ツーリング日和6(第27話)青松葉事件

 帰ってそうそうミサキちゃんから、

「コトリ社長、たまってますよ」

 覚悟しとったけどテンコモリの仕事を見せられてウンザリさせられた。

「ユッキー、コトリに仕事振り過ぎやで」
「コトリが副社長の時にこれぐらい振ってたわよ」

 ぐっ、まさにブーメランが突き刺さった。因果応報とはまさにこのとや。一週間ぶち抜きでツーリングやったから文句も言えんけど、

「ついでにぶち抜かれたかったけど、いっつもいっつも縁がないね」

 ホンマやで。据膳がツーリングやってるようなもんやのにな。香凛と直樹の活路を考えたらなあかんねんけど、考えとるヒマあらへんやん。こんなブラック企業に誰がしたんや、

「どこがブラックよ、休んだら仕事が溜まるのはホワイトだって同じ。働かざる者、食うべからず」

 そうやってヒイヒイしとる時にシノブちゃんから報告をもろてん。

「鮭の酒びたしは最高でした」

 最高の酒の肴の一つかもしれん。

「それだけの見返りになるかと思います。コトリ社長なら青松葉事件をご存じですね」

 なんやそれ、幕末の事件かいな。コトリは歴女やけど嫌いな時代がある。一つは太平記の時代で、もう一つは幕末や。太平記の時代は男の見栄より本音が剥き出し過ぎて美しさがあらへんし、幕末は過激思想が跳梁跋扈するから辟易する。

 好き嫌い言うとられへんけど、尾張徳川家で起こったもんで、紹鴎の子孫の家が家名断絶になった事件か。ツーリングの時に軽くググったけど、あれって青松葉事件って名前が付いとったんか。

 それにしても青松葉って、なんかオシャレな名前やな。そこだけ見とったら、どっかの料亭を舞台にしてるとか、大奥の不倫騒動を連想してまうけど、粛清された筆頭の家老のお屋敷の名前が青松葉やからそうなっとるらしいわ。

 事件の背景は・・・あちゃ、幕末らしくて煩雑やな。まずやけど尾張徳川家やけど幕末におったんは慶勝や。弟に会津藩主容保、桑名藩主定敬がおるから秀才兄弟ぐらいは言えるやろ。あれこれあるけど尾張徳川家の藩主になっとる。

 慶勝が藩主になった頃から幕末の過激思想である尊王攘夷論が流行するぐらいに思たらエエかな。この尊王攘夷思想も厄介なもんやけど、攘夷はシンプルや。黒船来航で火が付いた外国人排斥運動やからな。

 尊王は尊皇とも書くけど、単純には日本で誰が一番偉いか論みたいなもんや。そりゃ、天皇って今でも言うかもしれんが、当時は天皇や朝廷の存在なんて山城藩ぐらいの認識やったと考えればわかりやすいかもしれん。つまり将軍がトップや。

 実質そうやったからな。それを宋学かぶれが理屈をこねくり回して将軍家の上に天皇家がおる理論を編み出したでエエやろ。まあ、将軍かって天皇から征夷大将軍任命してもらうんやから、ウソやないけどこれが革命理論に成長してまうのが幕末の怖いとこや。

 黒船事件を背景に攘夷論が台頭するのはどこの国でもあるこっちゃけど、抱き合わせみたいに尊王論がセットになって当時の流行思想になっとる。慶勝も尊王攘夷論に被れとるねん。水戸斉昭にでも感化されたんやろ。

 そんな慶勝がやらかしたんが、斉昭や越前の春嶽の尻馬に乗って大老井伊直弼に直談判や。直弼が断行した開国は攘夷論からしたら評判が悪かったけど、その分、直弼もピリピリしとったから、安政の大獄の反撃を喰らって隠居謹慎させられてまうねん。

「さすがよくご存じですね。これが尾張徳川の幕末の迷走の始まりの一つになります」

 隠居謹慎やから藩主は弟の茂徳に変わるんやけど、兄の政治活動が安政の大獄で問題になったから政治姿勢は幕府よりや。そう言うと茂徳がなんらかの思想で動いたみたいに思うやろけど、これまで通りの政治方針に戻したしたぐらいや。長州みたいな過激思想の藩ちゃうからな。

