べき論

ツボにはまった「べき論」は書いていてムチャクチャ爽快であるのは白状しておきます。思う存分「叩ける」ので文字通り筆が踊る感覚になります。べき論を展開できるステレオタイプの状況は、

    ○○ともあろうものが××をするとは信じられない。衿を正すべきである。
ここから枝葉を繁らせて「べき論」が出来上がるわけです。繁らせる枝葉の中心は「××をする」です。言うまでもなく○○と言う属性の者が行うには相応しからぬ行為の論証です。論証と言うほど手間のかかるものではなく、繁らせる枝葉は、
  1. 法律的な問題
  2. 倫理的な問題
ここをタンマリ繁らせる事により決まりきっている結論である「衿を正す」に持ち込むわけです。○○が行うには相応しからぬ行為であるほど枝葉は繁り、繁らせた上で「こうすべき」であるの結論が強烈になる効果を生み出します。ですからツボに嵌った時の破壊力は凄まじく、○○がチャチな反論や釈明を試みてもテンコモリの枝葉で叩き潰される展開になります。


「べき論」が的確に当てはまった事例としては、そうですねぇ、かつての変態新聞事件クラスであれば「べき論」はぴったりツボに嵌りそうな気がします。あれは掲載された期間、その内容が余りにもひどく、いかなる弁明も困難だと考えます。では常に「べき論」が最強の手法かと言われれば、そうでもない気がしています。

○○が××を行うにはやはり犯罪捜査用語で動機があります。この動機が不純であればあるほど「べき論」は有効になりますが、結果は宜しくなくとも動機は理解できる物事はこの世の中には多いものです。たとえば「××をする」が明瞭な法律違反であっても、その法律自体が時代の変化についていっておらず、法を守る事が非常に困難になっている事さえありうるです。そのため違反行為と認定されても、これをキッカケにして違反とされた行為を違反としないような法改正が行われる事さえあります。

上でツボにはまる例として出した変態新聞事件ですが、これは基本的に法律的な問題でなく倫理的な問題です。倫理的な問題であれば「べき論」は最強かと言われればこれもまた微妙すぎるところがあります。倫理もまた時代で変わり、さらに立場によって変わります。ある立場からの倫理違反の主張が、立場が変われば承認できない事が起こるのがこの世の中です。

あんまり適切な喩えではないかもしれませんが、同性愛もかつては倫理として「言語道断」的な見方をされた時代もあったはずです。ところが今では同性婚の議論さえオープンに行われています。性同一障害の概念も確立され、これに対する治療さえ普通に行われる時代になってもいます。ただですが今でも「言語道断」的な倫理観の人ももちろんおられる訳で、そういう人の倫理観で「べき論」を展開されても異論噴出になり一刀両断で相手を叩き潰すなんて無理になります。


もう少し「べき論」を考えると構造的に、

    こうあるべきだの御説はごもっともだが、実際のところそうできない事情がこんだけある
こういう反論が常にある関係になっている気がします。「そうできない事情」が薄弱であれば「べき論」は強力になりますが、ある程度強いと切れ味が鈍くなってイクです。切れ味が鈍くなるだけでなく「そうできない事情」が非常に強力であれば、べき論自体が完全に浮いてしまい空疎な主張になり冷笑されるものになります。ま、べき論を展開するときにはたいてい「そうできない事情」を敢えて伏せますから、反論で出てきて失速する感じでしょうか。いちおう医療ブログですから力業でも医療の問題に振っていきますが、救急問題もそういう面があると思っています。これの「べき論」の骨格は、
    医者ともあろう者が、困っている救急患者を診れないとは何事ぞ。いつでも診れるようにすべきである
これ自体は正論です。医師は患者を治療するのが職業であり、病人であれば誰であっても救いたいととするのが基本倫理です。医師ならばこの点はたとえ建前と言われようが絶対です。この点を「そうじゃなく、単に金儲けのためにやってるだけだ」と反論しようものなら、それこその袋叩きに遭い、最悪社会的生命を絶たれてしまいます。

