日曜閑話22

今日のお題は「桂小五郎」です。日本史の教科書的には木戸孝允の方が有名ですが、幕末史の中では桂小五郎の方が圧倒的に有名なのでこちらを使います。ちなみに桂から木戸に名字が変わったのは第二次長州征伐の前に藩主から「木戸」の姓を賜ったそうですが、残念ながら毛利家で「木戸」姓にどんな値打ちがあったのかはわかりませんでした。

前に西郷隆盛もよく分からないところがあるとしましたが、桂小五郎はある意味それ以上かもしれません。維新での西郷の役割はある意味象徴です。それも飾り物の象徴ではなく、自らの人格人望で「この人」について行くのが最善の選択と感じさせ、薩摩藩だけではなく、倒幕勢力の旗印になった役割を果たしています。大久保利通も西郷と並び称されていますが、政治的才能はともかく、人望の点で西郷とは雲泥の差であったのは間違いありません。

桂小五郎の役回りは基本的に薩摩の西郷の長州版です。おおよそそういう構図で理解しておけば幕末史の理解で問題はないのですが、西郷と桂では藩内事情が天と地ほど異なります。薩摩の藩の体制は統制主義を堅持し、大久保が開明とは程遠い実質的な薩摩藩主である島津久光を「攘夷」の一点だけで騙しながら引っ張る体制です。実質は西郷や大久保、あるいは小松帯刀などが主導していましたが、あくまでも藩主の命で動いていたのが薩摩と言えます。

ところが長州はかなり違います。長州は幕末において暴発に次ぐ暴発を繰り返して、時に惨憺たる敗北を喫したりしますが、長州の暴走が倒幕の原動力になり、明治維新につながったと考えられます。外に向っても暴走した長州ですが、当然の事ながら内に向っても暴走が繰り返されます。そういう長州の思想の淵源が吉田松陰松下村塾とされています。

松陰研究が甘いので大雑把にまとめますが、松陰はペリー来航に国防の危機を感じ、そのために日本が一致団結して戦わなければならないの思想を持ったと考えています。一致団結するには門閥による身分制、さらには封建制である幕藩体制では不可能で、これを打破して天皇の下に全国民が集結しなければならないとしたで良いかと思います。

松陰が教育者として優秀であったのは周知の通りで、松陰の思想が下級武士を中心に広がり一大勢力を築く事になります。もっとも松陰の思想が全員に正しく伝わったかどうかは極めて疑問で、幕末の世を覆った水戸学の攘夷思想とミックスして広がったとするのが正しいと考えています。長州の政情は旧来の門閥派、松陰系列の一派、さらには単純な攘夷派が主導権を争いながら暴走すると考えたらよいと思っています。

こういう状況が出現したのは薩摩と違い、門閥派の力が弱かったもありますが、長州藩の経営で機能主義が浸透していたからだとも言われています。長州藩は御存知の通り、関が原で所領を1/3以下に狭められた毛利家の所領です。それが江戸期を通じて、開墾で田畑を広げただけではなく、藩内産業を盛んにし、通商により藩財政を豊かにしています。こういう事業を行なうには有能な人材が常に必要であり、他の藩のように門閥でございでは務まらない状態になっていたといわれています。

有能な人材を多数派である下級武士から抜擢するのが珍しい状態でなかったため、藩内の身分感覚は他藩と大いに異なっていたとされます。松陰の思想が大きく広まったのもこういう気風の下地があったからだと考えています。

松陰と桂小五郎の関係は師弟ともされますが、それよりも同志とか友人に近い関係であったとも言われています。桂は松陰の下田踏海にも関係し、さらに松陰が処刑された後にその遺体を盗み出すのにも関与しています。ですから松陰派の人間からは広い意味での後継者、古風に言えば衣鉢を継ぐ者として見なされていた一面があるとされています。

では桂小五郎も矯激な倒幕主義者であったかと言うとこれは微妙です。倒幕主義者ではあったでしょうが、矯激とはやや縁遠い位置にいます。どちらかと言うと藩内の激烈な思想による主導権争いと、主導権争いの上で行なわれた暴発に対し、抑えて回る役回りが多いように感じます。抑えると言っても抑えきるような政治力を発揮したわけではなく、抑えたけど暴発は行われ、暴発が失敗に終わった後に評価が高まるみたいな感じでしょうか。

この辺が薩摩と長州の大きな差で、桂は指導者の位置にはいましたが、偏った強硬姿勢を取ればすぐに暗殺される状況にあったのです。現実に何度も暗殺の危機がありましたが、いつも巧妙かつ敏速に逃げおおせています。こういう状況下での指導者は自分の考えに反する事には、いちおう反対の意志を見せますが、大勢が傾くと姿勢を控えるみたいな微妙な舵取りが必要になります。言い方によっては、暴発の後処理まで計算に入れながら動く必要があったと言う事です。