 このままやったら平穏やってんけど、とにかく幕末や、安政の大獄で慶勝が謹慎させられたのが安政五年やけど、二年後の安政七年には桜田門外の変が起こる。これで慶勝の謹慎が解かれるんやけど、同時に尊王攘夷論が火を噴き始めるんよ。

「尾張家の事情は単なる勤皇佐幕の争いとは言えないと見ています」

 これも単純化するけど、尊王攘夷論に過激に反応したんは下級武士が中心や。いわゆる勤皇の志士が全国遊説して焚きつけて回った結果や。なんで下級武士の反応が良かったかやが、ガチの世襲絶対時代やんか。今のままやったら死ぬまで下級武士で終わるからや。

「尊王論の比重が重くなったと思います」

 尊王論は最初は将軍の上に天皇がおるから尊重せなあかんやったんが、途中から将軍の代わりに天皇をトップに据えるになっとる。ぶっちゃけ新しい秩序に変わるから、世襲の壁に風穴空けて、そこでの出世を夢見たぐらいやろ。その天皇へまずやる手柄仕事が攘夷や。

「ほとんどの維新志士がそれぐらいの理解で動いたはずです」

 構図的には藩内の上級武士が佐幕、下級武士が勤皇になったんは、モロの既得権争いの側面は確実にあるねん。さらにやけど勤皇派の武士が藩内で有力勢力になったのは一握りや。殆どの藩は、

「寝てましたね」

 話を尾張家に戻すけど、尾張家にも尊王攘夷派はおった。慶勝が尊王攘夷思想に被れとったから慶勝派やとした方がわかりやすい。尾張家の尊王攘夷派の特徴は、

「尊王攘夷思想かぶれの下級武士の突き上げと言うより、門閥家老家も巻き込んだ政治勢力と見てよいかと思います」

 もっと単純化したら前藩主慶勝と現藩主茂徳の勢力争いや。慶勝かって家督を譲ったんやから、そのまま隠居しとく選択もあったと思うけど、まだ若いから権力志向があってんやろ。

「無理やり弟に譲らされたプライド問題かもしれません」

 そんな慶勝に集まって来たんが尊王攘夷派。慶勝の思想的にも親和性があったし、茂徳になって不遇への不満もあったんやと思う。ここから両派の争いはすったもんだするんやけど、最終的に茂徳が尾張藩主から一橋家当主に追い出される事で一応の決着になるぐらいでエエと思う。

 茂徳も単なるアホウやないけど、殿様やったんやと思うわ。兄の慶勝と藩内で勢力争いするのにウンザリしたぐらいやろ。さっさと身を引いて安穏な一橋家当主でノンビリしたかったぐらいでエエと思う。

 それで慶勝と尊王攘夷派の天下が来たかと言えばそこまで単純やない、尊王攘夷派が藩内で圧倒的に優勢やったんは長州とせいぜい薩摩ぐらいや。茂徳がおらんようになっても、尊王攘夷派への反感勢力はごっそりおったぐらいや。

「反感勢力とは上手い言い方です」

 時代は慶喜が京都に乗り込んでの最終段階になる、尾張の尊王攘夷派も慶勝担いで京都に乗り込むんよ。この頃には慶勝も神輿状態やったでエエと思う。とにかく尊王攘夷派の連中は過激派みたいなもんやから、逆らったら慶勝暗殺ぐらい平気でするやろし、その殺気も感じ取ったと思うで。

 すったもんだがあってんけど、慶喜は大政奉還をやらかし王政復古の大号令になる。幕府も消滅、ついでに朝廷も消滅や。新たな政治機構を作る言うてドタバタで三職をとりあえず作るんよ。ここで慶勝は議定になっとる。

