明石の殿様(雑談です)

今日は気晴らしで医療から離れさせて頂きます(本当は医療ネタが間に合わなかった「だけ」と言う鋭い指摘は甘受します)。

明石には立派なお城があります。天守閣こそ無い(もともと無かった)ものの、二つの三層の櫓が残っており、また残された石垣や堀も見事なものです。近所と言えば近所なので、花見(桜も綺麗です)に行った事もあります。私もそこそこの歴史好きですし、城跡巡りも好きなのですが、この明石の城と言うか明石藩にまつわるエピソードはあんまり聞いたことがありません。

辛うじて覚えているのは、宮本武蔵が招かれてしばらく滞在した事がある話ぐらいで、他はトンと聞いたことがありません。もっとも明石城が築かれたのは元和4年と言いますから、既に戦乱の世が完全に終ってからです。明石城を築いたとされる初代藩主は小笠原忠真。いわゆる譜代大名で、この時が10万石だそうです。

この平和になってから出来た明石藩ですが、殿様と言うか、藩主家が当初は目まぐるしく入れ替わります。wikipediaからですが、

苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、1632年(寛永9年)豊前国小倉藩小倉城)に転封となった。翌1633年(寛永10年)信濃国松本城より 松平康直(戸田氏)が7万石で入城したが、急死したため松平光重が城主となった。しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃国加納藩加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で入城したが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前国唐津藩唐津城)に転封する。

その後丹波国篠山城より松平忠国が7万石で入城、その子松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めた。文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けた。しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和国郡山藩郡山城 (大和国))に転封となると、代わりに郡山城 にいた本多政利が6万石で入城する。しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、苛政を責められ陸奥国岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になった。僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わった

明石の地は源氏物語の昔から風光明媚な地なんですが、50年の間に

どうも二代続いたのは「松平忠国 → 松平信之」だけで、6回も藩主が転入を重ねているようです。当時も国替えといえば莫大な費用が必要であったとされます。そりゃそうで家臣も総ざらえの引越しですから大変です。引越し費用は領民からの税金(年貢)で補う他はありませんから、明石の住人も難儀したんじゃないかと思います。

この本多政利の後の松平家は安定したようです。これもwikipediaからですが、

本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となった。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には大修築が行われた。最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となる。

なんとなく面白いのは最初10万石で築かれた城なんですが、大名が目まぐるしく変わる間にちびていって6万石になっている事です。幕政とはそんなものだったと言えばそんなもんなんですけどね。それと最後の松平家親藩になってますねぇ。「松平」ですから親藩であって当然といえば当然なんですが。

そんな明石の松平家ですが7代目の松平斉韶の時に小さな事件が起こるようです。時は11代将軍家斉の大御所時代の最晩年期(正確には死後、段取りは生前と推測します)になります。この家斉と言う人が艶福と言うか精力家と言うかで、wikipediaより、

特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人・女子27人

もっといたなんて話もあるようです。なんつうても将軍の息子や娘ですから冷飯食いにさせておく訳にはいかないので、成人すれば処遇が大変になります。そして明石の松平家にも26男が押し付けられることになります。これも有名ですが将軍家の息子や娘を迎えるとなると、それだけで大変な出費となります。何故に明石藩に白羽の矢が立ったかは定かではありませんが、男だけで26人もいますから、親藩や譜代、有力大名家は総ざらえだったようです。

でもって迎えた明石の松平家はどうなったかですが、まさに強奪状態となります。当時の藩主である松平斉韶は37歳で、14歳になる嫡子もいましたが、将軍様の26男が養子に来ると、当主は隠居、嫡子は変更になります。つまり養子即藩主が行なわれる事になります。そいでもって晴れてかどうかはわかりませんが、8代藩主松平斉宣(15歳)が誕生する事になります。いつの時代も天下り恐るべしです。家臣も大変だったと思います。

この程度の話はどこの藩でもそれなりにあるのかもしれませんし、松平斉宣も5年後には後継ぎも残さず死亡し、元もとの嫡子が家督を継いで明石の松平家としては丸く収まっているようにも見えます。ところがたったの5年間の松平斉宣の統治期間をネタに映画が作られる事になります。「十三人の刺客」です。これも調べて驚いたのですがリメイクで、第一作は片岡千恵蔵主演で1963年に封切られています。粗筋は、

