桶狭間の合戦と沓掛の到下の松の本

到下 = 峠

信長公記は信長が清州城から中島砦までの動きはかなり詳細に記述されています。ところが中島砦から義元本陣襲撃までは曖昧模糊で、唯一の手がかりは、

  • 山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。
  • 沓掛の到下の松の本に、二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降り倒る。余の事に。熱田大明神の神軍がと申し候なり。

私が信長公記の引用していたサイトでは上記2つの文章は段落を分けて書かれていました。ですので続きの文章とはいえ、山際のエピソードと沓掛の到下の松の本のエピソードは違う場所のものじゃないかと考えていました。具体的には

    中島砦 → 山際 → 沓掛の到下の松の本
こうやって信長動いた感じです。信長公記の写本でネットで公開されているのは国立国会図書館のものぐらいしかなさそうなのですが、そこで原文を確認してみると、

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やっぱり原文を確認すべきだと反省しています。これは素直に読んで山際エピソードと沓掛の到下の松の本はほぼ同じ場所で起こったとして良さそうです。同じでなくとも連続したエピソードぐらいに解釈して良いかと思います。それとこれも注目点ですが、到には「タウ」のルビが振られています。つまり沓掛の到下の松の本は「沓掛の到」と「下の松の本」と分けて読むのでなく「到下 = 峠」と読むのが正しいことがわかります。すなわち

    沓掛峠の松の本
こうであった事になります。JSJ様の推理が的中しています。


沓掛峠

沓掛峠の地名も現在は探しても見つかりませんが、峠というからには山(今回は丘程度ですが・・・)を越える地点ないし地域を指しているとして良いでしょう。さらに沓掛の地名があるので、この峠を越えると沓掛方面に到ると考えて良いはずです。ここで峠の原義なんですがwikipediaより、

峠とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所。山脈越えの道が通る最も標高が高い地点。なお、峠の片側にのみ大きな高低差があってもう一方の側が平坦に近いものを片峠という。日本での片峠の代表的な事例としては碓氷峠がある。

私の単なる勉強不足ですが、峠とは最高地点の意味もありますが、下り部分を指す意味もあったようです。この下りになる場所ですが、登りでも峠になるはずです。そりゃ反対から見れば下りだからです。別に捻って考えるほどのものではなさそうで、山越えの道をすべて峠を指すぐらいで。そう考えると沓掛峠を登る途中か、下る途中、もしくは登り切った平坦地で、

    松の本に、二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降り倒る
こういう光景を織田軍の将兵は目撃したぐらいでしょうか。おそらく余程印象的であったので太田牛一も記録に残したと考えられます。ここぐらいまでは推測できるのですが、これでもまだ信長のいた場所は不明です。


沓掛峠と松

つうのは沓掛峠は古鳴海から沓掛に至るどこかであるとは思われますが、このルートはまず古鳴海が丘陵上にあります。そこから扇川に向かって下り、そこから再び丘陵を登り二村山から沓掛に下っていきます。ここでもう一つ条件があり、中島砦を信長が出たのは午の刻、義元本陣襲撃が未の刻となっていますから、中島砦から義元本陣襲撃まで2〜3時間に制約されます。前に出した鎌倉往還の地図はあまりに粗かったので、できるだけ正確に書き直してみました。

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信長は中島砦から善照寺砦、さらには丹下砦を経由して鎌倉往還に引き返したと考えています。旭出には織田軍が集結した伝承が残っていますが、丹下砦からは登りですから、そのあたりで小休止した可能性はありそうです。旭出からはどうも一旦下って、登り返し相原郷に出るようです。相原郷から扇川を東に向かいながら渡河し、八つ松神社方面に登って行くのが鎌倉往還になります。ちなみに八松から濁池、さらには二村山に向かい、二村山から下って沓掛に至るぐらいです。

峠に該当しそうな場所は

  1. 旭出から相原郷に向かう下り
  2. 八つ松から二村山を越える部分
ここでなんですが信長公記に「松の本」の記載があります。松なんてあっちこっちに生えてますから、松の存在をどれだけ重視するかは難しいところですが、沓掛までの鎌倉往還で当時の人間なら
    松といえばあそこ
てな名所的な松があった可能性があります。八つ松の地名は現在も残っていますが、由来は八本松があったからとなっています。ここに八つ松八幡があるのですが、この八幡社は名前をもたないそうです。正式名はただの八幡社になるそうで、それじゃわかりにくいので地名の八つ松を乗っけて呼んでいるそうです。この八つ松ですが桶狭間合戦当時からあったかどうかなんて確認しようもないのですが、宝永年間まで義経鎧(甲)掛松が存在したとされています。義経由来の松であれば桶狭間合戦当時にもあって不思議なく、この辺りの名物として知れ渡っていた可能性はあります。松の本が義経鎧(甲)掛松ないしは八本松であったかもしれないぐらいです。


