案外と思われる方もおられるかもしれませんが、正直なところ苦手です。特定の議題と言うか、目的がハッキリしている議題でのブレイン・ストーミング的なものならともかく、ディベート的なものになるとサッサと尻尾を巻いて避けてしまう傾向は著明です。余ほど引くに引けないものでない限り避けさせて頂いています。もちろん、どうしてもの時は気合入れて頑張りますけどね。
人の嗜好は様々ですが、とにかくディベート的な議論が好きな人が存在するのは確かです。話をネットに絞らせて頂きますが一番苦手とするのは、どんなに間違った主張でも一度出したからには、その場の議論では絶対に引かないタイプの方です。そんな議論にその場で勝ったところで「どうするんだろう」と思うのですが、とにかく頑張られます。だいたいパターンは似ているのですが、
相手 | 上から目線で思い込みに過ぎない主張を強弁的に断言する |
私 | 主張の中でキモになる部分の確実な反論論拠を出す |
相手 | 私が出した論拠以外は断言として間違っていないと再断言 |
私 | 提示した論拠から結論全体も否定できるとする |
相手 | それでも結論は間違っていないと他の論拠を出す |
私 | その論拠はその前に提示した論拠で否定されているとする |
相手 | その論拠のさらなる論拠を出せと要求する |
私 | 自分の論拠は信用できる権威であるとする |
相手 | そんなものは信用出来ないし、それでは論拠にならないから自分の結論は正しいと断言する |
私 | 面倒になる |
実は私的には、これは議論では無いと思っています。単に相手の根本的な誤りを指摘し、サッサと次の話題に展開させたいだけが目的です。言い換えれば、
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相手:この議論の勝ち負けこそが天王山
私:こんなものは議論ではなく、サッサと次に進むための補足
- 主題のすり替え
- 泥沼式の循環主張
- 悪魔の証明的な要求
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ラストコメント合戦
これ以外で苦手なのは同じ事しか主張しない人。ここもニュアンスを誤解して欲しくないのですが、同じ事を一貫して主張するのは問題ではありません。世の中にある主張を訴えたい時には必要なことです。ただなんですが、同じ主張をほぼ同じ表現で繰り返し聞かされるのは時にウンザリします。繰り返し主張する事は重要ではありますが、聞いてもらいたい、読んでもらいたいのなら手を変え、品を変えの工夫が必要です。ごく簡単には読んで面白い要素が求められると思っています。
記憶に残る私の親の説教がそんな感じで、どんな話(良い話、悪い話のジャンルを問わず)であっても、最後に力業でも説教モードと言うか、教訓モードの話に持って行く傾向がありました。最後に持ってくる話が毎度毎度同じでして、
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その話はもう聞きたくない
芸人だって同じ芸、同じギャグではそのうちお呼びがかからなくなるのと似たようなものと思っています。芸人の中には同じ芸で人気を保っているように見える人もいますが、あれとて芸の洗練、飽きられない様な細かなモデルチェンジを間断なく加えています。だから同じ芸と思いながら長期間「ウケル」事が可能になります。まあ、偉大なるワンパターンも無いとは言い切れませんが、滅多に成立しないからこそ「偉大」なのであり、ありきたりのワンパターンではやがて見向きもされなくなるぐらいのところです。
ついでですからネット議論でディベート的な展開になると、話が尖鋭化して
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シロかクロか!
机上の議論の話にあれこれ言うのは野暮かもしれませんが、世の中は一点の濁りもない清流ではかえって生き辛いところがあります。より清流でありたいのは正論ですが、ある程度の濁りがないと息苦しくて仕方がないぐらいです。これも濁りすぎてドブ川になっても困りますが、どの程度まで濁りが適当なのかの程度問題の側面は確実にあると思っています。サイレント・マジョリティは建前としての清流と、本音としてのある程度の濁りを敏感に見ている気がなんとなくしています。
濁りの表現は適切では無いかもしれませんが、必ずしも極の正論が全面的な支持を集めないのは、本音としての現実的な判断が案外ありそうに思っています。ただなんですが、ここも別の視点はあって、ネットで注目を集めようと思えば極論(正論であろうがなかろううが)が有利の側面もあります。それでも、なんちゅうか、極論だけを振り回せば炎上の危険性は付いて回りますから、個人的には好みじゃないですけどねぇ(昔はやってたんじゃないかの御指摘は甘んじて受けます。8年もブログをやってれば経験による変化はあると言う事で・・・)。