「それだけでなく尾張藩士の丹羽賢、田中不二麿、荒川甚作は参与になってますよね」

 ちなみに議定が十人、参与が二十人や。王政復古の時点で建前として幕府も朝廷も廃止なって、最高権力機関は三職になり、トップは総裁の有栖川宮やけど実権は議定と参与になる構造の理解でエエやろ。

「実態はともかく、慶勝と勤皇派の尾張藩士の親玉連中は天皇の直臣の関係になったことになります」

 ここから小御所会議、鳥羽伏見の戦いと展開するんやけど、

「青松葉事件の核心部分になります」

 鳥羽伏見で薩長が勝ってんけど、尾張家が動揺しとるって情報が入るんよ。これから東征軍を江戸に向かわせるのに尾張が抵抗されたら情勢が引っくり返る危機感が京都に起こるわな。

「でもすべて陰謀でしょう」

 そう思うわ。まずやけど鳥羽伏見の戦前の予想は幕府軍が圧倒的に有利やねん。なにしろ兵力の差が桁違いや。薩長側も負けたら蛤御門の二の舞を考えとったぐらいや。なんやかんやと幕府軍に参加したのも多いんよ。誰かって勝ち馬に乗りたいからな。

 尾張にガチの佐幕派がおってんやったら、鳥羽伏見に幕府側で参戦しとるわ。たしかに慶勝は尾張の権力者けど、藩主は義宜やから取り込んで押し立てては不可能やない。そやけど尾張は参戦してへん。

「その通りです。鳥羽伏見の後で薩長に抗戦する勢力が尾張に台頭しているとの情報は謀略と見るのは正しいと見ます」

 この謀略は成功し、尊王攘夷派は慶勝担いで名古屋に乗り込み大粛清を敢行する。これが青松葉事件になる。

「慶勝は慶応四年一月二十日に名古屋に戻り、一月二十五日までの間に斬首十四名、処分二十名を行っています」

 青松葉事件については断行の当事者になった慶勝も思うところがあったみたいで、慶応三年から明治元年の分の日記が欠落してているだけでなく焼却されてるんよ。ややこしい時期やったんは確かやけど、この時期の慶勝の本音を読まれたくなかったぐらいはわかる。

 おそらくやけど、ずっと慶勝勤皇派と茂徳佐幕派の対立は続いとったんやと思う。佐幕派のクーデターもどきも薩長との対決なんて勇ましいものやのうて、勤皇派の排除ぐらいの計画やろ。そんなもん、年がら年中やってるわ。

 慶勝やねんけど殿様にしたら賢い方やったぐらいは評価しても良いかもしれん。そやけどしょせんは殿様で、そうやな幕末に四賢侯ともてはやされた宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽も維新後は鳴かず飛ばずや。

 慶勝は思想的に斉昭の尊王攘夷思想にかぶれとるけど、慶勝が主体的にその思想で動いたのは斉昭の尻馬に乗って大老直弼に直談判した時ぐらいやと思う。その後は家臣の過激勤皇派に神輿として担がれただけやろ。

 それとやが尾張の尊王攘夷派も小さかったはずやねん。慶勝を京都に連行して権力を揮う取ったけど足元は脆弱や。慶勝かって鳥羽伏見の時には尾張に逃げて帰りたかったんやと思うけど、尊王攘夷派が離さへんかったんやろ。

「尾張の尊王攘夷派もそこまで追い詰められて大博打を打ったはずです」

 蓋を開けたら勝ったのは薩長や。文字通りの勝てば官軍状態で慶勝を担いで尾張家に乗り込み、有無を言わせず勤皇の大義名分の下に、対立勢力の大粛清と言うより大虐殺を敢行させて、尾張家の支配権を確固たるものにしたんやろな。

「朝廷からの命令まで取り付けていますから、慶勝も従うほかになかったと考えられます」

 これも維新のドサクサの一つや。なんかドロドロばっかりやから幕末史は好かんねん。これはオマケみたいな話やけど、青松葉事件まで起こして尾張家の実権を握った勤皇派やけど、二年後には版籍奉還、さらにその二年後に廃藩置県で尾張藩士は全員失業になるねんよな。