これぐらい書けば薩摩の西郷と長州の桂が同じ指導者としてあっても、かなり立ち位置が異なる事が理解できたでしょうか。薩摩の西郷は実質的に西郷の命令で整然と動く事が可能ですが、長州の桂は藩内の調整に走り回ってようやく動かす体制です。言い換えれば薩摩では西郷に心服していましたが、長州での桂は尊敬されていたぐらいの表現が相応しいと思います。

こういう状況で活動せざるを得なかった桂は、年を追うごとに行動が慎重になります。桂は蛤御門の変の後、長期間の潜伏を行ないますが、長州政界に復帰するのは第一次長州征伐の後に高杉晋作一派がクーデターを起して藩内政権を握った後です。ここまでの藩内抗争で有力指導者を多数失っていた長州では、桂を置かないとどうしようもない状態であったとされます。

桂は第二次長州征伐を必至と見て、蛤御門の変では仇敵であった薩摩と手を握るという現実策を遂行します。おそらくですが、この功績が桂の維新の功績の最大のものであったと考えています。桂自身も蛤御門の後に乞食にまで身をやつして長期の逃亡潜伏生活を送ったのですから大変な決断と言えます。桂は慎重ではありましたが、同時に現実的なサバイバル感覚に優れていたと考えられ、長州が孤立したままでは自滅するとのセンサーが働いたためとも言われています。

それとこの時期の桂は画期的な人材登用を行なっています。大村益次郎の抜擢です。大村は稀有の戦略家ではありましたが、百姓(村医者)あがりでさすがの長州でもかなり低く見られる身分でした。その上、ある種の変人で、社会通念上の円滑儀礼に配慮を書く人物とされています。その大村の能力を高く買い、急速に引き立てて第二次長州征伐勝利、さらには戊辰戦争の勝利に活躍させます。

大村がどれぐらい変人であったかのエピソードには事欠きませんが、上野の彰義隊攻撃の時の西郷との会話が有名です。彰義隊攻撃では大手の主力を薩摩、搦め手の長州に配置します。これを見た西郷が、

 「薩摩の兵を皆殺しにする算段でござるか」

大村は扇子をパチリ、パチリと鳴らしながら平然と

 「然り」

こういう人物でしたから登用に反対する人間も多かったのですが、桂は断固として登用し、軍制改革から戦略までの全権を与えバックアップを続けます。これも桂の大きな功績として数えられます。

桂のもう一つの功績と言うか決断は鳥羽伏見への出兵です。第二次長州征伐で勝利した長州でしたが、その後に十五代将軍慶喜の登場、そこから京都を舞台にした激烈な政治闘争、さらには大政奉還から鳥羽伏見になるのですが、薩摩から加勢の要請が頻々と寄せられます。当時の朝廷側と幕府側の軍勢の比較では圧倒的に大坂の幕府側が優勢で、桂は負け戦になる観測の強い出兵に躊躇い続けます。しかし最後の決断として出兵し勝利を収めるのは史実の通りです。


どうもなんですが、桂小五郎が輝いた時代はここだけのようです。簡単に年表にしてみると、

事柄
1864.7.19 蛤御門の変
同年 第一次長州征伐
1865 高杉晋作藩内クーデター
同年 桂小五郎長州帰国、大村益次郎抜擢
1866.3. 薩長同盟成立
1866.6 第二次長州征伐
1868.1.27 鳥羽伏見の戦い


3年ほどの間である事がわかります。この後は維新の功績者として、また長州の代表として維新政府に参加はしますが、活躍としては非常に地味な物になります。桂は新政府成立後に、象徴としての巨大な人望がありながら、一方で政府運営には能力の欠いた西郷に振り回され、さらに新政府の主導権を大久保利通に握られる状態で過ごす事になります。

もちろん薩長同盟を結ぶ決断、大村益次郎を抜擢して第二次長州征伐を勝利させた手腕、鳥羽伏見への出兵の決断は維新の大功績者として称賛するに値しますが、この3つの功績も実は結構地味な物になっています。薩長同盟の主役はどうしても坂本竜馬であり、第二次長州征伐の功績は大村益次郎にあり、鳥羽伏見への出兵の決断など余ほどの歴史通でないと知らない事です。鳥羽伏見なんて悩むまでもなく出兵して当たり前のように受け取られています。

結局のところこうやってある程度頑張って掘り起こさないと、有名な割には何をしたのかよく分からない人物が桂小五郎の様な気がしています。という事で本日は休題にさせて頂きます。