桶狭間の合戦と街道

清州から熱田

鎌倉往還(鎌倉街道)は400年間ぐらい使われており、名古屋市内でも河川の氾濫でしばしばルートが変わったとされています。また江戸期の東海道が成立してから衰弱し消えてしまった部分があり、そのルートについては、場所によっては複数ルートがあったようだとか、季節でルートが変わっていたなんて説も有力とされていました。諸説はあってもおおまかなところは特定されており、今欲しいのはその程度の精度で良いので、あれこれ調べた結果まずは清州から熱田までです。

20160812084237

理由は良くわかりませんが、名古屋の鎌倉往還の起点は萱津とするものが多いようです。とは言うものの鎌倉往還は少なくとも京都まで延々と続いているわけで、名古屋市内の調査の起点ぐらいに理解しておきます。萱津と清州の間に鎌倉往還が走っていたかどうかは遺憾ながら確認できませんでしたが、清州から萱津への道路はあったはずで、信長も鷲津・丸根砦が攻められたの報を聞いて夜明け前に出陣し、熱田まで駈けた道も鎌倉往還であったとして良いでしょう。清州から熱田までは信長公記では3里と記されています。時刻関係は清州出陣が夜明け前となっていますから卯の上刻ぐらいで、熱田で鷲津・丸根砦と思われる黒煙を確認したのが辰の刻となっています。


熱田から鳴海

まずは地図をみてもらいます。

20160812084238

赤線が鎌倉往還の本道と考えていますが、熱田から井戸田に進み中根に進むのは自然です。そこからが興味深いのですが、島田に回ってから古鳴海に進んでいます。どうにも不自然というか遠回りの感じがするのですが、ヒントはやはり当時の地形になります。笠寺あたりを見て頂くと丘になっているのがわかると思いますが、かつては松巨島と呼ばれていたそうです。つまり島田辺りまで海が入り込んでおり、鎌倉往還も海を避けるように走っていたと理解したら良さそうです。

桶狭間当時はどうだったかですが、井戸田から南側に進める道を点線で示しています。これが上から中の道、下の道(鎌倉往還が上の道)なります。信長公記で熱田から善照寺砦への移動が満潮のため浜手(中の道、下の道)が通れなかったとなっています。入海の影響は古鳴海にも見て取れます。

20160812103010

古鳴海の北側に隣接して野並がありますが、かつてはこの間も湾入していたとなっています。だから2つの集落として成立したぐらいです。桶狭間当時でも満潮時には分かれていたぐらいは想像されます。


下の道も注目したいのですが、上の道・中の道が古鳴海を目指してるのに対して下の道は古鳴海もパスしているように思われます。この辺は各種推測図でもブレがありますが、地形的にも妥当です。これが何を意味するかですが、交通路が熱田−古鳴海から熱田−鳴海にシフトしつつあったからじゃないかと思います。元々の鎌倉往還が古鳴海経由で熱田を目指したのは、それこそ島田まで迂回する必要があったからで、陸地化が進めばショートカットする道の利用が出来るのは自然なところです。

この鳴海経由なんですが、鳴海から沓掛にどう結ばれていたんだろうかです。明治期の地図を見たら鳴海から相原郷に進み鎌倉往還に入るのが順当そうに思えますが、実はそうでなかった気がします。信長公記に鳴海城の南側には黒末入海が広がっていたとなっています。この海は満潮時には大高方面との交通を遮断するともなっています。この黒末入海ですが、相原郷方向にもかなり入り込んでいたんじゃないかと考えています。つうか鎌倉往還成立時には鳴海はまだ海の中で、相原郷近くまで海岸線が迫っていたのかもしれません。信長公記

中島へ御移り候がんと候つるを、脇は深困の深入り、一騎打ちの道なり

これは善照寺砦から中島砦までの道の状況の描写と思われますが、善照寺砦の東側は軍勢の展開が難しい地形であったことを示唆している気がします。つうのも善照寺砦の東側に軍勢が展開しやすいのなら、沓掛城から鎌倉往還を通り相原郷に今川軍が進出すればアッサリ包囲されます。また軍勢を展開しやすかったら織田軍は小勢ですから、正面からでは勝負になりません。そんな状況で信長が清州から善照寺砦まで進出してくるかはチト疑問ってところです。当時の地形なんて推測する以外にないのですが、今川軍が桶狭間丘陵に展開し、信長が善照寺砦に進出している点から、今川軍の進攻路は桶狭間道であるのは両軍の常識で、相原郷方面からは攻め込まれない状態であったと考えています。鳴海城の東側の描写として

