長篠の合戦ふたたび:まずは長篠までの途中

あけましておめでとうございます。これだけ更新回数が減ったらブログ開きというのも恥しいですが、新年ですからエエとさせて頂きます。ほいでもってお題は長篠の合戦。以前にもやったのですが、あの時は焦点を三段撃ちの可能性だけで書いたのでもう少し広げてムックしようという試みです。ただやってみると案外大変で、三部構成になってしまいした。いつも通り長いですが宜しければおつきあい下さい。


信玄死後の動き

勝頼と信長の主な動きを年表にしてみます。

西暦 元号 勝頼 信長
1573年 元亀4年 4月 信玄病死。家督相続。
7月 義昭追放
天正元年 8月 朝倉氏滅亡
9月 浅井氏滅亡
10月 * 伊勢長嶋進攻
11月 * 三好氏滅亡
12月 * 松永久秀降伏
1574年 天正2年 2月 明知城攻略 *
6月 高天神城攻略 *
7月 * 伊勢長嶋完全制圧
8月 *
9月 浜松城下焼き討ち
1575年 天正3年 3月 高屋城合戦で本願寺と和睦
4月 長篠の合戦
5月
信長の動きが活発です。まず義昭の反乱を今度は許さず追放しています。さらに長年の宿敵である朝倉氏・浅井氏のトドメを刺し、帰す刀で畿内の完全平定を着々と行った後に、これも長年の抗争相手である伊勢長嶋一向一揆を文字通り殲滅しています。さらに高屋城の戦いで河内の支配権を広げ、対本願寺戦も一時的に和睦となっています。信長は対信玄戦の負担が吹きとんでくれたので、信長包囲網の残党の掃討に励んでいたぐらいと見て良さそうです。


勝頼には信玄の死を秘して3年間動くなの遺言があったとされています。本当にあったかどうかは不明(次回に考察します)ですが、考えてみれば無理がある遺言で、あったとしても3年と言うか三回忌が済むまでは積極攻勢を控えて力を蓄えよならまだしも理解できます。おそらく武田家は信玄の西上作戦でかなり無理をしたはずで、その損害や内政上の不満を「和らげよ」ぐらいの趣旨じゃなかったかと考えています。長篠の合戦は信玄の三回忌が済んでから行われたものですから、勝頼は基本的に遺言は守っていたんじゃないかと思ったりしています。

信玄死後の長篠までの勝頼の大きな軍事行動はwikipediaを信じれば2つで、一つは東美濃天正2年2月の明知城攻め、もう一つは天正6年6月の遠江高天神城攻略です。なぜに勝頼が動いたかですが、そりゃやっぱり織田・徳川、とくに徳川の反攻に対応するためで良いかと思います。積極攻勢を控えると言っても相手がある事で、相手が動かないのなら動かずに済みますが、とくに徳川にとっては信玄に遠江をズタズタにされており、武田の圧力が少しでも緩めば失地回復に動くのは当然です。

徳川の反攻を指をくわえて甲府で看過していると「勝頼、頼むに足らず」の評価が必ず起こります。なにせ神格化されるぐらい偉大な父を持っているので、徳川の反攻に対して反応して求心力を高めることが必要になります。この辺は古来からなんですが、新しい当主がその能力を疑問視された時に手っ取り早く評価を挙げる手段は軍事行動での勝利です。実際に指揮して諸将に勝利の凱歌を挙げさせるのが一番即効性があります。

さて勝頼なんですが信玄亡き後の周辺強国の動向をどう判断していただろうがまず興味があります。今川氏滅亡後の東国の三強の関係はやはり謙信の動きになります。謙信は関東管領の肩書を重視して執拗に対北条戦を行っていましたが、晩年は攻勢のシフトを西に向けていたと見ています。越中から能登・加賀への進攻です。一説には上洛戦を意図していたともされていますが、とにかく西に行動をシフトしています。謙信の重圧が緩むことになる関東は、氏政が勢力挽回に積極的に動くことになります。ただ謙信も関東を完全にあきらめている訳ではなく、北条が動けば反応します。ここの構図は、

