桶狭間の合戦・信長の作戦

戦術家としての信長は?

信長は戦国史どころか日本史の英雄であることには異論は少ないと思います。時代を先取りした着想とそれを具現化する強烈な実行力で、信長と肩を並べる人物が日本史で他にいたかどうか私では思いつきません。軍事能力も卓越していたで良いと思います。軍事能力については結果が雄弁に語っていまして、スタートが尾張半国程度であったのが、本能寺の頃には日本の1/3ぐらいの征服を既に終えています。一代でこれほど領土を広げた武将は秀吉や家康もいますが、信長の領土拡張の凄いところは、その殆どが軍事力で相手を叩きのめしてのものです。そのあまりの苛烈さのために周囲皆敵状態に陥りますが、それも打ち破っているのは事実であり、史実です。

では信長が名将かといわれると何となく違和感が残ります。軍事能力が高ければ名将であるはずなんですが、名将なんて狭いカテゴリーに留まらないのが信長の気がしています。つうか名将というのは考えようによってはかなり狭い能力の範囲を示している気がしています。たとえば戦国期なら上杉謙信。謙信が名将であることにこれまた異論は少ないと思いますが、謙信と信長を較べてみると違いが判る気がします。謙信が戦に鬼のように強かったのは間違いありません。

この謙信と信長が互角の兵力を率いて決戦を行えば謙信が勝つと思います。しかし信長の軍事能力の評価はポイントが違う気がします。信長の軍事能力とは謙信と互角の兵力で決戦などしない点だと思います。つまり名将の評価とは優れた戦術家であると思いますが、信長は卓越した戦略家とするのが正しい評価だと思っています。信長の戦略思想は単純化してしまえば、決戦場に相手より多くの兵を結集することであり、そのための様々な努力こそが戦であるぐらいです。仮に信長が謙信と雌雄を決する決戦を行うなら、おそらく謙信の3倍以上、いや5倍ぐらいの兵力を決戦場に送り込むのが信長の戦で、決戦場に着くまでに8割以上は仕事が終わっているぐらいといえば良いでしょうか。

そんな信長ですが、互角もしくは劣勢で戦場に臨んだ経験があるかです。そういうシチュエーションは戦術家としての能力が問われるのですが、しっかりあります。

年月日 信長年齢 合戦名 信長側兵力 相手側兵力 結果
1552.5.10 18 赤塚の戦い 800 1500 ドロー
1552.9.4 18 萱津の戦い 不明 信長勝利
1554.1.24 19 村木砦の戦い 不明 信長勝利
1556.9.27 22 稲生の戦い 700 1700〜3000 信長勝利
1558〜1559 24〜25 浮野の戦い 3000 3000 信長勝利
これは信秀死後から桶狭間に至るまでの信長の主要な合戦歴ですが、信長が絶対優勢で戦ったものはなく、良くて互角、弟の勘十郎と戦った稲生の戦いなんて「良く勝てた」ぐらいの兵力差があります。実際もかなりの苦戦だったようですが、勝っているのは信長です。この経歴から信長は謙信並みの超一流ではないかもしれませんが、一流の戦術家であるのは間違いないと思います。


信長の戦術の痕跡 at 清州

合戦の常で両軍の実兵力は不明です。それでも戦闘員の数に於て少なくとも織田軍の5倍ぐらいは今川軍はいたと考えています。またそういう状況を信長だけでなく織田家の家臣たちも知っていたと思います。敵方が優勢な時は籠城戦術を取るのが誰でも思いつきますが、籠城戦術が有効なのは、

  1. 籠城している内に援軍が来る
  2. 籠城している内に敵方の兵糧が乏しくなり撤退を余儀なくされる
つまりはある程度の期間、籠城で頑張れば敵方を撃退できる希望があるときです。三木合戦で別所方が頑張ったのは、そのうち毛利の大軍が現れて秀吉軍を追っ払ってくれるの期待にすがっていたからだと思っています。しかし当時の信長に有力な援軍は期待できません。西の伊勢も、北の美濃も同盟国というより疎遠国ないし敵対国です。さらに国内も継承戦争から、尾張統一戦争の過程で何かあれば反信長に転びそうな勢力も少なからず存在していたと思います。つまり清州に籠城しても、その間に今川氏への寝返りが雪崩のように起きかねないってところでしょうか。下手すりゃ、清州城内からでも起こりかねません。

その辺ぐらいは信長に見えていたと思います。信長にとって清州籠城は自滅行為になり、なにがなんでも野戦でなんとかする必要があったぐらいです。しか野戦といっても兵力差は莫大です。兵力差があっても山国で天険に頼れるとか、大軍の有利さを発揮できない地形があればまだしもなんですが、濃尾平野に今川軍に侵入されたら、どんな戦術の妙を尽くそうとも歯が立たないぐらいです。織田氏と今川氏の置かれた状況から和睦の線も事実上なく、これで信長が勝ったのは本当に不思議といったところです。さてなんですが地図を見てもらいます。