弘化元年(1844年)、明石藩江戸家老間宮図書が、筆頭老中土井利位邸の門前で訴状と共に自決した。これがきっかけとなり、明石藩主松平斉韶の異常性格と暴虐ぶりが幕閣の知るところとなったが、将軍徳川家慶の弟である斉韶を幕閣は容易に処罰できかねていた。しかし、事情を知らない将軍が斉韶を老中に抜擢する意向を示したことから、老中土井は暴君斉韶の密かなる排除を決意する。利位の命を受けた旗本島田新左衛門は13人の暗殺部隊を編成し、参勤交代により帰国途上の斉韶一行を中山道落合宿で待ち構え、襲撃する。

リメイク版もどうやらほぼ同じなのですが、どうも藩主の名を映画では取り違えているようです。多分ですが、殆んどがフィクションですから、藩名も藩主の名前もそれなりなら気にもせずにシナリオは書かれているようです。あえて推測すれば斉韶(なりつぐ)、斉宣(なりこと)なので発音しやすい方を映画は取ったのかもしれません。

それとシナリオのモチーフとされるのが、またまたwikipediaからですが、

肥前国平戸藩松浦静山が随筆『甲子夜話』で記すところによると、斉宣が参勤交代で尾張藩領(当時の藩主は斉宣の異母兄にあたる徳川斉荘)を通過中に3歳の幼児が行列を横切ってしまった。斉宣の家臣たちはこの幼児を捕らえて宿泊先の本陣へ連行した。村民たちが斉宣の許へ押し寄せて助命を乞うたが斉宣は許さず、切捨御免を行って幼児を殺害してしまった。この処置に尾張藩は激怒し、御三家筆頭の面子にかけて今後は明石藩の領内の通行を断ると斉宣らに伝えた。このため明石藩は行列を立てず、藩士たちは脇差し一本を帯び、農民や町人に変装して尾張領内を通行したという。ただし、この事件を裏付ける街道近郷の記録は見つかっていない。

実話かどうかも怪しい部分もあるようですが、よく読めば尾張藩主も「斉宣の異母兄」つまり家斉の子供になります。尾張藩もまた家斉の子どもの処理に協力させられたようです。まあ尾張藩明石藩ではかなり格が違いますから、それを妬んでの兄弟喧嘩と見えない事もありません。このエピソードを膨らましての映画のシナリオは出来たようですが、明石の住民はかなり御機嫌斜めのようです。

とりあえず8/29付神戸新聞より、

明石藩」舞台は歓迎…“暴君”映画に地元は複雑 

 9月25日から全国東宝系で公開される映画「十三人の刺客」。内容はフィクションだが、主人公の侍たちに命を狙われる明石藩主の暴虐ぶりが描かれ、モデルとなった藩主の菩提(ぼだい)寺などでは「不本意」と受け止められている。ベネチア国際映画祭への出品も決まり、受賞すれば明石の悪いイメージが世界に広がるかもしれず、関係者は注目している。(森本尚樹)

 映画は主に江戸と美濃(岐阜県)が舞台で、明石での場面や風景は登場しない。明石藩主松平斉韶(なりつぐ)の徹底的な残虐ぶりが描かれた上で、決戦シーンでは300人以上の藩士が次々と切り倒されていく。

 映画のモデルとなったのは、15代明石藩主の松平斉宣(なりこと)(1825〜44年)。11代将軍徳川家斉の二十五男で、参勤交代の途中、行列を横切った幼児を手討ちにしたとも伝えられるが、人となりや藩政の詳細には分からないことが多い。

 歴代明石藩主の墓所がある長寿院(明石市人丸町)の〓(つる)岡泉礼住職(69)は「不行跡があったようだが、それを表面的にとらえて脚色している感じで、不本意だ」と話す。

 明石松平家の現当主、松平直晃さん(75)=静岡市=は1963年版の映画がテレビ放映された際、同級生から「お前の先祖はひどい」と言われ、藩士の子孫からも「けしからん映画だ」という苦情を聞かされた。

 松平さんは「フィクションの設定がたまたま明石だったと思って、気にしないようにしている。だが今回の公開で、いろんな反応が寄せられそうだ」と苦笑する。

 明石市にも、明石藩の歴史についての問い合わせなどが寄せられているが、担当者は「史実とは違うようだと説明している。市のPRには到底使えない」と悪名が定着することに気をもむ。

