨(ってな意識があったかどうかわかりませんが)ですから朝廷の恣意的な経済政策に振り回される危険性が低くなります。また品質も一定しています。日本の商品経済もゆっくりですが発達していた訳であり、価値と品質の安定した輸入銭が広まり始めたら、商取引にも蓄財にも便利な銭の活用が活発化し始めていた可能性はあります。清盛が目を付けたのはその点で、そういう下地が出来ているのなら大量に輸入して流通させようと思いついたんじゃないでしょうか。年表風に整理しておくと、

年代 日本 大陸
10世紀半ば 国産銭の鋳造終了 北宋成立
11世紀半ば 末法思想による仏像原料のための宋銭輸入 十分な量の銭供給が行われる
12世紀半ば 清盛が宋銭流通を促進させる
13世紀半ば 銭が公式に通貨として公認される(銭直法)
8世紀に始まった国産銭の普及運動は成功したとは言えませんが、宋銭の大量輸入により息を吹き返した銭経済は12世紀半ばから13世紀ぐらいに定着したぐらいに見て良さそうです。


銭と沽価法

沽価法と言うのは公定価格(つうか物価統制令)ぐらいに思えば良いようです。基本は絹に対しての交換レートを定めるぐらいであったようです。これが銭の普及に伴い崩れる事になります。理由は銭に対する絹の価値が下がった事によるようです。朝廷は絹を基本通貨にしていたようなものですから、絹の価値が下がれば朝廷だけでなく貴族も打撃を受けます。そこで銭流通の停止例を出そうとします。これがまあ大騒ぎになった様で、

宋銭の使用禁止が後白河法皇の意向で提議された事から同年の平清盛による治承三年の政変の原因の一つになったとされている。

治承三年の政変とは清盛と後白河の抗争の一つで、攻勢に出ていた後白河に対して清盛が福原から軍勢を率いて京都を制圧し、後白河を鳥羽院に押し込めてしまった事件です。銭流通停止がすべての原因とはさすがに思えませんが、平家の財政基盤である銭を後白河が叩こうとしていたのはあってもおかしくないと思います。

上で清盛時代にはどれぐらいの交換レートであったのか良くわからないとしたのは実はここの部分なんです。沽価法自体は大宝律令にあるぐらい古い法なんですが、清盛の時代でも遵守されにくい実態はあったようです。とくに宋銭の普及が進むほど価格の変動が激しくなったようです。面白いと思ったのは宋銭が普及すればそれを沽価法に取り込んでしまえば良さそうなものです。ところがそういう発想は朝廷にはなかったようです。これはたぶんですが、銭の公認は清盛を利するだけの考えが背景にあったぐらいでしょうか。そのために銭は沽価法とは別の交換レートを作ってしまった気がしています。

そこまでは判るのですが、なぜに絹の価格が下がってしまったんだろうです。当時の市場の状況なんて想像すら難しいのですが、ひょっとしたら清盛の意図があったかもしれません。宋銭の輸入は平氏が押さえていたぐらいの理解で良いと思います。これは見方を変えると造幣局平氏が押さえていたに近いとも思えます。平氏としては銭中心の経済体制になる方がメリットがある訳ですから、絹本位制を意図的に崩そうとしたぐらいはあり得ると思います。そのためには絹の銭に対する価値を下げるのは手としてありそうな気はします。

銭と絹の関係はそう解釈するとして、米と銭はどうだったんだろうです。米の価格の変動は社会不安に通じますし、米に対して安定した価値を持つことが通貨としての信用性を高めると思います。ですから米は絹と違って安定に務めていた気が私にはします。ただ「気がする」だけなので1251年の銭直令のレートが清盛時代から同じであったのか、そうでなかったのかは不明とさせて頂きます。それでも米に対しての銭の価値は安定していたんじゃないかの傍証はあります。これが安定していなければ鎌倉期に貫高制は敷けないと思うぐらいです。これとて鎌倉期になって安定したのか、清盛時代から安定していたかは不明です。