20160815162512

清州から熱田まで3里です。この清州−熱田間は平地です。平地では兵力差がさらに絶対になります。熱田方面に今川の大軍が展開するような状況になれば、たとえ謙信や義経が采配を揮っても勝てないと思います。嫌でも清州籠城しか選択がなくなり、なおかつ清州籠城戦術は上述したように自滅行為に等しいぐらいです。そうなれば信長が今川軍に挑むには鳴海あたりの丘陵地帯しかありません。ここは丘陵と言ってもなだらかな丘程度ですが、ここでならまだしも地形を活かして兵力差を詰めることが可能なぐらいでしょうか。

ちなみにですが、なぜに鳴海方面に今川軍が進んできたかですが、当時の主要街道である鎌倉往還が通っていたからで良いと思います。鎌倉往還は沓掛から古鳴海に抜け熱田に進みますが、桶狭間の時期でも桶狭間道から鳴海に向かい熱田に進む道がポピュラーになりかていたと想像しています。今川は大軍ですが、大軍であるほど街道を通らないと移動に支障を来します。今川の戦略は鳴海城周辺を制圧し、そこから熱田方面に押し出すであろうことは、たぶん信長でなくとも「それ以外はない」ぐらいに見ていたと思っています。

信長のこの時の行動として引っかかるのは5/17に義元が沓掛城に入り、5/18夕には鷲津・丸根砦から今川軍来襲必至の報告を受けながら動かなかったことです。信長はなんとか鳴海方面で今川軍を食い止める必要はあったのですが、5/18夜には軍議さえ開いていません。推測にしかなりませんが軍議を開けば、

  1. 清州から徹宵行軍してでも鳴海方面に援軍を直ちに送り、鷲津・丸根砦を支援する
  2. 鷲津・丸根砦の軍勢を鳴海方面に撤収させる
これぐらいの案の順列組合せしか出てこないと予想されます。しかしこんな案は眼前の事実に反応したに過ぎず、何をやっても織田軍が有利に展開するわけでありません。信長が考えていたのは今川軍の分断ないし衰弱作戦であったと後の事実から考えられます。信長の戦術は、鷲津・丸根砦が健在であるならば今川軍は有力な別動隊を編成して潰しに来るはずだから、そのまま潰してもらおうであったと考えています。そうなれば鷲津・丸根砦の織田軍は全滅に近い損害を受けますが、その代わりに鷲津・丸根砦攻略のために今川別動隊は疲れ、一定の期間は決戦勢力にならないぐらいの計算です。つまり、
    鷲津・丸根砦をエサにして、その10倍ぐらいの今川軍を一時的に戦闘不能にする
とにもかくにもまずそれぐらい今川軍が減ってくれないと勝負にさえならないぐらいでしょうか。ただそんな作戦を家老の前で力説しても百害あって一利なしです。ですからひたすら不貞寝状態で手を拱いているフリをして、今川軍が喰いついてくれるのを清州城で待っていたぐらいです。そう考えるとい鷲津・丸根砦に5/19の2時ぐらいに今川軍の攻撃があった時に機敏に反応したことが説明可能になります。

この時の信長の不安は、いつ今川軍がエサに喰いつくかで、夜の内なのか、朝になってからかと考えていたと思っています。それによって次の作戦の展開が変わるからです。結果として夜に今川軍は喰いついたのですが、それが信長にとってジャスト・タイミングであったのか、そうでないかは誰にもわかりません。


信長の戦術の痕跡 at 中島砦

信長は清州から熱田、さらには善照寺砦に進出します。善照寺砦で佐々・千秋の突撃と惨敗を見た後に中島砦に移ります。この時の状況として、

無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切って中島へ御移り候。

要するに家老連中は大反対であったのに織田軍の全容を見せるデメリットを押し切って中島砦に移動しています。これは信長の戦術であったと見たいところです。つうのも中島砦は桶狭間道の抑えのための砦と見ています。ここに兵力を結集すれば、桶狭間道から中島砦に進んでくる今川軍の阻止には有効ではあります。ただし兵力差はここでも絶対で、中島砦で消耗戦をやって今川軍の進出を防いだところで、時間稼ぎ程度しかならず、その時間を稼いだところで信長に展望が開ける訳ではありません。そうなると信長の中島砦への移動は、

    わざと織田軍の全容を今川軍に見せた
こう考えるのが妥当だと思います。ではなんのために織田軍の全容を見せたかです。


信長の戦術は中入りじゃなかったか?

