他山の石

誤用されることも多いようですが、正しい意味は大辞泉より、

よその山から出た、つまらない石。転じて、自分の修養の助けとなる他人の誤った言行。「他社の不祥事を―として会計の透明化をはかる」→他山の石以て玉を攻むべし

◆質の悪い石でも玉を磨くのに役立つということから、良い言行を手本にする意味で使うのは誤り。
文化庁が発表した平成16年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味である「他人の誤った言行も自分の行いの参考となる」で使う人が26.8パーセント、間違った意味「他人の良い言行は自分の行いの手本となる」で使う人が18.1パーセントという結果が出ている。

反面教師ぐらいの意味で受け取るのが正しい言葉です。今日はもちろん本来の意味で使います。


小耳に挟んだ話で某医師専用掲示板で誹謗中傷からの名誉毀損騒ぎみたいのが起こったそうです。ちょこっとだけ聞いた話では、正直なところ相手が悪すぎます。あんな手強いところに安易に手を出したら、そりゃ返り討ちにあいます。つうか、返り討ちにあったものが多数いる事ぐらいは常識と思っていましたが、未だにそんな事も知らない者が多い方にかえって驚きました。

たしかにネット上は批評・批判と言うより誹謗中傷的な言説が渦巻くところですが、はっきり言って免責地帯・無法地帯ではありません。リアルの尺度による法がネット言論にも当てはめられます。 そりゃ、ほとんどの誹謗中傷言説は、その数が多すぎてすべてが取り締まられているわけではありませんが、防衛意識が非常に高く、攻撃に対して俊敏かつ効果的に反撃するところは確実にあります。

あんなに有名なところなのに安易に手を出して大火傷したものに同情はありません。


そもそも論で言えば、某医師専用掲示板がネット上のクローズ空間と思いこんでいる人間が未だにいそうなのにも驚かされます。たしかにこの種の会員制サイトが出来た頃には、クローズ感覚は私にも無かったとは言いませんが、あの某医師専用掲示板については、奈良大淀訴訟の盤外戦で「そうでない」事が広く周知されています。

それでも未だにと思うとビックリさせられます。歳月が流れるのは早く、福島大野、奈良大淀と言っても知らない医師も増えてきていると聞いた事がありますが、それにしてもと素直に思います。ま、奈良大淀訴訟の盤外戦を知らなくとも、ネット上で真のクローズ空間はまずありえないぐらいは常識として身につけるべきと思います。



ほいじゃ、そういう怖ろしいところ(某医師専用掲示板での相手とは違う一般論的な意味です。くれぐれも誤解がないようにお願いします。)には一切手を出すなかと言われれば、そうではありません。孫子の言葉をここは引用します。

    彼を知り己を知れば百戦して殆うからず
有名すぎる言葉ですが、まず相手を知る事です。ネット情報の充実振りは目覚しいものがありますから、最低限の準備として「ググれカス」です。それぐらいの努力も怠るようであれば、血祭りに挙げられても単なる「バカ」です。相手がどの程度の戦力で待ち構えているかをしらずに突撃するのは愚の骨頂と言う事です。相手が強大であればあるほど、戦うためには慎重かつ入念な準備が必要であり、これも孫子の言葉ですが、
    それ未だ戦わずして廟算勝つものは、算を得ること多ければなり、未だ戦わずして廟算 勝たざるものは算を得ること少なければなり
廟算とは孫子の時代(春秋戦国時代)の戦争は、出陣する前に先祖の霊に廟で報告しその加護を祈ると言うのがありました。簡単に言うと必勝祈願ですが、同時に最終作戦会議も意味します。この出陣前の戦力見積もりで勝算が覚束ないようなものは宜しくないです。出陣を決めた時点で、勝つための様々な準備が終了しておくべきだです。これは自軍の戦力の充実もそうですし、同盟軍の編成、相手への弱体化工作なんかも含まれます。

ネット論争と戦争は同じではありませんが、相手によってはそれぐらいの準備が必要であり、準備が整わない、つまり廟算が立たない時は回避するのも重要な判断になります。どうしても手強い相手に戦いを挑みたいのなら、勝つだけの材料をまず入手する事が必要条件と言う事です。それもなしに、あやふやな材料だけでの出陣はリスクが高すぎるです。

相手の主張を根こそぎ覆すのは無理としても、せめて一点突破であっても、決定的な材料を手にするまでは隠忍自重すべきであると考えています。時を待つのも重要な戦略です。



それと相手が強大であるほど注意しないといけないのは安易な付和雷同です。ネットの限られた局面では、叩き放題状態がしばしば出現します。そこだけを読んでいると、「何を書いてもOK」的な気分になり、過激な表現のエスカレート合戦にしばしばなります。相手を見切った上でのものならまだしも、そうでなければ最悪一網打尽の憂き目にあいかねません。

付和雷同をする前に、本当に付和雷同での祭りを楽しんでも良い相手なのかのリサーチは必要です。前後の書き込みはさして参考になりません。もちろん相手を見切った上でのものもあるでしょうが、純粋にその場の空気で付和雷同している事も多々あるからです。書き込みで判断できるだけのリテラシーに自信があれば良いですが、そうでなければ「ちょっと待った」はしておくべきでしょう。


付和雷同に乗っかってしまった時の最後の防衛線は言葉の選択とその表現です。もうある程度危険な状態にあるのですから、ギリギリの防衛ですが、消極的に賛同しても、先頭切って新たな批判を展開しないです。たとえばですが、

    書かれている事がもし本当なら大変
この程度なら逃げられる可能性が残りますが、
    こんな奴は○○の風上にもおけない
ここまで行けばかなり危険です。さらに危険なのは根拠の薄弱な尾鰭を付けることかと存じます。
    あいつはこんな詐欺的なやり方で人の生き血を啜って肥え太っている
こうなると「もう知らない」です。書いたものは自己責任ですから、潔く責任を取らざるを得なくなる寸法です。



存在価値さえ否定する批判は、やるからには相手の反撃を常に念頭に置かなければなりません。相手の脇が甘そうだと思って切りかかったら、自分の頭ががら空きだったでは何にもならないです。どうしてもやりたいのなら、感情的な誹謗中傷まがいの批判ではなく、醒めた感情で相手の主張のアラを論拠を並べて砕く反論が一番安全だと思っています。

相手の反撃点は筆が滑って根拠無き誹謗中傷になる点を狙ってくるわけですから、あくまでも、

    あなたの主張は、こういう論拠からすると間違っている可能性があると考えられます
これに対しては、反撃すると言っても根拠にしている意見への再反論に留まらざるを得なくなります。自分の主張に反論された事自体を封じる行為は、それこそ言論抹殺になるため、学術上の議論の土俵でしか反撃できなくなるからです。なおかつ、相手の学術上の反撃が凄くて論破されようとも、学術と言う土俵の上での勝負ですから、次は頑張ろう程度の傷しか負いません。

相手の反撃が、学術論争でなく法の土俵に持ち込まれては勝ち目が乏しくなります。もう少し言えば法の土俵に乗るもののみが反撃として真に怖ろしいわけです。攻撃サイドとしては、いかに法の土俵に乗らずに済むかの戦略戦術が必要と言う事です。

あえて法の土俵に登ってでも真っ向勝負したいと考えられる方は勝手ですが、私が情報として知る限り「とくに」某医師専用掲示板での相手は、本物の手練れのようです。ですから、そんじょそこらの弁護士が付いた程度では、旅順での第三軍による白襷隊より無残な結果が出るように思います。皆様、他山の石は十分に活かして欲しいと思います。