桶狭間と鎌倉往還

信長公記では午の刻に中島砦にいた信長が未の刻には義元本陣を襲撃しています。新暦では6/12ですから

    午の刻・・・11時から13時
    未の刻・・・13時から15時
なおかつ午の刻は信長が善照寺砦に到着したのに触発されて佐々政次、千秋四郎が謎とされる突撃を行い、その後に中島砦に信長は進んだとなっています。中島砦から「山際」に移動を開始した時刻は午の刻でも12時より後と考えるのが妥当かと推測します。そうなると信長の義元本陣襲撃までは2時間から3時間になります。有名な雷雨は山際に到着してから降り始め、未の刻の義元本陣襲撃時には晴れ間が見える状態であったと解釈して良さそうです。中島砦や善照寺砦は今川軍に見下ろさる位置にあるのは信長公記から明瞭です。

それでも織田軍は義元本陣を襲撃するまでは雷雨があったとはいえ気付かれていません。とりあえず中島砦から山際までの移動は今川軍に余裕で監視されていたとするのが妥当です。この時に通説の様に桶狭間道(後の江戸期東海道)を進んだはどうしても無理があります。この方面は午の刻に佐々・千秋が突撃したばかりで、いかに雷雨とはいえ2000以上はいたとされる織田軍が行軍しているのに気が付かないのは余りに不自然というところです。また桶狭間道方面はおそらく今川軍からすれば鳴海城付城群への進軍ルートになると考えられ、桶狭間の今川陣地の大手門的な位置づけになるとも思われます。

桶狭間道を通るというのは、城に例えれば大手門を通り抜け、三の丸、二の丸を気付かれずに通り抜け本丸御殿にいきなり攻撃を行うようなもので、佐々・千秋の惨敗を見た可能性が高い信長がそのルートを通るとは考え難いってところです。もう一つ、中島砦から扇川沿いに東に進むルートも地図上は考えられます。このルートを使えば今川陣地の側面を通り抜けて義元本陣に近づくことは可能そうに見えます。ただし中島砦は今川軍から丸見えなわけです。雷雨は山際から降りだしたわけで、今川軍からは山際までの織田軍は丸見えになります。

そこから雷雨があったとしても、小勢とはいえ織田軍主力部隊が今川軍の側面に回り込もうとすれば監視は厳重になるとするのが自然です。どうも今川軍は5/19ではなく5/20を鳴海城付城群の掃討予定にしていたんじゃないかと考えていますが、寡勢の織田軍が戦いを挑むとなれば奇襲が一番警戒されるのは戦術の常識で、夜襲もありますが雷雨などの天候を利用するのもこれまた常識と思われるからです。私はこの2つのルートを否定的に考えます。信長公記かわかる事は中島砦から山際への移動は平穏に行われています。もう一つは山際からさらなる移動で織田軍は今川軍の視界から消えたとするのが妥当と思われます。これは雷雨のためもありますが、それだけではないと考えます。つまりは信長は今川軍襲撃のために迂回ルートを選択した考えます。前回もあげた鎌倉往還ルートです。


鎌倉往還

沓掛から熱田に至る鎌倉往還はおそらく古代東海道に由来するもので良さそうです。なぜにこんなところだったのかを解くカギとして古鳴海の地名があります。鳴海の地名の謂れは海鳴りに由来し、アイヌ語の「ナルミナ」にも関連するとなっています。平たくいえば海岸に近い場所であったぐらいで良いでしょう。鎌倉往還は沓掛から古鳴海に進みますから、古代では古鳴海まで海が入り込んでいたぐらいでしょうか。古鳴海はそれなりに高地ですから、鳴海城の北側の丘陵地帯に波が打ち寄せる感じで、その海鳴りが聞こえたの(古)鳴海と呼ばれたぐらいを考えます。それが天白川や扇川による沖積作用で桶狭間の頃は鳴海城のあたりまで陸地化され、元の鳴海は古鳴海になり、新たに鳴海の地名が生まれたぐらいです。

熱田から古鳴海への道もそうで桶狭間の頃は上中下の3つの道がありますが、もともとは上つ道が古代東海道であったと思っています。これが南の方に陸地が広がったため、少しでも近い中つ道、下つ道と出来たぐらいです。その方が少しでも近いですからね。

さてなんですが、沓掛から道として本当に目指したいのは古鳴海でなく熱田であったはずです。熱田への近道は下つ道を通る事であり、下つ道への距離を縮めるためには古鳴海を通るより、鳴海を通った方が有利です。沓掛から鳴海を目指すのであれば桶狭間道が距離的に有利になります。これは江戸期には桶狭間道が東海道になることでそうなりましたが、桶狭間合戦時でもある程度はそういうシフトが起こっていた可能性はあります。

ちなみに鎌倉往還は江戸期には完全に寂れてしまい、現在ではどこが正しいルートだったかわからなくなっている個所も少なくないそうです。私も明治期の地図とニラメッコしましたが、沓掛から二村山、濁池、小坂あたりまではなんとかたどれますが、そこから先は道すら判然としなくなります。これはなごみどう様が推測された鎌倉往還です。