中入り戦術は戦国期でも広く用いられています。色んなバリエーションがありますが、典型的には敵と相対した状態から別動隊を編成して、敵の弱点を奇襲するぐらいです。中入り戦術で有名なものに小牧長久手の秀吉軍があります。この時に秀吉は部下の進言に押し切られ、秀次を大将として中入り戦術を行いますが、逸早く察知した徳川軍に対応され大敗を喫しています。戦国期に中入り戦術がしばしば用いられたのは間違いありませんが、一方で中入りは危険との常識もまたあったと読んだことがあります。

中入りのためには、軍勢を割く必要があり、割くと正面で相対した敵にも劣勢になり、別動隊に対応されると、そこもまた劣勢になってしまうぐらいでしょうか。小牧長久手でも秀吉が中入り戦術の承認を渋った話が残っていたはずです。それほどリスクがあるのですが、信長の置かれた状況はそれぐらいのリスクは冒さざるを得ないぐらいだったと推測します。あくまでも想像ですが、信長が中入り戦術を選んだのは、他に手がないのも十分にあると思いますが、兵力的に劣勢すぎる織田軍が中入り戦術なんて取るはずもないと今川軍が考えている事に期待した面もあると思っています。

信長が鳴海方面で行った中入り戦術は通常の中入り戦術とは少し違います。今川軍の正面にそれなりの戦力を置く余裕もない織田軍は、その主力を挙げての中入り戦術にしたと思っています。なんと言っても織田軍の動きは今川軍の視界の中にありますから、織田軍が中入りのために移動するのを「そうでない」と思わせる戦術行動が必要というところです。そのためにあえて善照寺砦から中島砦に移動して織田軍の全容を今川軍に見せ、

    これだけしかいない
まずこの情報を与えたのだと考えています。これは中島砦から移動する時にももう一度使われています。そうやって「織田軍はあれだけ小勢だから鳴海方面から退却するのも当然だろう」と今川軍が思ってくれるのを期待したぐらいに考えています。


中入り戦術のターゲットは?

中入り戦術は相手の弱点を迂回して襲うのが基本ですが、信長は今川軍のどこを襲う算段であったのかです。このヒントは中島砦で移動前に信長が行った訓示にあると思っています。

あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。

この信長の訓示は太田牛一もライブで聞いた可能性が十分にあると思っていますが、どう読んでも今川軍の大高城別動隊を指しているとしか思えません。信長は鷲津・丸根砦を犠牲にすることにより今川軍の決戦戦力の削減を図ったらしいは上述しましたが、信長は大高城別動隊が桶狭間丘陵にも進出してきているはずだと計算していたと思います。そうでなければ、こんな訓示はしないと思います。訓示の要点は相手は数こそ多いが、昨夜からの戦で疲れ切っている兵だから、織田軍でも撃破は容易であるぐらいです。

信長の狙いは中入り戦術で疲れ切っている今川軍の大高城別動隊を叩くでなかったかと思います。その大高城別動隊はさすがに前衛に配置されているとは思われず、配置されているとしたら今川軍の後衛部隊として配置されているはずだの読みかと推測します。信長の計算では大高城別動隊は5000ぐらいはいるはずで、これを中入り戦術で潰走させれば、今川軍が動揺して撤退してくれないだろうかぐらいでしょうか。

補足ですがどうも5/19は今川軍は動かないと信長は考えていた気がします。動く可能性が大なら、中島砦に移動した段階で攻撃をかけられたら、それだけでそこから動けなくなります。なぜに今川軍が動かないと判断したかですが、大高城別動隊の休養が終わらない限り今川軍は動かないだろうの根拠の気がします。それを補強する材料が佐々・千秋の突撃でも攻勢をかけてこなかった点でしょうか。


ネックと僥倖の団体さん

信長の巧緻そうな戦術ですが、すべては今川軍が

    そう思い、そう動くだろう
これへの期待ばかりです。そもそもですが、信長が善照寺砦にいる間に大攻勢をかけられただけで終わりです。中島砦でも同じで、一度戦端が開いてしまうと、そこからサッと離脱するなんて事実上不可能です。そういう状態での離脱は敗走になり、追い討ちで多大な損害が生じるだけです。しかし5/19に信長の読み通り今川軍は動かなかったのは事実です。

今川軍が動かなかったのはまだ良いとして、鎌倉往還を使う中入り戦術もネックがテンコモリあります。それこそ古鳴海方面に織田軍が退却したら、これを追い討ちしてくるかもしれません。そうなっただけで織田軍は動けなくなり、追われる体制での迎撃となり、そこで織田軍の戦力は尽きます。それよりなにより鎌倉往還を使うことにより、一度は今川軍の視界から織田軍を消せますが、相原郷まで進めば再び今川軍の視界に入り発見される危険は十分にあります。相原郷から八つ松までも3km程度はあり、相原郷時点で発見され、今川軍に対応されるとかなり深入りしているために袋の鼠になってしまう危険性もまた十分にあります。