ではそういう主張に医師は無条件にひれ伏せるかと言うと無理です。医師としての基本倫理はたとえそうであっても、医師である前に人間であり気力・体力の限界があります。24時間寝ずに働けば疲労もし、気力も尽きると言う事です。24時間365日救急医療が医師としての目指すべきものであるのに同意しても、当たり前ですが、それが出来る体制の構築が大前提になります。体制があるのに救急患者を応需できないのは医師倫理に反しますが、体制が無く倫理だけで24時間365日を強いられても無い袖は振れないと言うお話です。


べき論でもっとも弱点をさらけ出す類の主張は、倫理だけで相手に強制を強い、実情には頬かぶりしているものと私は考えています。倫理に基づいた主張は一見強力そうですが、実情無視で出来もしない事を「べき」にするのは実情を知る者には空疎な発言です。ただ空疎なんですが時に扱いは厄介になります。厄介と言うのは実情無視の主張者は必ずしも本当に改善したいという意志を持っていない事がしばしばあるからです。

この精神論的な「べき論」主張者は何のために誰に主張してるかの問題です。本当に改善したいのなら実際の担当者が共鳴できる主張が必要です。実際の担当者が共鳴しない限り物事はスムーズに進まないからです。そのためには実情を良く知る必要があるのですが、これは無視しています。つまり主張者が訴えたいのは実担当者ではなく「その他大勢」に向けてのものと判断するのが妥当です。

「その他大勢」もまた実情を必ずしも知るわけではありません。また知ろうとするモチベーションもさして高くありません。こういう主張の多くは、「その他大勢」には何のデメリットも無く、聞いて賛同だけしておけばタナボタでメリットだけ転がり込む類のものが多いからです。これが嵩じた者がよく言われる「プロ市民」もしくは「プロ市民団体」だと思っています。

この話も何度かしましたから簡単にしておきますが、プロ市民団体は団体活動そのものが飯の種になっています。団体が活動しなくなれば飯の食い上げになります。つまり目的は決して達成されてはならないと言うことです。ですからプロ市民団体の中には、そもそも達成が絶対不可能の目的を掲げているところが少なくありません。達成不可能でなくとも、達成されそうになれば速やかにハードルを上げられます。そうしないとプロとして食っていけないからです。無事目的を達成して目出度く解散なんて事はプロとして「あってはならない」と言う事です。


プロ市民の事はこんなもので良いと思いますが、真っ当な「べき論」かそうでないかの見分けのごく簡単なポイントは、実情についての考察が十分に為されているかを見るべきかと思います。べき論に倫理的問題、精神論的な問題を持ち出しても差し支えないのですが、それを主張できるだけの実情への配慮がキチンとなされ、それを踏まえた上での対応策を打ち出しているかです。ひたすら倫理的・精神的問題だけを論じ、いきなり「べき論」に雪崩れ込む主張は要注意と思っています。

それと倫理的・精神論的な主張の内容の分析もポイントで、偏った観点になっていないかの見極めも大事です。倫理も一つのようで一つではありません。時代が変われば新たな倫理観が出るのが世の中です。この辺がまた厄介なのですが、新しい倫理観が出ても、古い倫理観と並列したりもします。どちらの倫理もある意味「正しい」のですが、どちらかに強く偏向した上で「その他は論外」みたいな論旨展開もまた注意が必要と思っています。

もう少し複雑な物になると、実情を考察してるように見えるものもあります。この時の考察は実情に触れたように見えるだけで、実は倫理的・精神的問題に副うように実情なり、論拠を都合よく解釈されております。本当は倫理的・精神的問題と実情はすり合わせた上で現実的な結論に導くのが正当ですが、結論は最初から決まっており、結論に邪魔な実情はキチンと伏せられた実情解釈になっています。これを読み解くのはチト大変で、私も釣られて飛びつき醜態を晒した事は過去に確実にあります。


今日の考察のまとめみたいなものですが、世の中は単純ではありません。単純でない世の中の事象をある一面から切って捨ててしまおうと言うのが「べき論」の一つの側面の気がしています。私も注意して使う「べき」だと改めて自戒してる次第です。