    上杉 vs 北条
これが続きます。この構図が続く限り北条は武田との同盟を守るだろうぐらいはいえます。北条も駿河に執着があり、信玄が駿河に侵攻した時には徳川と手を結んで一時は駿河から信玄を追い出すぐらいに積極的に動いた北条ですが、氏康亡きあとは再び武田と結んで対上杉戦に専念したいぐらいでしょうか。おそらく信玄死後にも同盟関係の再確認のための外交交渉が行われていたと思っています。でもって謙信は信玄の死をどう勘定していたかは真意は存じませんが、勝頼相手に川中島をやる気はなかったぐらいに見ています。勝頼が挑んで来ればともかく、そうでなければ西へのシフトとチョッカイを出してくる北条戦に専念したいぐらいです。

おそらく勝頼もそれぐらいの情報分析はしていたと思いますから、伸びるとしたら西であり、具体的には遠江から三河を構想していたはずです。勝頼からみて徳川はそんなに怖い勢力ではなかったと思いますが、織田は油断ならないぐらいは考えていたはずです。でもって徳川を叩けば織田が出てくる構図も確実にあります。ただなんですが、織徳同盟は徳川が援軍に行く時には全力で動きますが、織田が援軍に行くときは積極的とは言いにくいところがあります。三方が原がそうです。

三方が原の時には、あんなところで信長は信玄と決戦する気がサラサラなかったぐらいで良いと見ていますが、信長包囲網が崩れた長篠の時点で勝頼がどう考えていたかは興味深いところです。その辺にも長篠の綾はありそうな気はしています。


天正2年2月:明知城攻略

勝頼が動き出すのはwikipediaを信じれば年が明けた天正2年2月からになります。目指したのは明知城、いわゆる岩村城攻防戦の一環なのですが、個人的に地理的重要性がピンと来なかったので確認してみます。東美濃中山道が通り信濃と国境接する地域なのですが、遠山氏が勢力を張っています。とはいえ遠山氏も一枚岩ではなく遠山七頭岩村・明照・明知・飯羽・串原・苗木・安木)と呼ばれる連合体で、とりあえず惣領家が岩村遠山家であったようです。なにせ武田と織田の中間地帯なので双方からの勢力浸透が続けられることになります。この遠山氏の勢力範囲ですが岩村城を中心に遠山十八支城といわれるものがあります。地図でプロットしてみると、

遠山氏の勢力範囲がかなり広いのでちょっとビックリしました。斎藤氏の時代は省略しますが、この遠山氏に先に手を付けたのは信玄だったようです。木曽氏を支配下に置いた信玄は中山道東山道)を利用した東美濃進出を行ったようです。形式的には遠山氏は武田の臣下に組み込まれたぐらいでしょうか。でもって信玄と信長の関係は信長の徹底した媚態外交で始まります。つまり同盟・友好国関係が続きます。どうもこの友好時代に信長は遠山氏に婚姻外交を仕掛けたようです。記録に残っているのは、

  • 岩村遠山氏の景任に叔母のおつやの方を嫁がせる
  • 苗木遠山氏の勘太郎に妹を嫁がせる
さらに信長の妹が生んだ娘を養女として引き取り勝頼に嫁がせています。武田・織田勢力の間ですから遠山氏も両方に良い顔をしながらのサバイバルをやっていたぐらいでしょうか。またこの辺は異説も多いのですが、岩村遠山氏の景任が子を作らずに亡くなった時に岩村城に軍勢を連れて乗り込み、五男の御坊丸を養子として押し付け、未亡人のおつやの方を実質的な城主に仕立て上げるなんてこともやっているようです。これが元亀3年のことらしいのですが、この頃には武田と織田の蜜月時代は既に終わりかけています。

いや終っているので信長は遠山氏取り込みのために力業を揮ったと思いますが、信玄も素早く反応します。高遠城主の秋山虎繁(信友として有名)による進攻です。この辺も調べてもハッキリしなかったのですが、信長の五男を養子として迎えた時点で遠山氏は織田氏に与したようです。虎繁の攻勢は凄かったらしく援軍に来ていたとされる徳川軍を一蹴し、遠山一族連合軍を粉砕したとなっています(上村合戦)。この後に虎繁とおつやの方の婚儀(なかったとする説が最近は有力だそうです)が行われたり、信長五男の御坊丸が甲府に送られたり(これは事実の様です)します。

