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「カランカラン」
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「はぁい、今日はゴメンネ」
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「今日は黒板のお勧めのDumpieにしたい」
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「今日はどうしたん」
「お友達と晩御飯食べに行っててんけど、前から考えていることがまとまってきて、どうしても今日話がしたくなったの」
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「・・・中島砦から信長は運命の出撃をするんやけど、この時に桶狭間の合戦を象徴する天候の変化が起こるよね」
「激しい雷雨やね」
「信長公記には、
山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。
これがどういう状況になるかやけど、今川軍は戌亥、つまり北西に向かって陣を構えてるから風は北西風ないし西風と見て良いと思うの」
「そうなるよね、大雑把に西風でもエエやろな」
「織田軍には後ろから風が吹いてると、織田軍は東南ないし東側を向いていることになるよね」
「当然そうなるはずや」
「ここでポイントなのは織田軍が山際に来た時に雷雨になってる」
「そう書いてあるけど、山際がどこかわからへんやん」
「それが書いてないから、みんな解釈に苦労するんやけど、私はちょっと大胆な仮説を立ててみてん」
「どんなん、どんなん」
「信長は中島砦から退却したんじゃないかと思ってるの」
「ええっ!」
桶狭間道は佐々・千秋が突撃して敗北して使えませんから、扇川流域を東に進んでいたのだろうぐらいまでは推測できます。扇川流域は桶狭間丘陵と古鳴海丘陵に挟まれた谷になっていますから、南北のどちらかの丘よりのところが山際だろうの見方です。問題は雷雨が始まったのが山際に着いてからとなっているところです。つまりは中島砦から山際まではまだ雨が降っていなかった事になり、その動きは今川軍に見られている事になります。その状態で雷雨のためだけで今川軍が織田軍を見逃し、義元本陣までの侵入を許してしまったと説明するのはちょっと苦しいところです。
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「退却じゃなくて中入りのための迂回戦術やけど、古鳴海方面まで後退させたんやないかと考えてるの」
「でも退却中に追撃されたら」
「リスクは高いけど中島砦に移動しても攻撃されなかったから、今川軍は五月一九日には動かない方に賭けたんやと思うの」
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「でもさぁ、義元に決戦の意志がないと読んだんやったら、べつに中島砦に移動せんでも良かったんじゃないん」
「信長の中島砦への移動は佐々・千秋隊の敗北の後に行われてるの。善照寺砦の時点で中入り戦術を選択していたと考えたらどう」
「だから、それやったら善照寺砦から古鳴海に直接動いてもエエんちゃうん」
「理由は二つ考えられるの。一つは自分の読みに不安があったから。これは前に山本君が言ってたね」
「ほんじゃ、もう一つは?」
「前に山本君が否定した義元への牽制。意味ありげな軍勢移動で『信長に策あり』と思わせて、義元の決戦の意志をさらに少なくさせる作戦」
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「でもその策に義元が乗ったら意味ないやん」
- 信長は佐々・千秋の敗北でも今川軍が動かなかったから五月一九日の決戦の意志はない方に賭けた
- さらに決戦を牽制するために意味ありげな軍勢移動を行った
「その時はオシマイ。中島砦なり、善照寺砦で合戦が始まってしまったら信長に逃げ場はないよ」
「ちょっとまとめると、
こんな感じかな」
「リスクを冒したくない義元は五月二〇日になれば少々の策が信長にあっても確実に押し潰せると判断して、結果として決戦は見送ったぐらいよ」
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「でもさあ、せっかく信長が目の前に来ているのに、これを見逃すのはどうなん」
「それは惜しいと思うかもしれへんけど、鳴海城を確保し熱田方面まで進出してしまえば、今川軍に負ける要素がいよいよ無くなるぐらいの判断じゃない。これも前に山本君が言ってたやん、義元は絶対に勝てる戦術を優先しすぎるって。これが綾となって出たんじゃない」
「そうかもしれへんな。義元は軍勢では圧倒的に優勢やけど、桶狭間の地形は大軍のメリットを発揮するにはイマイチやもんな。桶狭間で無理して決戦するより、信長を取り逃がしても熱田進出の方が安全確実ぐらいの判断かもしれへん」
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「後出しジャンケンみたいなものやけど、信長が善照寺砦なり、中島砦にいる間に攻撃を加えていたら信長は清州に逃げ帰るしかなかったと思うの」
「ボクもそう思てる。中島砦周辺の地形は信長公記に
脇は深困の足入り、一騎打ちの道なり
