ツーリング日和5(第12話)加世田

「コトリ、知覧の武家屋敷を見ながらお昼にするの」
「見たいとこやけど、二つも欲張れん。加世田に行く」

 知覧の武家屋敷群も立派だそうだけど、

「加世田は日本遺産やからな」

 知覧の武家屋敷群はバイクで通り抜ける程度にして、三十分もかからず加世田の竹田神社に。

「ここは島津忠良を祀る神社や」

 加世田は平安時代から別府氏が支配してたから別府城もあるけど、室町時代には島津氏の支配下になってる。その島津家だけど戦国期に同族同士の内紛状態になっちゃうの。細かい経緯は省略するけど、バラバラになりそうな島津家をまとめ上げたのが、

「日新公、島津忠良や」

 島津家中興の祖とも呼ばれ、後に九州制覇の礎を築いた人になる。島津家の当主にはならなかったけど、武勇だけでなく儒教や神道、さらに禅も学んだ知識人なの。まさに文武両道の英雄かな。

 そんな忠良が隠居後に住んだのが加世田で、今に残る加世田の武家屋敷群も忠良の時代に整備されたものが始まりになる。

「幕末でも猛威を奮った薩摩武士の魂を作った人とも言えるかもな」

 薩摩の武士教育は郷中教育になるけど、その基本は忠良が作ったいろは歌に託された精神が基本になってるとされてるのよね。島津家では神のような人で良いと思う。なるほど知覧じゃなく加世田にしたのはその辺かもね。竹田神社にバイクを駐めて散策だ。加世田川に向かって歩いて行くと、

「益山用水路いうて一七六八年に作られとる」

 こういう用水路は風情があって良いね。津和野にもあって錦鯉が泳いでいた。なるほど、この用水路に沿って武家屋敷が並んでいるのか。用水路に橋が架かって武家屋敷だけど、武家門がちゃんと残ってるところがイイよね。

 ここは江戸時代の城下町のメインストリートになるはずだから、ここを薩摩武士が歩いていたんだよね。お屋敷を出て、お城に行ってになるはずだけど、あれ、別府城って江戸時代もあったのかな。

「あらへん、あらへん、一国一城令があったやろ」

 大きな藩では藩主がいる主城の外に支城がいくつか持っていた。これを主城一つにしろとの命令が一国一城令になる。支城にも藩士がいたのだけど、これは残された主城に集められたで良いと思う。

 ところが島津家では城の建築物は破却したものの、支城の防衛体制を残してるんだって。これを外城と呼び、加世田もその一つになる。もし合戦になればすぐに城を修復して戦える体制を維持したぐらいかな。

「これが島津家の光と影になるかもな」

 他の藩では支城を破却した時に。リストラもそれなりに行われたはずとコトリは考えてる。さすがのコトリも具体的な数まで知らないようだけど、泰平の世になっていくから、臨戦体制から平時体制に減らした部分はあってもおかしくないよね。

 だけど島津家は外城でもわかるように臨戦体制を江戸時代も維持し続けていたで良さそう。その戦力が明治維新の原動力になったのは光の部分だけど、

「領地に較べて武士が多すぎたんや」

 戦国時代以前の兵農不分離なら合戦がなければ武士は農民に戻ればすむけど、兵農分離となれば農民が武士を養う必要が出てくる。島津家の武士の数は他の藩の五倍もいたんだよ。これは農民三人で武士を一人養うぐらいの比率になる。農民からすれば三人で一人の無駄飯食いを抱えさせられてるようなものなのよね。

 島津家は七十七万石とされてるけど、実高は七十五万石だったそうなの。江戸期では表高と実高なら実高の方が多い藩も少なくないけど、島津家は表高と変わらなかったぐらいだったみたい。

「ちゃうで、島津家の場合は九斗六升を一石にしとったから実高は六十九万石や」

 だからだと思うけど、島津家の年貢は驚異の八公二民なのよね。幕府なんて年貢率三割維持するのに汲々としてたのに、島津家の場合は重税を越えて苛税状態。

「一揆とか起こらなかったの」
「する余力もあらへんし、武士の数が多すぎたんやろ」

 八公二民じゃ農民の取り分は七万石しかないのよ。薩摩藩には八十万人ぐらい住んでたみたいだから農民の数は六十万人ぐらいになるじゃない。一石って一人当たりの米の年間消費量みたいなものだから、必要量の一割ぐらいしか残らなかったことになる。