東へ谷合打ち続き

これがどんな状況を示しているのか現代地図をいくら見ても想像すらできないのですが、そちら方面での合戦はありえないぐらいであったとしか言いようがありません。


桶狭間道と鎌倉往還

江戸期には沓掛から熱田のルートは、

    沓掛 → 桶狭間道 → 鳴海 → 下の道
こうなったと考えています。桶狭間期には中の道、下の道は潮に左右されているのは信長公記に明記されていますが、それでも交通は鎌倉往還から桶狭間道にかなりシフトしていたと考えています。鳴海城の存在の関係もありますが、信長の付城は丹下・善照寺・中島砦。鳴海城の付城としては良いかもしれませんが、沓掛から鎌倉往還を通って古鳴海方面に今川軍が進出する可能性についてはあんまり配慮していない気がします。むしろ警戒しているのは桶狭間道方面に見え、さらに桶狭間合戦でも今川軍は桶狭間道から鳴海に押し寄せていると解釈して良いと思われます。

この桶狭間道ですが

おけはざまと云う所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云う事限りなし。

あんまり宜しそうにありませんが、これは軍勢を左右に展開するには不適というだけで、人が歩くだけの分には支障は少ない気がしないでもありません。そうであれば義元も沓掛から鳴海方面への進出に際して利用した可能性は十分にあります。ここで鎌倉往還を通って古鳴海に進出し、鳴海城方面の織田軍付城群を孤立させる戦術もありそうですが、義元の戦略はまず鳴海方面を制圧し、次のステップで熱田方面に展開するのを選んでいます。ほんじゃ今川軍が鎌倉往還を使わなかったかといえば使ったと思います。今川は大軍です。当時の道は細く、少なくとも1万を超える人数を移動させるには複数の道を使う方が効率的です。想像しているのは沓掛から二村山方面に登り、そこから扇川に至るまでのどこかから桶狭間丘陵に布陣したんじゃなかろうかです。そういうルートがないと実は信長の襲撃も成立しない面もあるからです。たぶんに過ぎませんが5/19朝は沓掛城から

  1. 前衛軍が桶狭間道を進み善照寺砦、中島砦を見下ろす地点に進出して布陣
  2. 義元本隊は鎌倉往還から桶狭間丘陵に進み、前衛軍陣地の後方に布陣
今川軍が想定していた織田軍の反撃は桶狭間道方面からの織田軍の強襲(実際に佐々・千秋の突撃が発生)であり、また5/20の予定は桶狭間道から前衛軍を繰り出し、中島砦、善照寺砦、丹下砦と排除する予定であったと思っています。この義元の戦略なんですが、陸上だけではなく海上も手配りしていたことが窺えます。

河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元への手合わせとして、武者船千艘計り、海上は蛛の子をちらす如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども、別の働きなく、乗り返し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅のところより下り立て、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、町人どもよせ付けて、棍と懸け出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り候ひき。

文脈から5/19にあったとも読み取れますから、鳴海方面制圧から熱田進出のために海陸両方からの攻撃プランを立てていたように思われます。


沓掛峠と山際

「沓掛到下 = 沓掛峠」であるのは前回に論証しましたが、ここからの特定は難物です。ここでなんですが、信長公記になにかヒントがないかと考えています。太田牛一は信長の足取りを地名付きでかなり詳細に記しています。たとえば清州から熱田は、

是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源太夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候。

太夫殿宮は熱田神宮の南側にあり、これは辰の刻に熱田から出発する時に、丸根・鷲津陥落を示す煙が見えたぐらいに解釈しています。それと清州から熱田は詳しく書かなくとも鎌倉往還しか道がないので特定可能です。熱田からは、

浜手より御出で候へば、程近く候へども、塩満ちさし入り、御馬通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取手へ御出で候て、夫より善照寺、佐久間居陣の取手へ御出であって、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ。

熱田から鳴海方面に向かうのに浜手(下の道)を使えば近いが、満潮のため使えず、そのため上の道を急いで丹下砦を経由して善照寺砦に向かったと書かれています。熱田からは3本の道がありますが、上の道を通ったことが理由付きでわかる次第です。善照寺砦から中島砦までの移動も地形や今川軍の配置も含めてかなり詳細かつ具体的に記述されています。



