人間力と美術力

参議院選挙が終わった途端に文科相から、

こんな言葉が飛び出しているようです。「○○力」も流行語で良く使われるもので、大臣の思いつきかと思えばそうでもなく、大真面目に定義して公的教育に取り入れるとしています。まあ、報告書に書かれている事はある種の徳目みたいなもので、個別には「そりゃ、あった方が良いだろう」ぐらいには素直に思いますが、これらの考えの基本と言うか基礎が定番の、
    昔は良かった式
この臭いがプンプンします。今が最高の状態と言う気まではありませんが、昔が良かったと無検証に断定しているあたりは首相が好きな親学とも似ているところがあります。人間力についてはタイトル上の釣りですから感想はこの程度にさせて頂きます。



社会人になれば人物の評価項目に主観が乱舞するのは現実です。しかし学生期、とくに高校以下では可能な限り客観的である方が望ましい気がします。児童生徒の評価者は教師であり、教師からの評価が教師の主観と言うか感情で決められる部分が大きくなるのは少々辛いところがあります。そりゃ、嫌われたら地獄になるからです。教師に嫌われないようにするのも「人間力」かもしれませんが、そうそう綺麗事の世界と思えないところです。

私が教科の中で絶対の苦手としたのは体育。これはもう天分の部分が余りにも大きく、さらに勉学とも似ていますが日々の鍛錬の蓄積の差が如実に出ます。平たく言えば、水泳は水泳部には絶対勝てませんし、機械体操は体操部に、陸上競技は陸上部に逆立ちしてもかないません。そういう部活をやっている連中からすれば、素人に勝つのは当然の鍛錬を重ねているから当たり前です。嗜好もあるでしょうが、運動が好きだから体育会系の部活に入り、その競技が好きだから日々の練習も頑張って居られるわけで、それが得手の連中に練習無しで勝とうとするのが不遜と言うところです。


そういう天分系の比重が大きい学科に美術があります。美術も天分が占める比重の大きいものです。さらにその評価に占める主観性の部分は大きくなります。極論すれば美術担当教師の感性にマッチしたものほど高い評価を得やすいです。私の旧友が美術の非常勤講師もやるので聞いた事があるのですが、具体的にはどういう評価をしているかです。「n = 1」ですが割りとシンプルなようで、

  1. 作品の出来不出来に関らず、課題をすべて期限内に提出していたら5段階の3相当が基準
  2. その中で「出来が良い」と評価できるものを5段階の4なり5をつける
  3. 5段階の1とか2は課題の提出も行わないものが中心
たぶんですが5段階の3評価は出席点みたいな感じでしょうか。美術センスはたかが美術の授業内で教えられるような代物ではなく、純粋に美術評価だけで付けると、それこそ高校(今日の話は中学時代のお話です)進学の内申評価を左右しすぎるみたいなところです。こういう評価基準がベースにあるとして、たとえば、
    課題を期限内に全部提出しても低評価
こうされたどうなるかです。基準評価は5段階の3相当はあるはずですが、提出された課題作品の評価がムチャクチャ低評価と言う事になります。それも課題を提出しないものよりさらに低い評価になり、
    お前の美術センスは論外のアホ・レベルである
こうされている事になります。実は私がそういう評価を受けまして、課題は期限内に全部提出していたにも関らず、5段階評価の2であり、もう少し言えば10段階評価の3でした。私の中学時代に受けた美術評価はそんなものだったです。私は小中高からさらに大学時代も含めて、いわゆる恩師にそれほどの反感を抱いた者は少ない方です。授業中にチョークを投げつけてきた教師もいましたが、スッカリ忘れてしまうほどの印象しかもっていないのですが、この美術教師だけは未だに反感を持っています。

今から思わなくても、あの美術教師は小奇麗な作品を好みました。小奇麗な作品を仕上げるためには、やはりそれ相応のテクニックが必要です。この点について評価の高い者に及ばないのは自覚しています。たとえば絵を描くデッサン力は、美術教室に通っていたり、それこそ美術部の連中の足許にも及びません。その点が劣るのを自覚していましたから、私はアイデア勝負の作品を作るのが好みでした。

どうもではなく現実としてそうだったのですが、このアイデア勝負のアイデア部分の評価のソリが美術教師と全く合わなかったのが当時だったようです。そりゃ、アイデアはアタリもあればハズレもありますが、徹底して大ハズレの評価を受け続けた3年間であったぐらいに思っています。ではでは、それが私に対して美術コンプレックスを抱かせたかと言うと、そうでもなかったと思っています。ある種のダメージ・コントロールみたいなものですが、

    たかが田舎の美術教師如きに私の芸術が理解できないのはしょうがない
一概には言えないかも知れませんが、美術教師の多くは美術を含む芸術で喰っていこうと志した連中だと思っています。最初から美術教師にだけなりたいと志望した者は少ないと考えています。プロを目指しはしたものの、結局のところ才能が乏しすぎて美術教師にしかなれなかった程度の才能と私は決め付けています。才能と言うか天分の評価は、それを評価できるだけのその分野の才能ぐらいはないと無理になります。あの美術教師は、私の才能を評価するには美術の才能が低すぎたのであろうです。


大昔の話で私を嫌った美術教師も既に定年のはずです。御存命かどうかも知る由はありません。済んだ話ですからどうでも良いのですが、この後の教訓にはなりました。主観評価は怖ろしいもので、一つ間違えばトンデモない目に会いかねないです。そういう意味で人間力を鍛えてくれた恩師の1人になるのかもしれません。