ここもまたよくわからないのですが、信玄死後の遠山氏は再び織田氏に靡いた気配があります。あちこちに矛盾する個所のある記録を読みながらのパズルみたいなお話ですが、遠山氏は七頭と言われる有力支族の連合体ですが、その中でも有力とされた三家を三人衆ないし三頭と呼んだようです。具体的には岩村・苗木・明知です。このうち惣領家とされた岩村氏は上村合戦後にどうなったかは不明ですが、残っている苗木・明知遠山氏に信長は調略を行ったぐらいに感じています。有力二家が織田になびけば他の四家さらにはその他大勢もも引きずられるぐらいでしょうか。傍証として遠山七頭のうち、一度滅亡した後に信長の後援で復活し、江戸期も生き残ったのは苗木と明知の二家だからです。

東美濃中山道が通り岐阜に直結する要衝ですから、信長は美濃の安全のために、勝頼は岐阜に突き付けた匕首として譲れないところといったところでしょうか。勝頼は東美濃確保のために信玄時代にも見られない大軍を動員し、自ら指揮して遠山十八支城を悉く落としたとなっています。その軍勢は記録では1万5000。信長も3万の援軍を編成して救援に向かったとされますが、間に合わず東美濃は勝頼の手に落ちたと見て良さそうです。


さて勝頼がここまでの大軍を動員して東美濃の遠山氏を攻略した理由ですが、思いつくのは、

  1. 信長が援軍を送る前に決着を付けたかった
  2. 勝頼自らが東美濃に大軍を率いる姿を見せたかった
1.は戦術的に妥当で遠山氏を攻めれば信長の呼応は必至であり、いくらなんでもこの時点で信長と美濃の地で決戦をやる気は勝頼にはなかったと思います。この決戦が出来ない理由として家督を継いで日が浅いだけでなく、まだ家臣に対する求心力が確保されていない点も大きかったと思います。なにせ信玄の後継者ですから、その辺が大変なところです。実質的に勝頼の初采配ですから必勝を期したと考えるのが自然で、そのための大軍であったと見るのが自然です。相手は家康でもなく、信長でもない遠山氏ですから圧勝としてよい戦果を挙げています。

2.については私の憶測に過ぎませんが、天正2年2月とはユリウス暦で2/22から始まる月になり季節は真冬です。この雪の多い季節に勝頼率いる武田軍主力が東美濃に出現したのは信長にインパクトを与えたんじゃないかと思っています。ココロは武田軍はいつでも東美濃に主力軍を送り込めるってところです。もう少し付け加えれば、信玄は遠江からの西上ルートを取ったが、勝頼は中山道からいきなり美濃に攻め込む選択枝を持っているぞぐらいでしょうか。おそらく信長も勝頼率いる武田主力軍の出現に少なからず驚き

信長は明知城を失う重大さを思い、奈良多聞山城から呼び寄せた子信忠と明智光秀とともに、三万の兵にて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとした。

しかし間に合わず明知城は武田の手に渡り

信長は嫡男・信忠とともに出陣したが、到着前の2月6日に明知城で飯羽間右衛門の裏切りがあって落城したため、東濃の神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。

勝頼の1万5000も信長の3万もどれぐらい信じられるかはキリがないので置いておくとしても、場合によっては決戦の気構えで大軍を動員したぐらいにも見えます。ただこの時には勝頼も信長も決戦を望む気はなく勝頼が東美濃を支配することで双方とも兵を引いたぐらいでしょうか。この戦いでポイントを挙げたのは勝頼の気がします。


