ツーリング日和6(第28話)武野家始末

 青松葉事件やけど今回の問題で関係あるのは紹鴎の孫の兄の方の家や。処分されたんはまず一月二十三日に、

 『武野新右衛門信邦 斬首』

 七十七歳の隠居やで。罪状は、

『年来志不正に付、死を賜り候』

 粛清に理屈は不要やけど、

「武野新右衛門は茂徳時代に重用され、御側御用人として尾張家の政治の中枢に関わったとなっています」

 なるほど茂徳派やったんか。それもやで御側御用人いうたら成り上がりや。そりゃ、恨みを買いまくりやってんやろ。

「ですが文久二年に尊王攘夷派の攻撃により隠居・差控処分になっています」

 文久二年いうたら青松葉事件の六年前か。一事不再理が規定されていない時代とは言え、それこそ坊主憎けりゃ袈裟まで憎いやな。武野家の処分はこれに留まらず、

 『家名断絶・お預け 武野新五郎』

 家名断絶って並んどる文字はオドロオドロしいけど、今やったっら懲戒解雇ぐらいでエエと思う。あの頃やったら俸禄召し上げで、尾張家の家臣として武野の姓を名乗れんようになるぐらいや。

 お預けというのもわかりにくいと思うけど、牢屋やなくて他の家で拘禁状態にされることや。罪人は牢屋に入るんやけど、牢屋も身分によって扱いが変わる時代や、たとえば松の廊下でお取り潰しになった播州浅野家やけど、内匠頭は切腹したが、弟の大学は浅野本家にお預かりや。

 お預かりは鎌倉時代からあって、秀吉が北条を滅ぼした時に氏直と氏邦が高野山に行ったのもお預かりやし、関が原で真田昌幸親子が九度山に行かされたのそうやねん。ほいでもって罪状は、

『祖父新右衛門罪科に依而家名断絶被仰付、滝川亀松へ御預』

 連座か。

「この辺は直接は関係ないと思いますが・・・」

 武野新五郎が預けられたんは滝川亀松やけど名前からして子どもやな。。そやけど当主なんは間違いあらへんけど、

「亀松の父である滝川伊勢守忠雄は蟄居となっております」

 罪人の家にお預けなんか。この辺の事情はシノブちゃんでもこれ以上はわからんらしい。武野新五郎のお預かり代が罰金の追加みたいなもんやろか。それとも滝川家と武野家に親戚関係でもあったんかもしれん。

 えぇぇ、紹鴎の孫の長兄の家は滅んだとどっかで読んだけど、武野新五郎は生きてるやんか。それに斬首になった新右衛門の孫やから、どやろ四十歳ぐらいかもしれん。それやったら子どもがおっても不思議あらへんやん。

 さらにやで家名断絶いうても武野の姓を取り上げられたわけやあらへん。武野新五郎に息子がおったら、やっぱり苗字は武野や。もっとも浪人やから公式のもんやなくなるけどな。それよりなにより二年後に藩籍奉還、さらにその二年後に廃藩置県やんか。

 版籍奉還はまだしも廃藩置県になってもお預かりが続行されるとは思えん。そりゃ、廃藩置県で新五郎を預かっとる滝川亀松の家も失業やからな。旧藩時代に引き続いて預かる義務はあらへんやろ。

 それやったら廃藩置県後も武野新五郎は健在やんか。息子や娘がおってもそうや。それに武野家で罪人になったんは新右衛門と新五郎だけやから、たとえば新五郎の叔父とか、新五郎の兄弟かっておっても不思議あらへん。

 さらにやで尾張には仲定の弟の知信の家が健在や。なんやかんや言うても、兄の家の親族の面倒は見るやろ。それやったら、

「それ以前の話がありまして・・・」

 青松葉事件の二年後に大赦令が出てるってなんや。

「これも陰謀論の根拠になっています」

 そん時の大赦で青松葉事件の十四人の名誉回復をやって家族に食禄を与えたんか。内容は、

「明治三年十二月五日に処刑された十四名の遺族に対して、それぞれ家名の相続が許され、相応の給禄が与えられてます」

 なるほど完全な名誉回復やあらへんのか。この時の給禄やけど千石以上は五十俵、千石以下は御扶持六人分となっとる。これですぐにわかったら相当の歴史オタクやで。まずやけど上級武士は石取りや。

 石取りとは自分の領地をもろうて、そこからの収入が自分の取り分や。そやけど下級武士は蔵米いうて直接給料をもうとってん。蔵米でもらう時の給料の表現が俵や扶持や。つまり家名は存続できたけど扱いが低くなっとる。

 それとこれはあくまでも当時の公式計算やねんけど、知行一石から幕府の公定年貢レートの四公六民で四斗の米が手に入ることになる。つまり、

 一石 = 一俵

 そうなるともともと千石取りの家やったら、千俵あったんが五十俵に減ってもたことになる。六人扶持はどうなるかやけど、一人扶持が五俵やねん。つまりは年間三十俵や。家名の存続を許しただけの最低限の名誉回復ぐらいの扱いやな。

「これは蛇足ですが明治二十三年の憲法発布の大赦で罪科消滅証明書が下付されています」

 なるほどな。明治三年時点では青松葉事件の実行犯連中に配慮したんやろ。あの連中は青松葉事件の後に東海道の大名たちを勤皇誘引いうてゴッソリ寝返らせてるからな。そのお蔭で江戸城まですんなり官軍が進めたようなもんや。

