第2部桶狭間編:アイリッシュ・コーヒーで今川軍の進路を考える

彼女が選んだのはアイリッシュ・コーヒー。この由来も興味深くて一九三七年にパン・アメリカン航空飛行艇によるイギリス・アメリカ間の大西洋横断航路を創設します。当時の航空機の航続距離は短く、一気にロンドンからニューヨークに飛べないので、アイルランドのフォインズとカナダのノバスコシアに寄港する必要がありました。当時の旅客機は機密構造ではまだなかったので暖房の効きが良くなく、また寄港地で航空機から降りる時にも飛行艇であるために、船で乗り降りする必要がありました。冬場ともなると燃料補給待ちの間にパブで一杯と思っても、たどり着くまでに冷え切ってしまう事もしばしばあったそうです。

飛行場のパブのバーテンダーであるジョーシェリダンは寒い思いをしている乗客に温まってもらおうと、コーヒーにアイリッシュウイスキーしてステアし生クリームをフロートさせたカクテルを作ったのがこれです。なにか彼女もそんな気遣いをしてくれる人のような気がして温かい気持ちになりました。

    「コトリちゃんってやはり天使やねぇ」
今日はちょっと角度を変えてみたい気持ちです。
    「天使なんてやめてよ。私はタダのコトリであって人間よ」
    「でもこの世のものとは思えへんねん」
    「またぁ、いくら褒めてもなんにも出えへんよ」
この程度は話す事はあるのですが、どうにもここから甘い話にもっていくテクニックがないのが恨めしいところです。この世の男性諸氏はどうやってるのかアンケートを取りたいぐらいです。やむなく現実逃避の歴史談義になだれ込みです。
    「・・・義元は沓掛城に五月一七日に入ってるけど、そこからどう進んだかに謎が多いんだ」
    「私もそう思ってるねん。だって緒戦の勝利に酔って祝杯を挙げているところを不意打ちされたなんてバカ殿そのままやん。だいたい信長公記にそんなこと書いてあらへん」
桶狭間の合戦の一級資料として挙げられるのは太田牛一信長公記です。太田牛一は信長の臣下であり、桶狭間にも実際に参加し、その時の見聞をもとに信長公記が書かれたと見て良いからです。一方で人口に広く膾炙したのは小瀬甫庵信長記です。甫庵の信長記も牛一の信長公記を下敷きにしていますが、甫庵は事実の正確性より読み物としての面白さを優先したため甫庵による脚色・創作部がかなり多いとされます。そういう欠点の多い甫庵の信長記ですが、面白さでは信長公記を上回ったために江戸期では広く読まれただけでなく、これが事実であるとの認識が広まってしまいした。ですから桶狭間の真実に少しでも近づきたいのなら信長公記をまず読むのが第一歩というかすべてに近くなります。

ただ桶狭間の合戦が収められている首巻は信長公記の中でも最も後に書かれたものと推測され、そのためか年代も良くわからないところがあります。おそらく太田牛一が晩年に書き足したものだろうとされていますから、その点での記憶違いはあるかもしれません。完璧な資料とは言い切れませんが、それでも甫庵信長記やその他の資料に較べると格段に真相が書かれているとはして良いと思います。そんな信長公記ですが今川軍の動きについては、はっきりとは書かれていません。当たり前といえば当たり前ですが、太田牛一は織田軍におり今川軍に関しては織田軍から見えたものにある程度限られます。

    「五月一七日に義元が沓掛城に入ったのは事実して良いと思う」
    「当時の街道からすれば順路やし、宿営するなら城が良いもんね」
    「この沓掛城からの今川軍の戦略やけど当面二つあったと見て良いと思うんだ」
    「大高城の救援と、鳴海城を織田軍の包囲から解放する事ね」
    「そのために松平元康・朝比奈泰朝の別動隊がまず大高城に向かった。そうなれば義元本隊は鳴海城に向かうと考えるしかないと思う。今川は大軍だから小細工は不要やから、義元本隊は五月一九日朝に沓掛城を出陣して鳴海城方面に向かったで良いと思う」
    「それしかないもんね」
義元の戦略はシンプルであった気がします。大高城と鳴海城の付城群を排除して熱田方面に進出するで良いと考えています。戦術的には鳴海城の付城群を排除すれば自然に大高城の付城群も撤退しそうなものですが、わざわざ大高城別動隊を派遣したのは、それだけ大高城の兵糧事情が逼迫していたぐらいに理解しています。
    「ここで沓掛城から鳴海城に向かう道が問題になるんや」
沓掛城から鳴海城に向かう道は二本です。まず義元が沓掛城まで通ってきた鎌倉往還は、沓掛から標高七〇メートルほどの二村山を越え、扇川に一旦下った後に、ふたたび相原あたりから標高五〇メートル程度の丘を越えて古鳴海に向かいます。古鳴海の地名の由来はここが古代には海に近いところであった事にちなみますが、これが桶狭間の頃には現在の鳴海付近も陸地化します。ここで現在の鳴海付近が陸地化すると、沓掛から鎌倉往還を通るより、江戸期の東海道(現在の国道1号線)を通る方が道が平坦で歩きやすいことになり、桶狭間の頃にも江戸期の東海道の方に交通がシフトしています。