それと信長が期待していた大高城別動隊は桶狭間に来ていません。古鳴海から相原郷への道で信長はすべての期待が実現してくれることを念じていたと思いますが、相原郷から扇川流域を進むときに発見されるリスクについては

    どうしようもないから強襲
これぐらいに考えていたのかもしれません。強いて言えば大高城方面の戦闘で疲れている兵だから発見されても対応が鈍いはずで、そこを遮二無二突き進めば勝機はあるぐらいでしょうか。現実には大高別動隊はそのまま休養のために待機しており、いたのは沓掛城から今朝出てきた軍勢になっています。ほいでもってここから僥倖が団体さんで信長に訪れます。
  1. ちょうど相原郷のあたりで雷雨になり、織田軍の行動を今川軍は発見出来なかった
  2. 大高城別動隊と信じて突撃したら義元本陣であり、なおかつ義元の首さえ取れてしまった
運命の女神は義元ではなく、信長にひたすら微笑んだぐらいです。


それにしても太田牛一が中島砦から義元本陣へのルートを書き記さなかったのは謎です。理由なんて不明としか言いようがないのですが、なんとなく信長を怖れたぐらいはありそうな気がします。信長に懐古趣味がほとんどなかったとあちこちに書き残されています。それ以前に無駄な雑談すらほとんどなく、語る言葉もしばしば主語なしで述語のみであるため家臣は大変だったの話は有名です。そのうえ、聞き直されるのが大嫌いで、たとえばいきなり

    見たか!
と聞かれるわけです。家臣は信長の関心事に常に注意を払い、主語を想像してすぐさま返答しなければならないぐらいです。この能力に優れていたのが秀吉であり、森蘭丸であったぐらいでしょうか。ですから信長が桶狭間の回想談(つうか他も殆どないと思います)の記録を残していなくても不思議はないのですが、それだけでない気がします。信長の桶狭間の勝利は日本中に知れ渡る程のものであったはずです。しかし信長にしてみれば、読み違えも計算違いもたくさんあり、さらに僥倖に恵まれすぎての勝利であると自覚していたと思っています。

そのために桶狭間の話を持ち出されるだけで不快になっていたぐらいを想像します。信長が不快がる話をあえて持ち出せる人物は当時でなくとも日本にいなかったと思っています。そういう信長が桶狭間の話を非常に不快がることを太田牛一は身に染みてよく知っていたと思っています。wikipediaより太田牛一の経歴ですが、

近習の書記となる。後には安土城下で屋敷を持ち、信長に近侍する官僚(吏僚)として、永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として京の寺社との間の行政を担当する。

信長近臣であった時期が太田牛一にはあり、織田家家臣はタブーとして口にも出さないかもしれませんが、他国の使者なら世辞のつもりで桶狭間の話題を持ち出した時の不機嫌さを見聞きしていても不思議ありません。信長は家臣にとって恐怖の存在であったのはあちこちに記録として残されていますが、桶狭間関連の話題が出た時の信長の不機嫌さがよほど怖かったぐらいはあっても不思議ありません。太田牛一信長公記を編纂した時期はwikipediaより、

太田牛一尾張春日郡の出自で、信長の死後には織田家臣の丹羽長秀に右筆として仕え、長秀の没後には豊臣秀吉に仕えている。『信長公記』は長秀・秀吉家臣時代の記録をもとに編纂されたと考えられている。

藤本正行は著書『信長の戦争』の中で、同じ本の中でありながら、信長に対して「上様」「信長公」「信長」と表現が変わっている部分や、徳川家康を「家康」と呼び捨てにしていたり「家康公」「家康卿」「家康殿」と敬称をつけている箇所などがある点に言及し、さまざまな時期に書いたメモのようなものを切り貼りして一冊の本として作り上げたものであるとみている。

太田牛一桶狭間の項をいつ書いたのかは不明ですが、信長在世中に下書きぐらいは書いていた可能性はあります。桶狭間は飛ばすことが出来ない重要事件ですが、桶狭間の話で不快がる信長でもとくに不快がる中島砦から義元本陣襲撃のところは、怖くて詳細に書き残せなかったぐらいを想像しています。信長公記が世に出たのは信長死後でよいと思いますが、その時でさえあの世で信長に責め立てられる恐怖が太田牛一PTSDとしてあったのかもしれません。それぐらい怖い主君であったのも様々に記録されているのが信長で、そういえば秀吉にも夢で信長に責め立てられるエピソードがあったような・・・。