麻吹アングルへの挑戦:サヴァン症候群

「麻吹アングルが実在しているし、人の目でしか見えないのもわかるけど、それ以上は追いかけられなかったのはちょっと悔しいな」
「教授には言わなかったけど・・・」

 涼は仮説を持っているようです。

「網膜を通じて送られた情報は視神経を伝わり、背側皮質視覚路と腹側皮質視覚路に広がるとされているけど、ここまで単純なものでないとされてる。ここでポイントなのは、麻吹つばさはこれだけで麻吹アングルを見ていることになる」

 研究室での尾崎美里や泉茜の撮影風景からして、それ以外は考えられません。

「そうなると視覚情報処理の問題?」
「他に求めるところがない。でも常人には見えない」
「なにかの訓練とか」
「そうとも言えるけど、もっと根源的なもの」

 とは言うものの、脳の働きを解明するのは医学でも手強すぎるものとされています。動物実験でもウルサイのに、人相手、ましてや脳を切り開いて研究するなど不可能だからです。ですから、どうしても間接的な検査手段にならざるを得ません。

「だから研究の限界。そもそもだけど、脳がどれだけ働いているのかも未だに論争中だぐらいだもの」

 古くは一〇%説もありましたし三〇%説もありました。今では従来働いていないとされた部分も働いていると見られています。

「それでも活発に働く部位と、そうでない部位はあるで良いと見てる。もちろん視覚野もそうだけど、部位ごとに専門性があるのも確実」

 これは脳の損傷部位と麻痺部位の相関性でわかります。

「ところで、そのあんまり活発に働いていない部分ってどうなってるの」
「わからないから想像の産物になるけど・・・」

 涼が注目してたのは脳の代償機能。大きな脳損傷が起こり麻痺や機能喪失が起こっても、元通りとまで言わなくとも、かなりのレベルの機能回復が起こることがあります。

「あれは損傷したの部位の機能を他の部位が代償して働いたとているとしか考えられないのよ」
「誰でも起こるわけではないのは?」
「そこへのコネクトじゃないかな」

 これが人相手への研究の限界になってしまうのですが、

「涼の脳のイメージだけど、様々な機能のコンピューターが複雑にネットワークしながら機能しているぐらいで良いはずなんだ」
「どこかが壊れるとその領域のシステム・ダウンを起こす感じだな」

 涼がたどり着いた仮説は、そういう脳の中に本当の意味で使われていない、もしくはネットワークにつながれていない部位があるとするものです。脳が損傷を受けても回復するケースがあるのは、バックアップ・コンピューターに接続されて動いてくれたぐらいでしょうか。

「仮説だろ」
「そうだけどサヴァン症候群があるんだよ」

 初耳なのですが、先天性の脳障害を持つ者の中に、特定分野だけ異常なほどの能力を発揮する者がいるそうなのです。

「この病気を報告したジョン・ランドン・ダウンの報告からしてすさまじくて、膨大な書籍を一度読んだだけで完璧に記憶するだけでなく、逆から読み上げることも出来たってなてるよ」
「逆から一冊分の本をか!」

 ウソとしか思いようがないのですが、新渡戸稲造の記録にも異常な計算能力を持つ知的障害児に関するものがあり、そこには、

『七十九万三六二五に九万九六二七を乗ぜよと命じると、直ちに七九一億二九八万四六二五と答えた』

 新渡戸稲造が虚偽の記録を書く必要性はないので信じるしかなさそうです。現実に確認されているサヴァン症候群の能力に一つにカレンダーの曜日計算があるそうです。これも桁外れの代物で、何百年は愚か、何千年でも、何万年でも可能であると記録されています。

 ただし他の知能は落ち、IQは七〇以下の知的障害者であり、カレンダー計算以外は単純な足し算、引き算も満足に出来ないことも多いとなっています。

「もっときっちり記録されているものならキム・ピークの記録があるわ。キムは九千冊の本を一言一句完璧に記憶し、カレンダー計算もできたけどアメリカ地図をまるでカーナビのように精密にいつでも書けている」

 ひぇぇぇ、それでいて重い知的障害がありボタンも満足に付けられなかったのか。

「それだけじゃないの。日本での調査もあるのよ。長野の知的障害者教育施設でサヴァン症候群の有無を調査した記録が残されていて、母数は不明だけど七十二人のサヴァン症候群が見つかっているの」

 結構いるんだ。もちろん予備軍的なものも含めてになるのだそうだけど、

「原因はもちろん不明だけど、知的障害者って本来働くべき脳の一部が機能不全を起こしている訳じゃない。それを補うために、通常なら使われない部位が活性化したと見られてるぐらいかな」

 説明としてそれぐらいになるしかなさそうだけど、

「でも先天性の知的障害者に起こるものだろう」
「後天的な者もいるのよ」

 ジェイソン・パジェットはバーで飲んだ帰りに強盗に襲われ何度も頭を蹴られています。災難なのですが、翌日に目覚めると彼の目に映るものがすべて幾何学的な図形に見えたのです。その見え方は、

『流水の構造が、特有の幾何学的な図形と周波数で振動しているかのように見える』

 これを絵としたのですが、フリーハンドでフラクタル画像を描ける世界で唯一の人間とされます。この原因とされるのが、頭を蹴られた時に脳損傷が起こったためと考えられています。

 脳損傷が起これば、その部位の活動はなくなり重い障害が残るはずですが、パシェットの場合は損傷をカバーするために、通常は使われていない部位を代用として使われていると考えられています。

「知的障害もなくて数学者として活躍してる」

 なにか羨ましい能力ですが、これを獲得するために瀕死の重傷を負う賭けに出るのは躊躇われます。

「サヴァン症候群だけど、知的障害者に出やすいのは確認されてるけど、知的障害者にしか出ないとするのも変じゃない」
「わかったぞ。知的障害者の場合は障害とのコントラストでわかりやすいだけって事だろ」

 さらに涼は知的障害者に出現する能力と健常者に出現する能力が異なる可能性も考えています。

「それっていわゆる天才ってやつ」
「そこも微妙過ぎる部分があるのだけど」

 でもすべては仮説であり、こんなものを証明するのは涼とて不可能としか言いようがありません。

「たとえ健常者のサヴァン症候群の存在が見つかったところで、障害者でさえあれだけしか研究出来ないのにお手上げよ」

 異常者とまで言わなくとも狂気の天才の言葉があるように、天才とされる人物に奇人変人が多いのもまた知られています。サヴァン症候群の発生頻度が高いのは自閉症とされており、狂気の天才もスレスレのところにいるとの説もあるそうです。

「それとサヴァン症候群の研究が進まないのは治療対象ではないのよね。治療対象になるのは、当人もしくは周囲に問題が生じる時だけ。病気と言うより現象扱いかな」

 共感覚もそうですが、サヴァン症候群があったとしても本人が困ったり、周囲に迷惑がかかることもありません。

「色盲も同じような扱い」

 医学は病気を研究し治療法を編み出す学問ではありますが、治療の必要のない疾患への研究は後回しになります。そりゃ、まだまだ命に係わる病気は世の中にたくさんあります。それに研究するにしてもそちらに力が注ぐ方が注目されますし、感謝されます。

「真はオカルトみたいって言ってたけどある意味正しいかな。オカルト研究ではノーべル賞どころかイグ・ノーベル章でさえ難しいからね」