天正2年6月:高天神城攻略

明知城攻略の次は勝頼は高天神城攻略を目指します。二股城とか、高天神城とかは遺憾ながら名前は知っていても位置がアヤフヤなので地図に落としてみます。

遠江の地理に疎いので、wikipediaの信玄の西上作戦に出てくる城名をわかる範囲でプロットしてみました。西上作戦時には地図にプロットした浜松城掛川城高天神城野田城・吉田城・堀江城を除く他の城は武田軍が落としたとなっていますが、信玄死亡後は二股城を除いて家康が奪回していたぐらいの理解で良さそうです。どうもなんですが武田の西進は駿河から東海道を粛々と寄せていくにはなっていないようです。その原因は東海道掛川城、さらにその浜寄りに高天神城があり、ここを落とせなかったので現在の国道152号線ルートを使って遠江に侵入したともいわれています。152号線ルートで遠江の蓋になっているのが二股城で、信玄がこの城の攻略にこだわった理由が良くわかりますし、信玄死後も二股城だけは確保しているのも理解できます。上に示した地図では高天神城の位置づけがわかりにくいのでもう一つ作ってみました。

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地形図を見ただけの感想ですが、とりあえず遠江駿河の国境は大井川ですが、信玄時代から武田は大井川を越えて御前崎に続く丘陵地帯の東側まで勢力を確保し、そこから菊川流域に侵入を試みていたようです。この菊川流域を守る徳川の拠点が東海道沿いの掛川城と南側の高天神城であったようです。この2城が突破されると太田川流域から浜松城のある天竜川流域まで危なくなるってところです。信玄時代は掛川城高天神城も落ちなかったので西上作戦時は北方から二股城を攻略して一挙に天竜川流域に武田軍が侵入したぐらいの理解で良さそうです。


勝頼がなぜに高天神城を狙ったかですが・・・わかんないですねぇ。まあ、高天神城を奪えば菊川流域の支配権が手に入りそうぐらいは言えそうで戦国用語の切り取りって奴でしょうか。領国の大きくない家康にとっては地味に応えるとは思います。それと家康への示威でしょうか。家康は信玄死後に当然ですが遠江で落とされた城々の奪還作戦をやっています。武田にしても全部守るわけにもいかず二股城だけ橋頭保に残していますが、信玄時代にも落ちなかった高天神城を落とすことで「勝頼を舐めるな」ぐらいの意味合いです。

この示威は対外的には家康に向けられますが、対内的には家臣団に向けられたとも考えて良さそうです。偉大な父である信玄でも落とせなかった高天神城を勝頼は落としたの目に見える実績作りです。まあこの辺は落とせなかったら「信玄でも無理だったから・・・」の釈明は成立しそうに思いますが、結果として高天神城を落としていますから勝頼の企画は成功したと見て良いと思います。少なくとも家康は「勝頼も恐るべし」と感じたに違いありません。


とりあえずここまで

戦国時代の後期は信長が軸なのは間違いありません。信長の勢力は信玄在世時でも既に遥かに凌駕していたとしても良いかと思います。長篠時には長年の宿敵の浅井・朝倉を滅ぼしていますから、純粋の「織田 vs 武田」の決戦なら2倍どころか3倍以上の決戦兵力を集めるのも余裕だったと思います。しかしそれが出来ないところに信長の苦悩があった気がしています。信長の戦略の基本は

    東は家康に任せて手を出さない
信玄との媚態外交もその一環です。東に備える兵力を西に回す事によって短期間での大勢力の構築に成功したと見えなくもありません。もう一つの特徴は多方面作戦です。これも信長戦略の特徴ですが、天下統一を目指し出してから有力勢力の存在を認めない方針があったと思っています。まあ、この辺は結果論で反信長勢力を義昭が上手に煽ったためかもしれませんが、秀吉のように相手によっては適当に許す方針を取っていません。そのために多方面にガチンコ・バトルが展開するのですが、これが信長戦略の弱点になっていたとも考えられます。

多方面作戦が展開できるのは、それだけ織田家が大きいからですが、多方面がガチンコであるために織田家全兵力の結集は難しくなります。まとまった兵力が敵として出現した時に困る訳です。そのために信長は直属の機動部隊ともいえる部隊を持つほかに、必要な時に各方面から必要兵力を引き抜きます。引き抜かれた各方面軍が困ったの記録をどこかで読んだことがありますが、信長にすれば大戦略のために「我慢せい」ってところでしょうか。