 青松葉事件を完全にチャラにしたら、今度は処刑した側に返す刀が襲ってくるからな。それでも明治三年なんて時期にこれだけの名誉回復できたんは、よほど裏の事情はヤバかってんやろ。それはともかく十四人の家名の相続の許された家がどこになるかや。そんなもん誰が考えても、

「十四人は斬首になった十四人で良いかと思われます」

 そやろな。待てよ、待てよ、十四人の中には武野新右衛門の祖父も当然含まれるはずや。新五郎はガチガチの連座やから、お預けは解除、家名回復になるしかあらへんやん。なんちゅうこっちゃ、紹鴎の孫の家は二軒とも健在で明治を迎えたことになるやんか。


 ふ~む。武野紹鴎の家なんかせいぜい息子の宗瓦で終わって、後は時代の波の下に消え失せたと思とった。これは紹鴎の子孫が死に絶えたんとはちゃうで。男系女系も合わせたら生きとる可能性の方がはるかに高い。そうやなくて家として江戸期を生き延びとったんに感心した。

「紹鴎流のその後は御存じですか」

 紹鴎の茶道は後世に残らんかったぐらいしか知らん。

「村田珠光は茶の湯での会話を精神世界のものとしています。自由な精神による会話であっても無礼講ではなく、格調高いものにしたぐらいで良いはずです」

 これは利休もそうやし、今も受け継がれとる。紹鴎は違ったんか。

「紹鴎も珠光の精神を受け継いでいますが、精神世界でも宗教に傾いたとされています」

 当時の堺の宗教言うたら石山本願寺か。石山本願寺は蓮如が建てたんやが、一四九七年に骨格部分は出来上がったでエエやろ。当時の本願寺教団の本山は山科やってんけど、法華教徒との争いとかもあって一五三二年に焼き討ち喰らってるねん。そやから一五三三年から石山本願寺が本山になっとる。

 当時の一向宗の勢いはすさまじかったし、とにかく大ブームやってん。紹鴎の父も一向宗やったから紹鴎もそうやったはずや。

「ですが紹鴎は禅宗で出家してますが・・・」

 一五三二年に大徳寺でな。そやけどホンマに禅宗かは怪しいねん。当時の京都は一向宗と法華宗が戦争状態やったから、一向宗であるのを隠すための偽装やった可能性も高いんよ。その証拠に山科本願寺にも参詣しとるやんか。

 それとやけど一向宗であるのは当時の畿内のもんやったら、生きていく上でも重要やってん。大名クラスでもそうで、家臣が根こそぎ一向宗状態で、なおかつ主君より一向宗を完全に上に置いとるねん。紹鴎が商売するうえでも一向宗やなかったら不便すぎるで。

 他にも紹鴎が一向宗やった傍証がある。息子の宗瓦の嫁さんは下間家の娘や。下間家いうたら石山本願寺の武力部門の担当で武官の家老みたいな家柄や。そこから嫁さんもらうぐらいやから紹鴎かって固念仏の一向宗やろ。

「どうもですが、紹鴎の茶会はある時期から本願寺の布教活動の場の性格を帯びたのかもしれません」

 布教もしたかもしれんが、当時の堺やったら茶会に参加するんは、ほとんど一向門徒やろ。それもガチガチの信者や。そういう連中が集まったら一向宗の話は出るし、お茶やるぐらいやから知識人やんか。

 教義の解釈みたいな話題は自然に出るし、出えへん方が不自然や。それが法話会みたいな性格を強く帯びたんは十分に考えられる。待てよ、もしかして利休は、そうなっていく紹鴎の茶に反感を持ったんちゃうやろか。だってやで、

『術は紹鴎、道は珠光より』

 この言葉に意味は所作とかは紹鴎の流儀を受け継いだものやが、精神は紹鴎の本願寺臭を嫌って珠光のものとしたんかもしれん。だってやで珠光なんか利休のだいぶ前の人やんか。当時の紹鴎は堺のお茶の第一人者みたいなもんやのに、茶の湯のキモみたいな部分の精神で師匠の紹鴎を外しとることになる。

「この辺は信長やさらに秀吉に取り入るために必要だったとも考えられます」

 紹鴎の息子の宗瓦は血の気の多い人物やったみたいやけど、やっぱり本願寺門徒やったでエエやろ。そやけど石山合戦は本願寺の敗北で終わったようなもんで、あれこれ苦労したんやと思うで。

「そう思われます。最後は家康に気に入られて秀吉や秀頼に推挙されていますが・・・」

 こんなもん想像もエエとこやけど、宗瓦は宗教に関わって苦労しとるし、政治に関わった利休の死も知っとるはずや。宗瓦の息子は尾張徳川の武士になったけど茶の湯で権力に関わるなぐらいのアドバイスをした気がするわ。

「それでも宗瓦は息子に茶道は伝授していると見て良いと思います。長男の仲定も茶人だったとされますし、仲定の曾孫の代までお茶壷道中の警護役を務めています。弟の知信も宗朝の名で茶道大辞典に名を遺しています」

 これも宗瓦の遺訓かもしれん。まず茶道で武家の出世は望めんと見たんやろ。これは利休の教訓でもあるし、たぶんやけど利休の教訓で、他の大名も茶道の師匠に政治の枢機に近付けんようにしたのもあるかもしれん。

 宗瓦は波瀾の人生で、茶の湯はあくまでも趣味でやる物の境地に達したんかもな。それが茶の湯のルーツみたいなもんやんか。

「それはともかく、これでコトリ社長の持って帰って来た宿題は解決じゃないかと思います」

 助かった。まさかこれだけの歴史ロマンのツーリングになるとは思わんかった。だからツーリングはやめらへん。