そうなると中島砦から今川本陣襲撃もやはり作者の太田牛一にしたら同様の具体的な記述をしていたと考える事は出来るんじゃなかろうかです。太田牛一にしてみれば、わかるように書いたはずだったのが、現代人も含む後世の人間にはサッパリわからなくなっているぐらいです。あれこれ考えなおしたのですが、太田牛一は山際と峠は違う部分を指して書いているとまず考えます。

  • 山際とは平坦地で、片方が山で片方が開けた道のこと
  • 峠とは峠越えの山道全体
こう考えると山際は案外少なくて、私の見るところ、
  1. 丹下砦から古鳴海に向かう道
  2. 相原郷から八つ松に向かう扇川沿いの道
あとは峠道になります。ではどっちが信長公記の山際かですがヒントは

敵の輔に打ち付くる、身方は後の方に降りかかる

山際から雨になりますが、風向きは

二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降り倒る

楠が東に倒れるのですから西風であったみたいです。西風を織田軍が後ろから受けるためには、東に向かって進んでいる必要があります。丹下砦から古鳴海は北に向かって進むことになるのに対して、相原郷からは東に進むので「身方は後の方に降りかかる」が適切なのは相原郷になります。では「敵の輔に打ち付くる」ですが、今川軍は

戌亥に向かって人数を備え

北西方向に向かって陣取していますから、今川軍の正面に向かって風が吹き付けたと解釈可能ぐらいです。信長公記からは相原郷付近が山際であったと読み取れそうな気がします。

沓掛峠のエピソードは山際のエピソードに引き続いて書かれています。近いから時間関係も近いとは必ずしも言えませんが、逆に言うと近くても構わないになります。相原郷から扇川を渡河して八つ松に入れば坂道になります。峠とは頂上部も峠と言いますが、峠に続く坂道もまた峠に含まれます。この推測が正しければ扇川から二村山を越える道こそが沓掛峠になります。地形的にも二村山を越えれば沓掛に至るわけですから、ネーミングとして無理はありません。


最後に残る謎は松

もう1回沓掛峠のエピソードを引用しますが、

沓掛の到下の松の本に、二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降り倒る。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し候なり。

状況としては松の木の根元近くに大きな楠が倒れている状態ぐらいでしょうか。いや、単に倒れているだけなら「熱田大明神の神軍がと申し候なり」の表現は大げさな気がしますから、倒れる瞬間を目の当たりにしたと考えています。ここで問題は太田牛一は倒れた楠に注目したのか、松に注目したのかです。チトこじつけではありますが、大きな楠だけが倒れたのならわざわざ松の話を描写しない気がします。目印になるような松に楠が倒れた点を重視した気がします。

ここで楠も巨木でしたが、松もまた誰もが知っている由緒ある松であり、そんな由緒ある有名な松に大きな楠が倒れたので熱田大明神の神軍てな気持ちになったと取りたいところです。つまりは太田牛一はエピソードと同時に場所を指し示す意図があったんではなかろうかです。これも強引ですが付け加えると、この楠のエピソードは義元本陣襲撃にかなり近い時間帯に発生したので非常に印象的なエピソードとして桶狭間に従軍した織田軍将士の記憶に残る出来事であったのかもしれません。

ほんじゃどの松かは遺憾ながら不明です。八つ松は八本松があったことが地名の由来となっており、さらにその八本松に含まれるかどうかは不明ですが義経鎧掛松もあったそうです。そのあたりが怪しいと思っていますが、これ以上はムックできませんでした。


太田牛一の常識

信長公記は清州から中島砦までの行軍記録が詳細なのに対して、中島砦から義元本陣襲撃までの記述が曖昧です。理由はわかりませんが、強いて考えれば中島砦からの進路は書くまでもない常識であったと太田牛一は判断した気がしてきました。桶狭間合戦織田家家臣にとって一大エピソードですから、繰り返し、繰り返し、その時の話が行われた思います。たとえば清州から熱田までどの道を通ったかは書かれてはいませんが、これは書かなくとも鎌倉往還以外にありえないです。一方で上の道を書き記したのは、熱田から鳴海まで3本の道があったからだと見れるからです。

その延長線上で中島砦から義元本陣までの道も書くまでもなく鎌倉往還であり、書く必要を認めなかったぐらいです。中島砦から義元本陣襲撃までで書き残す必要があると判断したのは2つで、

  1. 雷雨があった事
  2. 大きな楠が倒れた事
ついでにいえば襲撃した義元本陣がどこにあったかも常識だったのから書かなかったぐらいでしょうか。お蔭で後世の人間がこうやって迷走するのが歴史の楽しみの気がしています。