 東宝宣伝部は「あくまでフィクションとして楽しんでほしい」と説明し、明石での特別な宣伝活動は考えていないという。ベネチア映画祭は9月11日(現地時間)に受賞作品が発表される。

まあこの程度は地元紙ですから掲載されてもアリかなってところです。正直なところなんですが、明石の住民が藩主であった松平家にどれほどの思い入れがあるかどうかも実感として良くわからないのですが、次の記事は微笑ましくなります。9/25付神戸新聞より、

明石藩主、本当は名君? 善政夢見る穏やかな書

 映画で暴君と描かれた15代明石藩主松平斉宣(なりこと)の直筆とされる掛け軸が地元明石市に伝わり、関係者は、文字から伝わる性格を映画とは違い「穏やか」と擁護している。

 11代将軍徳川家斉の二十五男の斉宣は20歳で早世し、藩主としての実績や人となりは不明な点が多い。25日封切りの映画「十三人の刺客」では、一揆を企てた農民の娘の手足を切り落とすなど悪役のモデルとなった。

 掛け軸は左右一対の双幅で、右は「鶴舞千年樹」、左は「亀遊萬歳池」。斉宣の号とされる「南山」と書かれ、巻き取ると後世に記されたとみられる「明石藩主 従四位上少将松平兵部大輔源斉宣公御書」とある。

 日本歴史学会員の茨木一成さん(75)は、斉宣が正月に長寿や繁栄を願って家老に授けたと推測。「若い殿様らしく、領民の暮らしを上向かせる善政を夢見たのでは」とする。明石在住の書家六車明峰さん(55)は一目見て「筆運びに迷いがなく、細かいことを気にしない穏やかな性格だろう」。

 4年ほど前に掛け軸を入手した地元史を研究する藤本庸文(つねふみ)さん(60)は、若くして号を使うなどの風流さを指摘。「映画はフィクション。斉宣の実直でおおらかな人柄を想像してほしい」と話している。

気持ちはわかりますが、チト強弁かなぁ?と言う気がしないでもありません。wikipediaのエピソードをあげておくと、

将軍の子が藩主になったことで、藩の石高は6万石から8万石に加増された。しかし、斉宣はさらに10万石への加増を老中らに求めたといわれ、この要求によって8万石でありながら10万石格というややこしい事態が発生した。また、将軍の子息であるが故に莫大な支出を要し、財政難にますます拍車がかかることとなった。

この辺もわかったようなわからないようなお話なんですが、とりあえず2万石が加増されて明石藩は8万石になっています。ただし大名の格は石高でも示されますから、たぶん二桁の10万石になるのとならないのでは江戸城中の席次がかなり変わるんだと思います。江戸時代の大名は家格による殿中席次の上下に血相を変えたと言いますからね。

将軍の息子ですから要求されると無碍にできなかったのでしょう。とは言え将軍の息子であってもポイポイと領地を増やすわけにはいかないでしょうし、家斉は斉宣が明石藩主になる3年前に死んでいます。そこで妥協案として格だけ10万石(官位か何かで調節したのかな?)にしたと言うお話です。ただし格が上ると格式、つまり余計な出費が増えます。それも含めて見栄を飾る部分が多かった人物じゃないかの推測は可能です。

それと当時の藩主に出来ることです。例外を除いて殆んどの藩主はボンクラです。これは本当に能力的にボンクラであるケースも多かったとは思いますが、藩主が政治に口を挟める事実上の権限が非常に狭かったと言うのがあります。藩内政治と言っても頑ななまでの先例主義で、先例を守る事のみが政治みたいなものです。先例は藩主の日常生活の隅々まで縛り上げています。

また藩主自体は1年ごとに国許と江戸を参勤交代します。つまるところ留守が多いので、継続して藩政を見るには余程の努力と熱意が必要です。藩主に課せられた重要な仕事は、江戸城中で失態を犯さないこと、子孫を作る事に尽きていたと言えば大げさでしょうか。藩が期待する藩主の仕事はそれだけで、後は基本的に期待されていない役職と見ることも出来ます。

