ツーリング日和9(第18話)絹子様事件・序

 コトリが持ち出した絹子様事件があったのは今から八十年ぐらい前のこと。これも菊のカーテンがあって、今でもよくわからない部分が多いのだけど、皇室にとって大きな痛手を受けた事件だし妃殿下が汚点とまでされるのは良くわかる。

  宮家の内親王として生まれた絹子様は、皇室での籠の鳥の生活に嫌気が差していたとされる。たしかに皇族として生まれれば衣食住は保証されるし、進学もかなり思うのままのところはある。

 その代わりに国民に常に注目されるだけでなく、日常生活のすべてが監視される状態に置かれる。それが堅苦しくて、息苦しくて、嫌になっても不思議はない。もっと気楽に、自由に生きたいってね。

 この皇室の束縛から逃れるには皇籍離脱をして一般人になるという選択はある。これは成人になり自分の意思で皇室会議に申し立て認められたら可能なんだ、

「そやけど戦後の皇室典範になってからおらへんはずや」

 そうだったと思う。もし申し立てれば一騒動は必至だよね。だから絹子内親王はより無難で角を立てない手段を選んだはず。別にたいした手段じゃないけど、女性皇族は結婚すれば自動的に皇籍から離れるのよ。こちらは前例が幾らでもあると言うか、皇族女性が結婚すれば必然みたいなもの。

 結婚さえすれば皇籍離脱が出来るから、それを目指すこと自体は何も問題ないのだけど、絹子様は単に皇籍離脱するのではなくて、皇籍から離れることにより自由な暮らしを満喫する事に重点を置いたのよ。

「皇籍離脱しても元内親王の肩書は死ぬまで付いて回るからな」

 そうなんだよね。それが皇族の娘として生まれた宿命みたいなところがある。でも絹子内親王はそれさえ耐えられないとしたぐらい。皇族の女性というすべてのしがらみを断ち切って、一般市民としておもしろおかしく自由に暮らしたいぐらい。

「そこのところの理解が未熟やったんやろな」

 そう思う。一般市民は自由に暮らしている様に見えるかもしれないけど、そのための代償は支払ってるんだよ。自由を買うためのカネを稼いでるってこと。そのカネの範囲で遊んでるだけ。決して日々楽しく遊び暮らしてる訳じゃない。

 これは生まれ落ちた環境だから仕方がないのだけど、そんな事は頭では理解していても、最後のところの実感が持てなかったんのだと思う。いくら知識で理解していても、

「カネにホンマに困る環境なんて経験できへんし、実際に見るのも難しいやろ」

 この皇室脱出願望の強い絹子内親王に一人の男が近づいたんだ。二人とも大学生だったから、さすがに監視も大学内では緩くなるからね。

「あれはわざと緩くしてるんちゃうか。婿さんを自由に探せる数少ない時間やんか」

 これはコトリの言う通りかもしれない。出会った二人は恋仲になったのだけど、そうなれた理由は彼氏がこう提案したからだとされている。

『結婚して日本から離れてNYで暮らそう』

 これに内親王が飛びついたとして良いと思う。いくら皇籍離脱をしても一般人になれないのを知っているからよ。だから日本を離れるプランは絹子内親王の願望をかなえ、望んでいた暮らしを手に入れる最高の手段として魅了し尽くしたみたいなんだ。

「NYなのが良かったんちゃうやろか」

 それもあるかも。NYは東京を鼻息で吹き飛ばすぐらい刺激と魅力に溢れた街だものね。だけど結婚してNYで暮らすのは容易じゃない。NYだって観光、たとえば新婚旅行で訪れるのなら手軽なところだよ。

 だけどそこで暮らすとなると話が変ってくる。これはどの国だって似たようなものだけど、外国人が長期で在留するならビザが変わってくる。観光ビザなら九十日で追い出されるし、働くこともできないからね。

 長期の在留のための資格だって何段階もあるけど、永住まで考えるとハードルが高くなる。俗にグリーンカードとも呼ばれるけど、ここまで取得するのは容易じゃないのよ。取得条件はあれこれあるけど、ごく単純にはアメリカに住んでもらったら役に立つ人材かどうかが基準ぐらいで良いと思う。

 NYに住むにはそれぐらいの問題があるぐらいは、二人でNY暮らしを検討しているうちにわかったで良さそう。ここで諦めるという選択はとくに絹子内親王にはないから、どちらが提案したかはわからないけど彼氏が、

『NYで弁護士になる』

 この路線を選んだのだけは結果でわかる。弁護士になればNYでの在留資格は容易に取れるはずなんだ。ついでに言えば、アメリだって弁護士の収入は良いのよね。

「弁護士になっただけで二千万円で雇ってくれるらしいし、後は実力次第で青天井なのがアメリカの弁護士の世界や」

 このプランに従って彼氏は行動することになる。二人の大学卒業は同じだったけど、彼氏は卒業と同時にNYに渡りロースクールに入学したのよね。

「この辺からキナ臭くなっていくんやけど」

 彼氏の実家は貧乏じゃないけど裕福でもない。ぶっちゃけ、彼氏を大学に進学させ、卒業させるだけで目いっぱいぐらいだったとして良いはず。それなのに就職もせずにアメリカ留学となると大変すぎるって事になる。

「NY留学は甘うないからな」

 これはあくまでもサンプル・ケースだけど、ロースクールの学費が五万ドル、生活費が二万ドル、旅費や引っ越し代、保険や受験費用のその他費用で二万ドルぐらいは最低必要になる。

 そうなるとおおよそ九万ドルから十万ドルぐらいになるけど、当時のレートでも一千万円以上は軽く必要になるのよね。そんなおカネを右から左に用意できる家庭なんて限られてるってこと。