「サツマイモを食ってたんやろけど」

 文字通り生かさず殺さず状態にされてるようなものだから、一揆をする気力も出なかったのはわかる気がする。たとえ一揆を起こしても相手は日本最強の薩摩武士だものね。

「それだけやあらへん」

 島津家は鎖国主義を取っていて、幕府の隠密でさえ入り込むのが困難で薩摩飛脚と呼ばれたほど。ココロは行きはあっても帰りはないってこと。江戸時代の百姓一揆が大名に恐れられたのは、一揆の武力鎮圧もあるけど、領内で百姓一揆が起こったことを幕府に知られることもあったと思う。

「そういう面はある。領内取締不行届とイチャモン付けられて最悪の場合は改易になるからな」

 これが薩摩の場合は幕府に知られようがない。記録に残ってるのは二件だそうだけど、見せしめとして、どれだけ無残な鎮圧をされたぐらいは容易に想像できるよね。

「そのせいと思うけど、あんまり農民文化みたいなものはあらへん」

 生まれようがないか。島津家の存在は明治維新の原動力にはなったけど、薩摩藩の農民にとっては廃藩置県でやっと人として生活が出来るようになったのかもしれない。明治時代の農民の暮らしも悲惨とはされてるけど、島津家支配よりは遥かにマシだったはず。まさに島津家の光と闇だ。

「コトリ、お昼は」
「オシャレに行くで」

 オシャレ? それはかまわないけど連れて来られたのは、

「旧鰺坂医院で登録有形文化財や」

 大正モダンの雰囲気もあるけど昭和五年に出来たものか。なるほどギャラリーカフェになっていて、たしかにオシャレだ。

「この辺は食い物屋があんまりあらへんねん」

 ハヤシライスセットを食べたけど普通のハヤシライスだ。でもシチュエーションは良いからこんなランチも悪くない。一時間ほど見てまわって、

「今日は霧島まで行くんだよね」
「とりあえず串木野や」

 国道二七〇号を北上するのだけど、これは気持ちイイ。気持ちのイイ道って、いろいろあるけど、まずは空いてることね。後は信号が少なくて景色が良いこと。景色も絶景があれば申し分ないけど、左右が開けているだけでも十分かな。

 やったぁ、シーサイドロードだ。海って不思議なんだ。見てるだけ癒される感じがあるから、見えるだけでテンションが上がる感じ。串木野からは国道三号で川内に。

「一応言うとくけど、串木野市やのうて、いちき串木野市で、川内市やのうて薩摩川内市やからな」

 わかってるけど未だに馴染めないよ。へぇ、川内にも武家屋敷が残ってるんだ。

「ああ、鹿児島にはあちこちに残ってるわ」

 外城の城下町の跡って感じだろうけど、残っているのは素直に喜んでおこう。川内からはさつま町に。完全に山の中だけど、霧島を目指すって感じがワクワクさせてくれる。コトリがナビとニラメッコしてるじゃない。

「ニラメッコやない確認や。チイとややこしそうやねん」

 なになに、さつま町からまず国道五〇四号を西に進むのか。この数字の大きい国道は要注意なのよね。これは走ってみないとわからないけど、

「鹿児島で酷道として有名なんは七四号やそうやから、とりあえずちゃうねん」

 ここは他に選択肢がなさそうだからチャレンジするとして、途中で県道五十号に入るのか。さらに県道四四五号に行くことになりそうだけど・・・なるほどコトリが気にしているのは、このクネクネ具合か。

 バイクにとってワインディングはむしろ楽しみみたいなものだけど、クネクネの県道は険道の可能性も高いのよね。

「でも迂回と言ってもどうする気」
「県道五十号や」

 あっ、なるほど。北側に少し回るけど、距離は言うほど変わらないか。コトリは思い切ったみたいで、

「県道五十号の方が無難そうや」