こうはなってるけど、それこそ今川軍が数で押しまくればいずれ包囲されるやろし、包囲されたら織田軍は終りや。そうなれば鳴海城の岡部元信も打って出る可能性もある気がする。織田家の重臣連中の懸念もそうだったと考えるのが自然や」
「そうそう、鳴海城にも今川軍がいるもんね」
「少々リスクというか犠牲を払うかもしれへんけど、事実として織田軍は鳴海方面にしかいないわけで、同盟国の援軍があるとか、他に有力な援軍が到着予定って訳じゃないから、今川軍に強引にでも決戦に持ち込まれたらお手上げやもんなぁ。でもさぁ、もし地形を活かして織田軍がとりあえずでも撃退したら?」
「それでも状況は信長に悪くなるよ。撃退と言っても今川軍の損害はたかがしれてると思うの」
「言われてみればそうやな。地形が大軍に適していないのは小勢の織田軍には守る上では有利かもしれないけど、義元が駿河に逃げ帰るほどの大損害を与えるのは無理やろな」
「そうなの。それと今川軍のこの時の戦略は中島砦を落とすことやから、撃退されても桶狭間道を中島砦により近いところに陣を進めてくると思うの」
「城攻めやもんね」
「そうなれば信長は中島砦から動きにくくなるでしょ」
「そっか、佐々・千秋の時はまだ今川軍との距離があったと見れるもんね」
「そんでもって信長にとって致命的なのは五月一九日の残り時間がドンドン減っていくの」
「そっかそっか、もう午の刻越えてるんだから、そこで中島砦の攻防戦をやっちゃえばその日の持ち時間が減るし、合戦やれば体力も消耗するし、五月一九日をしのいでも五月二〇日になれば大高城別動隊も北上してくるんだ」
「そうなのよ、義元は五月一九日に先手を打って攻撃していれば、信長のほんのわずかな勝利の芽を完全に摘み取ってしまっていた気がする」
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「そやけど義元はその選択をしなかったんだ。この時に強引な決戦をしなくても、五月二〇日になれば必勝態勢やし、五月一九日だって織田軍が強襲なり、夜襲、朝駆けをやっても余裕で撃退できると計算したんだろう」
「その計算は必ずしも間違いではなかったと思ってるけど、結果的に義元の運命を決めてしまったぐらいかもしんない」
「やっぱ戦場は水物やねぇ」
ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。
現場目撃者の太田牛一の記述ですから信憑性は高いと判断できます。そうなると信長が決戦に用いた兵力は二千弱と見て良さそうです。一方の今川軍ですが、
御敵今川義元は、四万五千引率し
こうはなっていますが四万五千はいくらなんでもです。ただこの中に兵糧搬送輸送部隊も含んでいると考えると、決戦兵力は一万五千程度であったぐらいに見るのも可能です。ここはもうちょっと少なくて一万程度の方が現実的な気がします。大高城別動隊の数も不明ですが松平元康、朝比奈泰朝がそれぞれ二千程度と考えると義元本隊は六千程度であった可能性もあります。それでも信長の三倍の決戦兵力ですが、一日待てば五倍になるのは魅力的な選択枝だったかもしれません。
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「それでやけど、古鳴海までバックして信長はどうしたんや」
「そこから鎌倉往還を通るの」
「ちょっと待った、ちょっと待った、鎌倉往還は軍勢は通れへん前提やんか」
「そうなんやけど、信長は無理やり通ったの。無理やりだったから道中は大変で、桶狭間従軍者の伝承として山を登ったり、下りたりして大変やったの話が残ったんやないかなぁ」
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「まあ、ええわ。古鳴海から鎌倉往還を通るとどうなるの?」
「まず古鳴海まで織田軍が後退すると今川軍から見えなくなるの。で、古鳴海から丘を越えると相原郷あたりに出るやん」
「そっかそっか、『山際』を古鳴海から丘を越えて相原あたりに出るところと解釈すれば、そこからは東に向かうから雷雨は背中から降ってくる事になるわ、たしかに」
「そういうこと」
「でもちょっと強引な気が・・・」
「この鎌倉往還迂回説にはもう一つ根拠があるの。山際から次に示される地名があって、
沓掛の到下の松の本に、二かい三がゑの楠の木、雨に東へ降り倒るる。余の事に熱田大明神の神軍がと申し候なり。
ここの『沓掛の到下の松の下』って何と解釈する?」
「えっと『沓掛に到る、下の松の下』ぐらいかな」
「私もそんな感じで解釈して困ってたんやけど。これは『到下 = とうげ = 峠』のことで『沓掛の到下』とは沓掛峠のことなの」
「ひぇ、そうなんや。でも沓掛峠ってどこ」
「現在の地名には見つからからへんかった」
「じゃ、不明」
「いや特定できると思うわ。まず沓掛って言葉入っているから、峠を越えると沓掛に至る道やとしてイイはずやん。織田軍の位置からして沓掛方面から登る事はありえへんから」
「たしかに」
「それと沓掛に行ける峠のような道は実質的に1ヶ所しかないの」
「そっか、鎌倉往還の二村山のところやね」
「そういうこと。太田牛一は織田軍が沓掛峠を目指して進んでいたと明記してると思うの」
「なるほど、そう書いておけば鎌倉往還を織田軍が進んだって示せると思ったんやね」
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「今夜は最高よね」
「うん、凄かった」
「そう思てくれる。ちょっとでも早く聞いてほしくて、今日は無理いうてん」
「全然無理じゃなかったよ、すっごく楽しかった」
「こんな話を真剣に聞いてくれて、一緒に楽しめるのは山本君しかおらへんもん」