 彼氏にそんな蓄えなどあるはずもないから、どうやって資金を調達したんだの声が上がったもの。それでも彼氏は弁護士になるためにNYのロースクールに入っている。これが三年必要なのだけど、皇室を離れる日を待ちわびすぎた絹子内親王は、

『もう待ちきれない』

 これに変わってしまったとしか言いようがないのよ。

「そやな。そうとでも解釈せんと後の行動が理解出来へん」

 なにが起こったかだけど、NYの司法試験を終えた彼氏は、その合格発表を待たずに日本に急遽帰国して来たんだよ。そりゃ、愛しの絹子内親王に会いに来たと取れない事もなかったけど、

「あれも何が一体どうなっとるかサッパリわからんかった」

 帰国した彼氏と絹子内親王は父親に談判して入籍を迫ったのよね。言い分は合格は間違いなくNYで弁護士になれるから云々だったそう。

「別に皇室やのうても、試験の発表ぐらい待つし、もっと言えば働き出してから短くても一年ぐらい待つもんや」

 もう少し言えば結婚までのステップも踏むもの。両家の顔合わせだとか結納とかね。結納なんて古臭いと言われそうだけど、どこの家のお姫様を嫁にしようとしてるんだの話になるんだよ。日本一堅苦しい家が相手だからね。

 それより何より結婚は恋愛の一つの通過点だけど、恋人関係と結婚関係の最大の違いは、独立して家計を営むことにある。旦那なり、妻なり、もちろん二人合わせてでも良いけど、自力で暮らして行ける生活基盤の確立が必要ってこと。

 それなのに合格見込みだけで結婚するのは誰が見ても拙速じゃない。合格発表だって一か月後だから、そこまで待つのは常識に決まってる。それとコトリの言う通り、弁護士としてちゃんと働いて、収入を実際に得てからぐらいは待つものよ。

 これは本当に弁護士としてやっていけるかもあるけど、結婚資金を貯める意味だってある。結婚すると言うのはペットの犬や猫を貰って来るのとは違うのよ。犬や猫だって無計画に飼えば非難されるんだから。

 でもどうやって談判したのかの内容は不明だけど、あれよあれよと言う間に、なんと入籍結婚とさらにセットになる皇籍離脱を押し切っちゃったのよ。押し切られた宮家や天皇家もどうかと思ったもの。

「あの話もホンマやろか」

 彼氏がNYで留学を始めてから絹子内親王はアメリカに行っていない。これは行動が公式記録に残されるから明らかなんだよね。一方の彼氏の方もロースクール三年間で日本に帰国した形跡がないそうなんだ。もしこれが本当にそうなら、三年振りに顔を合わせた途端に入籍したことになる。

「ありえへんやろ」

 だよね。世の中には遠距離恋愛を実らせたカップルも少なからずいる。だけど遠距離であっても逢っていない訳じゃない、普通の距離の恋愛と違って会える回数、時間が少ないのがハンデなのが遠距離恋愛だ。

 それが三年も実際に顔を会わせずに再会した途端に入籍はまずあり得ない。三年もすれば人は変わる。まず相手の心が変っていない事を確認するものだ。

「それも必要やけど、実際に顔も合わせんと、どうやって結婚へのテンションを高めるんよ」

 コトリの言う通りで良いと思う。恋愛は逢う事によって想いが高まるんだよ。難しい話じゃない、逢って話をして、一緒にご飯を食べて、一緒にどこかにお出かけを重ねることで愛しいの想いを育めるのよ。

「そうやってテンションが高まるからハグになるしキスにもなるんやろ」

 そうしたい、そうされたい、ずっとそうしていたいのゴールの一つが結婚なのよね。

「東京とNYやったらキスどころかハグも出来へんやんか。ましてやエッチなんか一人エッチしか出来へんやん。ひたすらテレフォン・エッチだけで燃え上がれたとでも言うんかい」

 言い方がモロだけど、現実的にはそうだよ。そういう結婚へのテンションが高まり爆発しないと普通はありえないってこと。

「とにかく異例なんてもんやない」

 電撃入籍もそうだけど、結婚式さえ挙げなかったんだもの。そりゃ、世の中には結婚式を挙げないカップルもいるよ。これはそれぞれに理由があるのだろうけど皇族の結婚だよ。絹子内親王以外にあったとは思えないぐらい。

「それを言い出したら納采の儀も吹っ飛ばしてるやんか。まあこっちは納得づくかもしれんし、納采の儀を蹴とばしたから結婚式もないとは言えんこともないけど」

 納采の儀とは一般家庭なら結納のこと。あれは家族として相手を正式の婚約者として認める意味にもなる。そこまでは結納と似てるけど皇族相手になると重みが変わる。納采の儀を経ていないと相手を婚約者として認めていない事になるんだよ。

「婚約者やない相手との結婚など家としては認めてへんことになる。これは皇族全員がそうや。そやから入籍しても結婚やのうて野合とされてまうねん。そんな結婚式なんか皇族は誰も出席せえへんし祝福もせえへん」

 後から見れば絹子様の皇族への絶縁宣言だったと思えなくもないけど、彼氏が帰国してからあれよあれよと事が進み、誰もがキツネに鼻をつままれたような状態のまま、二人は一週間後に嵐のような騒ぎを残してNYに飛び立って行ってしまったのよね。

「皇室やのうても、こんな結婚は滅多にあらへん」

 そうとしか感想の持ちようがなかったもの。そりゃ中には、

『新しい時代の皇室のあり方』
『内親王と言えど、その前に一人の女』

 こういう擁護意見も出てたけど、わたしに言わせればそれ以前の社会常識の欠如としか思えなかったもの。ここまででも結構なものだったけど、後から思えば絹子様事件のまだ序章だった。