雷雨

桶狭間合戦を彩る雷雨ですが、

    降り出し・・・山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨
    降り終り・・・空晴るるを御覧じ、信長鑓をおっ取って、大音声を上げて、すは、かかれ、かかれと仰せられ
つまり山際地点から雷雨になり、これは沓掛峠まで続き、義元本陣突撃時には雨はやみ、晴れだしていたで良さそう、時代劇でポピュラーな嵐の中の奇襲ではなかったようです。この雷雨も場所特定のヒントになりそうです。鎌倉往還は再検討の結果を上の地図に示していますが、相原郷で扇川流域に出ます。ここは今川陣地の側面にはなりますが、晴れていれば今川陣地から丸見えです。史実は相原郷から義元本陣まで今川軍に察知されていないのですが、その原因が雷雨であったと見れそうです。

信長は古鳴海方面に退却することによって、一度今川軍の視界から消えたと推測します。つうか視界から消えるために中島砦から退却したとするのが自然です。織田軍が集結した伝承のある旭出から、どのあたりまで進めば今川軍に見えるのか不明なのですが、信長公記にある山際とは旭出から相原郷に下る道の途中の気がします。雷雨は織田軍の行軍中の音を消しただけではなく、視界も遮り、相原郷に出現した織田軍も発見し損ねたぐらいしか言いようがありません。

ここでなんですが、信長の元々の狙いはどうだったんだろうです。雨ぐらい降るのは予想はしていたかもしれませんが、雷雨まで予想していたとは思いにくいところです。なんとなく迂回路を使うことによる、今川陣地への側面攻撃だった気がしています。つまりは相原郷からまっすぐ南下して桶狭間丘陵に攻め上るプランです。そこに雷雨があったことで計画を変更した可能性を考えています。具体的には相原郷からの側面攻撃を中止し、そのまま鎌倉往還を進んでの背面攻撃への変更です。

この状態の描写が「沓掛の到下の松の本」で、ちょうどその頃に雨もやみ、晴れ間が見え、今川陣地に背後から突撃を敢行したぐらいです。でもって突撃した陣地がたまたま義元本陣であり、これもたまたま義元まで討ち取れてしまったぐらいです。


蛇足・信長の鼓舞の意味

中島砦で信長は

あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るるなかれ。

こうやって自軍を鼓舞したとなっているのですが、どうにも解釈が難しいところです。つうのも大高城別動隊は松平元康、朝比奈泰朝であり、元康は丸根砦を攻め、泰朝は鷲津砦を攻めています。二人のうち元康は大高城で後詰を命じられたとなっています。信長公記には

今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労されたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり。

ほんじゃもう一人の朝比奈泰朝はどうだったんだろうになります。泰朝も元康並みの働きをしているわけで、常識的には「人馬の休息、大高に居陣なり」と考えたいところです。つまりって程ではありませんが、中島砦からみて元康にしろ、泰朝にしろ黒末入海の向こうにいるわけで、そんな大高城別動隊が疲れていて弱いと力説するのはチト変な気がします。あえての解釈として、

  1. 大高城にいる今川別動隊は来ないから安心せよ
  2. 今から襲う今川部隊は大高城方面の合戦で弱っているので勝てるぞ
1.は少々無理がありますから、2.の方が少しだけ理があります。ただなんですが、見える範囲の今川陣地の大将が誰であるかは、旗印を見ればわかるはずです。そうやって大将の名前を明示するのが当時の合戦です。この辺は情報量の関係で、信長も織田軍将兵も鷲津・丸根砦を今川軍の誰が攻めたのか知らなかった可能性はありますが、それで説明して良いのかどうかに自信がありません。wikipediaには、

今川義元尾張国侵攻で井伊直盛とともに織田氏の鷲津砦を攻略。窮地にあった大高城を救ったが、後続本隊の義元が桶狭間の戦いで討死。やむなく放棄し、撤退した。

こうともなっていますが、ひょっとしたら朝比奈泰朝は鷲津砦攻略後に北上して織田軍前方に布陣していた可能性があると考えています。というのも、信長が鎌倉往還を迂回して出てくるところは相原郷になるのは地図で示した通りです。この相原郷と中島砦との直線距離は1km程度しかないのです。上でもともとの信長の狙いは今川軍の側面攻撃だとしましたが、なぜに側面攻撃を狙ったかというと、そこに昨夜来から大高城方面で戦った朝比奈泰朝軍が布陣していたからではないでしょうか。5/19の時点で朝比奈泰朝軍は疲労のために弱点となっており、これを粉砕するのが中島砦時点での信長の戦術であったぐらいです。

わざわざ鎌倉往還を迂回したのは、丸見え状態の中島砦から移動すれば、移動中に意図を察知され、今川軍に対応されてしまうので、鎌倉往還を使って相原郷に出ることにより、出現から攻撃までの時間を少しでも縮めたかったからぐらいです。そいでも朝比奈泰朝軍を鷲津から桶狭間丘陵まで呼び寄せ、さらに織田軍の前方に配置するのは戦術的に無理がありすぎるので、やっぱりこれから攻撃する今川部隊は昨夜から疲労困憊の部隊だから「小勢でも勝てるぞ」と無理やり鼓舞したと考える方が宜しそうです。