ニュージーランド地震報道

地震と言うか天災について書くのは実は本当に辛いのですが、とにもかくにも亡くなられた皆様に謹んでお悔やみを申し上げ、被災者になられた方々の、これからの御苦労に「がんばってください」とだけさせて頂きます。

地震と言うのは本当に恐ろしいもので、本当に一瞬で日常の風景を非日常の風景に一変させます。この変化は日常というものが、いかに些細なものの積み重ねで出来ているかを思い知らされますし、これが突然失われた喪失感は、簡単には表現できるものではありません。そんな喪失感を抱いたまま、生き残った者は生き続けていかないといけません。

神戸もあの日から16年が経ち、見た目には震災のつめ跡は殆んどわからなくなっていますが、被災者にとっては今でも地震前の姿と二重写しになっています。あの日さえなければの喪失感は、被災経験者がいる限り続くと思っています。


被災者の気持ちなんてものを単純に言い表せるものではありませんが、信じられないような喪失体験は、しばしば人を茫然自失にさせます。親しい友人や家族を失うのは悲痛なものなのですが、悲痛過ぎる上に、周囲に同じような状況がありすぎて、何がなんだかわからなくなってしまうと言えば良いのでしょうか。本当に悲しい経験をしているのですが、周囲が壮絶すぎて、どうしたら良いかもわからなくなってしまう感覚です。

それと地震の被害の広がり方は、人を非常な奇妙な感覚にさせます。あの時の神戸の市内の被害は今さら書くまでもありませんが、被災地を離れて、それこそ隣の町に行けば、ごく普通の日常生活が営まれています。普通に商店が営業し、商品棚にはごく普通に商品がならんでいます。町行く人も日常生活そのままです。そんな地域と被災地はもののクルマで30分も移動すればあるのです。

被災地感覚と日常感覚のギャップは、頭でわかっていてもなかなか整理できるものではありません。被災地で困ったものに水がありますが、生き残るために被災地外に買い出しに出かけたものは、蛇口から普通に出て来る水に驚嘆したものです。そこで手を洗い、ポリタンクに水を入れても誰も文句は言いません。言いませんは端折りすぎですが、被災者が望めばそれぐらいは誰でも提供してくれました。

そういう行為に被災者は素直に感謝したのですが、この日本で困ってる人に水道水を少々提供することは、日常生活を送っているものにとっては、正直なところ大した行為ではありません。そりゃ、100人も200人も押し寄せられたら迷惑ですが、1人や2人に提供する水道代なんて金銭的にも無視できるほどのものです。

何が言いたいかですが、それぐらい被災者とそうでない者は感覚が違っていると言う事です。日常生活の中にいる者の感覚で接すると、思わぬ事で大きな反発を受けたり、良かれと思った事も裏目に出ることがあります。もちろん逆もあります。上で大きな喪失体験から茫然自失状態にあるとしましたが、完全に自失している訳ではなく、ある面の感情は非常に鋭敏になり、一方である面の感覚は鈍磨してしまっているすれば良いでしょうか。


被災地からの情報発信は大事です。被災地のサイバイバル、さらには復旧のためには他地域からの援助が欠かせないからです。大きな被害を受けている現地にはそこまでの余力が無いですし、さらに被災地には自力で情報発信を行なう余力さえ損なわれています。情報発信は重要と理屈でわかっていても、それ以前のサイバイバルのために忙殺されるからです。

そういう状況で被災地の情報発信に大きな役割を果たす事が期待されているのは報道機関です。報道機関に被災者が期待しているのは、現地の被害の実相を正確に伝え、今必要とするもの、またこれから必要になるものを情報発信してくれることです。正直なところ、震災にまつわる悲劇や人間ドラマをメインとして報道して欲しいと思っていません。

震災にまつわる悲劇や人間ドラマを報道してはならないとは言いませんが、報道する時期があるだろうと言う事です。もう少し言えば、現地の声を伝えるのと、人間ドラマを掘り出して報道するのはちょっと違うだろうと思っています。