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これも正解というわけでなく

鎌倉街道は諸説あり、時期によりコースが変更になったのではないかという文献が多くあります。緑区内でも新海池の東西で分かれています。また諏訪社までのルートも断定されていません。ここでは古い航空写真などと現在の地図を比較し独自の考察によるルートを掲載しています。

それでも「だいたい」この辺ぐらいは見当がつきます。


信長の迂回ルート

信長が迂回ルートを取った理由は、中島砦からではどう動いても今川軍の監視下になってしまい、織田軍の動きに対応されると兵力差が話にならないぐらいでしょうか。そういう状況で攻撃をかけるには一度、今川軍の視界から織田軍が消える必要があると判断したと思っています。同時にその動きで今川軍の油断も招き寄せたいぐらいでしょうか。そう考えると中島砦からの織田軍の動きは退却を窺わせるものである必要があります。すなわち、

    中島砦 → 善照寺砦 → 丹下砦
こういう動きです。寡勢の織田軍が鳴海での決戦をあきらめて退却すること自体は戦術的におかしくなく、信長にすれば義元がそう信じ込んでくれと願ったかもしれません。丹下砦から少し北上すれば鎌倉往還に出ることが可能で、そこから東に進んだと考えています。ちょうどこの頃から雷雨になっていますから、鎌倉往還を進む織田軍を桶狭間丘陵の今川軍は気付かなかったのだと思っています。鳴海城の北側の丘陵地帯を抜けると明治期の地図で小坂のあたりに出ることになります。この辺を地図で示してみると、

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このルートを信長が本当に進んだとする数少ない傍証を見つけました。鳴海・有松・大高地名ガイドなんですが、記録の信頼性として

この資料は名古屋市緑区にある鳴海中学で社会科をお教て頂いていた、山村幸雄先生により集められた資料より、掲載させていただきました。

山村幸雄先生は遺憾ながら存じませんが、郷土史家ぐらいに思っています。で、地名集の中に

上旭出(かみあさひで) 信長が桶狭間に向かう時に鳴海の北の山を迂回したとする考えに基づく伝承の地。旭出(朝日出)を上中下に分割。

これがどういう根拠で出てきたかを確認する術がありませんが、鎌倉往還は旭出を通っているとして良いようです。旭出関連はもう一つ傍証がありまして、新海池の近く(旭出の地名付近)に豊藤稲荷神社てのがあります。そこを訪問されたあらいのじかん〜神社と朱印、ときどき猫と自転車〜からですが、

成海神社の東、諏訪社の北西の朝日山に鎮座。創建は江戸時代だが、豊藤大明神の奉斎は和銅年間(708年〜)までさかのぼるという。朝日山は桶狭間の合戦で織田信長が三千の兵を集結した場所だという。

どうも旭出の地名は朝日山から来ているようですが、ここには桶狭間の合戦の時に兵を一旦集結させた伝承があるようです。この程度ですが鎌倉往還ルートを信長が通った口碑は残っているぐらいです。


ここから先がわからない

信長公記では清州から中島砦まではかなり詳細に記述されているのですが、中島砦から後は曖昧模糊です。辛うじて地名らしきものを拾い上げれば、

沓掛の到下の松の本に、二かい三ゐの楠の木、雨に東へ降り倒る。余の事に。熱田大明神の神軍がと申し候なり。

地名としては

    沓掛の到下の松の本
これになるんでしょうが、前半の「沓掛の到」は沓掛に向かう道ぐらいしか解釈が思いつきません。強引に読めば沓掛に近いと解釈できないこともありませんが、そこまではどうかです。後半の「下の松の本」ですが、これが地名なのか、当時の鎌倉往還の目印的な松だったのかも不明です。取りようによっては「下の松本」(対偶として「上の松本」がある)と読めないこともありませんが、下松も松本も現在の地名から発見できませんでした。でもって最終段階の信長の進路ですが地形的には
  1. 小坂からそのまま鎌倉往還を沓掛方面にさらに進み、途中から杣道を利用して今川軍の後方から丘伝いに襲撃
  2. 小坂から直接桶狭間丘陵を目指し、今川陣地の側面を襲撃
この最終段階で梁田政綱の情報が有効であったので厚く賞されたと考えています。個人的には1.の可能性が捨てがたいところで、今川陣地の後方からの攻撃の信長の本当の意図は、今川後衛陣地を踏みにじり、そのまま突き抜けて善照寺砦に帰還するぐらいの計算じゃなかったかと思っています。そうやって局所でも勝利を挙げておけば退却するにしても面子と求心力が保たれます。

桶狭間の奇跡は信長が迂回の末に突撃したところが義元本陣であったことに尽きそうな気がします。あれだけ脆く義元本陣が崩れたのは、見失っていた織田軍の発見が雷雨のために遅れ、結果的に不意打ち状態になったぐらいでしょうか。つうか、布陣からしていきなり本陣に攻撃をかけられると思ってもいなかったぐらいの油断があったのかもしれません。どうしても最終段階が詰め切れないのは歴史ロマンですねぇ。