精神科医の計見一雄が述べた「ユニークな狂気はない」は至言で、狂っている人間の言動はよく観察すると、オリジナリティに欠けているのが分かる。ところが、これを平凡である証拠としてしまう阿呆が結構いる。全然違う。狂っているから独自性がないのだ。
なるほどと感じた次第です。そこのコメも引用しますが、
たとえば、長いスパンだと小説や論文を完成させられない、短いスパンだと本が読めない、症状が酷くなってくると食事の時に箸が持てない、などです。だから、何でも中途半端に投げ出す一方で、短絡的に解決する方法を選択しがちになるのが精神病の特徴ですね。
大づかみな話にしますが、精神病って言っても発症する前は正常人である訳です。それが何らかの理由で変調をきたし精神病を発症する事になります。精神病の症状は多彩ではありますが、精神病になったからと言って、そこまで持っていた知識が増大する訳ではありません。また天分としての才能も変わる訳ではありません。単純化すれば発症前の天分・知識の表現が変形するだけと言えるかもしれません。
人は社会人として生きていくために自己の欲望をセーブしています。欲望の達成のためには社会との調和を常に配慮しながら行動しています。あんまり良い喩えではないかもしれませんが、何かが欲しい時には、それを手に入れるための社会的手段を手に入れるために努力します。買えるものなら貯金するとかです。そういう行為が出来なくなるのが精神病の一つの特徴と言えるかもしれません。そのために発作的に持ち逃げしようとするとかです。手に入れるための理性的な抑制のタガが外れるぐらいとしても良いかもしれません。
そのために正常人からすれば一見突飛な行動に見えますが、実は突飛でもなんでもなくてダイレクト過ぎる行動を取っているに過ぎないの見方です。正常人ならある事をやりたいと思った時に、
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あれがしたい → そのためには、まずこれをする事が必要 → そのためには・・・ → ・・・・・ → 目的達成
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あれがしたい → じゃ、やる
引用元が「狂気」という言葉を使っているので私も使いますが、狂気はよく誰にでも潜んでいると言われます。これが極度に強くなり、社会生活を営めなくなったものが精神病患者ぐらいとしても良いかもしれません。正常人と思っている人間も多かれ少なかれ狂気のタネは持っているとは思っています。私だって例外ではありません。狂気の度合いも濃淡は幅広くあります。問題視されるのは境界領域まで達した方々です。ある特定集団の医療者は狂気が高まると同じ傾向を示す点があるように思っています。例外もあるのでしょうが、非常に多くの者が不思議なほど同じ傾向を示すと感じています。
初っ端は現代医療の否定です。科学のアプローチの一つとして常識を疑うのは悪くありませんが、表に出てくる頃には疑問ではなく否定として登場されます。おそらく疑問時代は表向きは正常人として周囲と調和が可能であったと見ています。現代医療への疑問ぐらいなら私だってありますが、それを内心で考えているうちは正常範囲の狂気であり、これを表にアピールし、実際に行動を始めると境界域に突入さらには突破したぐらいと見ても良いかもしれません。
ここで現代医療の否定自体は狂気の産物とは限らない事は念押ししておきます。否定する理論、また現代医療を置換できる有効な医療を提供できれば狂人ではなく真の天才です。しかし残念ながらそういう人物は未だ存じ上げません。医療否定の論拠、治療法は思いつきのデタラメに近いものが多々あります。当然のように多くの非難を浴びる事になります。非難だけではなく実害も起こします。
そういう狂気に染まったある特定の医療者は自身の医療否定論拠を固める努力はされます。前提が現代医療の否定ですから、現代医療の理論は原理として使えません。ここでも完全にオリジナル理論を作ればまだしもなんですが、狂人には独創性がないの言葉が重くなります。そのうえ地道に目的に向って努力できない症状も現れます。そのために現代医学ではない既成の医学理論にほぼ例外なく到達され飛びつかれます。それは、
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波動理論