将軍の息子として2万石がついてきたのは藩としては良かったかもしれませんが、将軍の息子として綺羅を飾ろうとしたのが迷惑な藩主であったぐらいに推測しても、そんなに的外れではないような気がしています。まあ将軍の息子と言っても養子ですし、狭い意味で他人の家ですから、自分の能力を誇示したがったぐらいはあると思います。将軍の息子としてバカにされてはならないみたいな感覚です。

15歳で藩主になっていますから、田舎者のおっさん家臣団に「オレは将軍の息子だ、バカにするなよ」みたいなパフォーマンスを行ったとしてもさして不思議な所業ではないかと思われます。養子藩主は江戸期でも少なくありませんが、どこでも「たかが養子が」と見られて苦労した話は残っています。江戸期屈指の名君として名を残している上杉鷹山もそうだったと聞きます。


甲子夜話の話もそういう意味で信憑性だけはあります。大名行列の前を横切ると言うのは重大な犯罪です。当時の法として切り捨ては構いませんし、生麦事件も広い意味で類似の事件です。ただ現実はどうであったんだろうとは思っています。死に値する罪と言うだけで、通常は「きついお叱り」ぐらいで済ませるのが多かったような気がしないでもありません。江戸期の法にはそんな側面もあります。

とくに相手が有力大名の筆頭といえる尾張藩相手ですから、法と政治的側面を慎重配慮して、丸く収めるみたいな手法が通常は取られていたと考えてもおかしくありません。そこをあえて角を立てたのが、将軍の息子の少年藩主の見栄であるとすれば話の筋は通ります。いわゆる武威を示すを勘違いして振舞った可能性です。上述した様に兄弟喧嘩の側面もありそうに思います。

もう一つ信憑性の傍証ですが、甲子夜話は平戸の藩主松平静山によって書かれています。話の内容からしてわざわざ捏造するほどのものとは思いにくいところがあります。親藩とは言え、さして政治的に重要な人物、藩とは言えないからです。それをわざわざ書きとめたと言うからには、それなりに話題になったからだと考えられます。ただし吹聴したのは斉宣ではなく尾張藩主の方であったと思われます。

松平静山が取り上げた意味として推測できるのは、その程度の事で本当に切捨御免をやらかした、とくに御三家筆頭とも言える尾張藩相手にやった事が当時的にエピソードであったとは考えられます。映画はこの部分を膨らまして、日常でも暴君であり、暴君エピソードをフィクションで拡大しているのは間違いありません。

ただしなんですが、斉宣の暴君エピソードは甲子夜話だけのようです。どうやらなんですが明石の地に口碑としても残っていないようです。好意的に取れば、若気の至りで切捨御免にはしたものの、尾張藩の猛烈な抗議により萎縮して、後は鬱々と暮らして20歳で死んだのかもしれません。だから何にも事績が後世に伝わらなかったと考えても良いかもしれません。


少しだけ陰謀論を膨らませれば、江戸期の殿様にも暴君はいたとされます。ただし殆んど目立ちません。これには怖ろしい話が残されていまして、江戸中期以降の大名家は会社化し、家臣は殿様に忠誠を尽くすのではなく家に忠誠を尽くすに変質したと言われています。つまり殿様であっても殿様職にあまりに不適合であるなら、内々で排除されてしまったとされます。

暴君の噂が江戸城にまで広まったり、ましてや江戸城中で失態を犯せば小藩なら即座に吹っ飛びます。そこで国許にいる間に強制的に隠居させてしまったり、暗殺したりの例も実はあったとされます。嫡子さえちゃんといれば殿様が急死してもお家は安泰になるからです。

当時の明石藩には先代が40歳ぐらいで健在ですし、先代の嫡子も健在です。もし斉宣があまりの暴君であったなら粛清されてしまった可能性も十分にありえると言う事です。20歳で急死した斉宣がどうであったかなんて記録はもちろん残されていません。ただ将軍の息子の治世の記録が殆んど残されていないあたりを疑えば疑える程度の可能性はあります。


本当はどうだったのでしょうか。個人的には「将軍の息子であるオレが、なんでこんな小さな藩の・・・」ぐらいで終始していた程度の人物の様に思えないでもありません。もう少し言えば、藩主の座にいたのが15〜20歳までの5年間ですから、城内ではお相手するのが大変だったかもしれませんが、領民的には善君も暗君も関係ない、単なる「殿様」だけの存在だったような気がしています。