この道は丘陵地帯を手越川が流れる谷間で、太田牛一は鳴海に至るこの道地域全体を桶狭間と呼んだ気配があります。ここではこれを桶狭間道と呼んでおきます。軍勢の移動は時に道なき道を踏破することもありますが、基本は街道に沿っての移動になります。とくに大軍の時はそうなります。また義元は輿によって移動していたので出来るだけ街道に沿って移動していたと考えて良いと思われます。つまり義元が沓掛城から鳴海方面に向かうとしたら到着地は桶狭間になるのはわかっていますから沓掛城からの義元本隊は具体的には

  • 鎌倉往還で相原方面に出て桶狭間丘陵を北側から登る
  • 桶狭間道を進み途中から丘陵に登る
このどちらかないし、大軍ですから両方に分割して進むかが考えられます。
    「義元は大軍やから両方に分かれて進んだの?」
    「たぶん鎌倉往還には進まなかったと見ているんや」
    「理由は」
鎌倉往還は江戸期の東海道桶狭間道になってから寂れ果てて、江戸末期にはどこが鎌倉往還であったかさえ分からなくなったとされています。桶狭間の頃にどうであったかは不明なのですが、かなり荒れていたんじゃないかと見ています。理由としては織田・今川の城砦群が沓掛から古鳴海に至る鎌倉往還に存在しない事が挙げられます。これは城郭放浪記というサイトにあるものですが、

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    「・・・鳴海から熱田にはビッシリって感じで城砦があるけど、沓掛から古鳴海にはないねぇ。でもそれをいうたら桶狭間道も城砦はないやん」
    「そうなんやけど、鎌倉往還を軍勢が自由に通行出来たら信長は鳴海城や大高城に付城作るやろか」
    「そういう意味か。信長は鎌倉往還を通って今川軍が背後に回らないのを前提に付城群を作ったって見方ね」
    「そうやねん。決戦の日にも善照寺砦に急行するけど、鎌倉往還が使えるやったら袋の鼠になってまうし」
    「つまりって程ではないけど、信長も義元も沓掛から古鳴海の鎌倉往還は使えない前提で戦略を立てていたと思うねん」
    「ほんじゃ、義元は五月一九日に沓掛城から桶狭間道を通って鳴海城方面に進んだと考えて良いんやね」
    「もし今川軍が鎌倉往還を進む懸念があれば、信長は熱田から善照寺砦に向かったりせえへんと思うねん」
    「なるほど」
    「その前に鳴海城周辺の当時の地形も考えておく必要があるんや」
地形のヒントは信長公記にあります。まず

鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり

これは鳴海城の描写ですが、黒末川とは扇川のことです。でもって城の南側は干潟になっており満潮時には城の側まで海が押し寄せていたとしています。

十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由

これは五月一九日の朝、つまり決戦の日の潮の干満を表していますが、鳴海城の南側に大高城の付城である鷲津・丸根砦があるのですが、五月一九日の朝には満潮になり通れなくなるとしています。 

浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ

これは熱田から善照寺砦に向かう織田軍の描写ですが、満潮のために『かみ道』を進んだとしています。これらをまとめると

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熱田は安濃津もしくは江戸期では桑名への渡船場で海に面していました。この熱田から見て笠寺は半島になっています。そのためもともとの鎌倉往還は古鳴海から島田に回る『上の道』でした。笠寺半島の東側の海には天白川が流れ込んでおり、沖積作用によって浅くなり、桶狭間の時には干潮時には笠寺経由で古鳴海に向かう『中の道』、さらには古鳴海もショーっとカットして南から鳴海に向かう『下の道』も成立しています。信長は満潮だったので『上の道』を通って鳴海に向かっています。

それと満潮時には大高方面と鳴海方面の交通が遮断されると信長公記に明記されているのもポイントです。今川軍の大高城別動隊は満潮を利用した可能性があるからです。別動隊は徹宵行軍で兵糧を運び込んだ上で、引き続き鷲津・丸根砦に猛攻をかけて陥落させていますが、五月一九日朝の時点で満潮で鳴海方面との交通が遮断されるため、

  • 鳴海方面からの織田軍の援軍は無い
  • 両砦陥落後にも織田軍の来襲はなく安心して休養できる
当たり前ですが兵に休養は必須です。その休養中に襲われると不覚を喫する危険があるのですが、満潮がそれを守ってくれる計算だった気がしています。佐々隼人正・千秋四郎が五月一八日に氷上山砦、正光寺砦を撤収して中島砦近くに布陣していたようですが、佐々・千秋だけではなく善照寺砦の佐久間信盛もまったく動いた形跡がありません。また鷲津・丸根砦からも兵力差があったにしろ、落ち延びてきた話もありません。これは退路が断たれた状態での玉砕戦を余儀なくされたと見て良い気がします。
    「あれだけの記述から、こんだけわかるんだ」
    太田牛一が具体的に書き残してくれたおかげだよ」
    「そうだよねぇ」
    「でもって義元は沓掛城から少し南に下って桶狭間道を鳴海に向かって進んだ事になるのやけど、谷間を挟んで南北に丘陵地帯があることになるんや。問題は義元が布陣した『おけはざま山』がどっちだったかってところやねん」 「それって南側ちゃうん」
    「通説ではそうなんだけど、ボクは北側やと考えてるんや」
今夜はこの辺でお開き。駅まで小雨が降っていたのですが、傘が一本。自然と相合傘になるのですが、腰に手を回してしまいました。腰に手を回したのは初めてですが、コトリちゃんは嫌がりもせずむしろ体を寄せてくれました。自然に抱き寄せる感じになるのですが、駅までの距離が短いのがホントに残念でした。そっか、ここまではコトリちゃんはOKしてくれていると思って良さそうです。また雨降ってくれたら嬉しいな。