被災地では言ったら悪いですが、震災にまつわる悲劇や人間ドラマは見渡す限りの日常なんです。被災者の連帯感と一概に言ってしまうのは無理があるのですが、とりあえず生き抜こうが一つの目的になります。この目的も時間が経つにつれて変質していくのですが、ある時期までは、まず生き抜くために協力して行こうになります。

そういう時期に悲劇や人間ドラマを一生懸命に現地情報として発信されても、「それより伝えるべき声があるだろう」と違和感を感じてしまうと言う事です。


それと情報発信は重要ですが、とくに震災直後は情報発信のための取材活動が、救援活動の支障になってはならないの大原則があります。救援活動はまさに時間との戦いです。時間との戦いである上に、救援に投入できる戦力は常に不足します。なんと言っても広範囲に多数の現場が存在しているからです。さらに言えば救援作業は遅々たる手作業に頼らざるを得ないというのもあります。

柱1本が邪魔しただけで、これを人力+αぐらいで対応するのは非常な困難を伴います。現場は大きな被害を受けた建物がいつ二次災害を引き起こすかわからない状況でもあります。そういう厳しい状況を何人といえども邪魔してはならないと言うことです。医療機関も大変な状況です。それこそ野戦病院のような状況に陥ります。そこで行ってはならないことは、医療活動の邪魔をしないです。邪魔をされた分だけ医療活動が遅れ、助けられたかもしれない命が失われるからです。


もう一つ強調しておいて良いと思うのは現地の対策本部だって被災者なんです。おおよそ災害訓練の想定なんて、本部は健在、速やかに必要なスタッフは招集され、情報も確実に集まるなんてものが少なくないような気がしています。しかし実際は誤算や想定外の事態が頻発します。とくに震災初期は「とりあえず」の連続の綱渡り状態になります。

本部があればそこに要請は殺到しますが、対応できる案件は24時間不眠不休で対応しても限界があります。間違っても粛々と秩序だって対応できる状態ではありません。震災初期の「とりあえず」は救命作業であり、ほぼ同時進行で生き残った被災者への対応です。それ以上の負担を可能な限りかけないようにするのが、被災地外の人間の心がけるべき事だと思っています。


それぐらいの事は既に常識、マナーとして確立していると勝手に信じていました。神戸でも経験したでしょうし、それ以後も断続的に大きな地震被害は国内でも起こっています。海外だって取材経験を重ねているはずです。だから当然と思っていましたが、どうもそうではないようです。とにかく悲劇の人間ドラマの「絵」をハイエナのように漁っている様に見えてしかたありません。

たぶん感覚として、日常感覚の読者や視聴者に「受ける」題材を探すのに懸命であるように思えます。これが国内であれば基本的な地震情報の提供も行なわないとならないので、まだしも薄められるのでしょうが、国外となるとタガが外れている印象があります。とにかく人間ドラマの題材を企画に沿ってかき集めようとしているとすれば言いすぎでしょうか。

商業報道の本質が読者や視聴者の興味があるものを提供するものであるのは理解します。大規模災害であっても例外にならないのかもしれませんが、時宜をわきまえるべきだと思っています。確かに悲劇として注目されている真っ最中に悲劇のヒーロー(ヒロイン)を作り上げるのは商業的にはインパクトがあるのかもしれませんが、それに特化されて狂奔されるのは正直なところ被災経験者としてずれていると感じています。

現地の声を伝えるの意味を根本的に勘違いしている様に感じています。今回のような海外の大規模災害の取材・報道は、なんのかんのと言われている既製メディアの独壇場のはずです。こういう時に真価を発揮してこそ、存在価値の証明になると思うのですが、どうにも感覚がかなり違う様に感じています。


ごく素朴に感じているのは、震災は決してショーでも見世物でもありません。多数の生身の人間が直面している出来事なんです。日常生活ではそうそう負う事のない悲惨な体験を、広範囲の多数の人間が同時に苦しんでいる現実そのものなんです。それを報道として伝える時の基本は人間の尊厳だと私は思っています。そこさえ十分に踏まえていれば、もっと違う報道が出来るのではないでしょうか。