この引き抜きによる決戦兵力の集中作戦が自在に行えたの信長の強みだったのですが、引き抜き方式による決戦兵力の形成にも弱点があります。そうは長い間、引き抜き状態を維持できない点です。そのために信長は絶対に決戦になる時期を鋭く見分けて兵力集中を行っています。裏を返せばかき集めた決戦兵力は長期戦には適さず、もし決戦に至らなかったら速やかに引き抜き兵力を元の各方面軍に戻しています。ダラダラと集めたままにしておくと、各方面軍が崩壊しかねないからです。

信玄の西上を怖れたのもこの理由からではないかと考えています。信長にすれば信玄を遥かに上回る決戦兵力を動員できるのは机上では可能で、そういう点で信長は信玄に負けるとは思っていなかったと考えています。問題はどうやってその兵力を動員するかです。「武田強し」は当時の常識ですから2倍ぐらいは最低限必要です。一方でそれだけの兵力を各方面軍から引き抜ける期間は限定されます。信玄との決戦も即日で決着してくれれば良いのですが、長期対陣に引きずり込まれたら大変な事になります。

信玄の西上に対して信長が苦悩していたのは、どれだけの兵力を各方面から引き抜く計算と、いかにして短期決戦に持ち込むかの算段です。あえて想像すれば地形が錯綜しているところでは長期戦の懸念が出てくるので、尾張まで信玄を引っ張り込んでの平地決戦です。ただそうなれば兵力の優位は少しでも欲しいので・・・とにもかくにも信玄は途中で病死したので信長の対信玄作戦がどんなものであったかは永遠の謎です。


こんな事を思い出したのは明知城を巡る攻防戦からです。東美濃に勝頼が進攻したときに信長も反応して自ら指揮して援軍を送っています。その数は勝頼の2倍の3万ともいわれています。信長が反応したのは東美濃を武田の支配下に置かれるのは拙いの解釈は良いとは思うのですが、明知落城を聞くとアッサリと撤収しています。重要地点であるなら勝頼が甲斐に帰れば奪還しても良いはず、つうか奪還作戦に出そうなものです。信長が奪還作戦を起こさなかったのはなんとなく、

    やれば長引く
信長の兵力なら勝頼が奪った遠山十八支城を速やかに奪還するのは不可能と思えませんが、織田軍全体からし東美濃に新たな方面軍を常駐させる余裕はなかったぐらいです。手薄な留守兵力では勝頼が再び主力を率いて来襲すれば駆逐されていしまいます。奪還するにはまたぞろ各方面軍の引き抜き作業が必要になります。これじゃわかりにくいかもしれませんが、武田は場合によっては東美濃で局地決戦、もしくは消耗戦をやれる余裕はあるが、織田にとっては嬉しくない展開というところです。信長が明知城救援に向かったのは
  1. 東美濃から岐阜を目指しても即座に対応できるのを見せる
  2. 状況によっては決戦を行い勝頼を撃破する
2.は戦場の流れ次第で覚悟の一つですが、主な目的は1.だった気がしています。明知城の時は勝頼も決戦を望まず帰国したので、信長もこれ以上の合戦を継続せずに現状維持を選択したぐらいでしょうか。1.についてはもう少し違う側面もある気がしています。信長が一番驚かされたのは雪が武田軍の中山道通行を妨げなかった点の気がします。つまり武田軍は冬でも東美濃に主力軍を送り込める事実を見せつけられたことです。とにかく岐阜に近いですから、あんなところに武田の主力軍がいつでも来襲可能である事実は信長にとって気持ちの悪いことであった気がしています。だからこそ大軍をかき集めて対抗する実績を絶対に作らなければならなかったぐらいでしょうか。

なんとなく力業の面は否定しませんが、勝頼は明知城攻めでの信長の対応に何を学んだのだろうです。長篠の武田軍の敗因は様々に分析されていますが、織田は武田を遥かに上回る大軍を決戦兵力として投入できるが、これを長期間維持することは難しい事を見抜いていれば、勝頼のあの時の判断は変わっていたかもしれないと思ったぐらいです。もちろんこの推測はすべては後世の結果論の上での後出しジャンケンであるのはいうまでもありません。