桶狭間の合戦・知多湾考察と大高城兵糧輸送ルート

昔の海岸線を推測するのは手間のかかる作業で、明治初期ぐらいなら現代水準の測量地図が存在しますが江戸期に入っただけで難物と化します。以前に兵庫津から清盛の築いた大和田の泊の概要を推測するのだけでも物凄い手間がかかりましたし、古代大和王朝期の河内湾、奈良湖も手強かったものです。ですから個人的にはなるべく触りたくない気分が目一杯あるのですが、松平元康の大高城への兵糧輸送ルートを考察するのに知多湾の戦国期の海岸線の推測はどうしても必要と考えざるを得ません。これも難しそうなら頬かむりをしようと思ったのですが、それなりにムックが出来たのでまとめてみます。


キーワードは衣ヶ浦

解明の手懸りとなったのは大府市wikipediaです。

市域の沖積平野の大部分は、江戸時代に行われた衣ヶ浦の干拓によるものである。現在市域は海に面していないが、かつては沖積平野と丘陵部のたもとまで遠浅の海が入りくんでいたと考えられ、大府市が知多地域に分類されるのもこのためである。1959年の伊勢湾台風や2000年の東海豪雨の際には、こうした沖積地の大部分は冠水し、その被害は甚大であった。なお、市内の北崎町内には近崎(ちがさき)という地名が残っているが、これは当時の近崎付近が衣ヶ浦に面した岬であり、辺り一面には茅(ちがや)が生い茂っていたことに由来する。かつて近崎は、亀崎(現半田市内)・鳶ヶ崎(現知多郡南知多町内)と並んで「知多三崎」と称された。

見つけたって感じ(地元の郷土史研究家の皆様ゴメンナサイ)で、大府市辺りまでかつては海であり、この海は江戸期、それも後期から末期に干拓されています。干拓前は衣ヶ浦が広がっており、その状態は桶狭間の時にも同じであった事になります。このwikipedia記事の嬉しいところは衣ヶ浦の北端付近も記述されているところです。近崎は「ちがさき」と読み、謂れは茅が生い茂っていたとなってますから茅ヶ崎とも呼ばれていたのかもしれません。さらにこの近崎は知多三崎の一つに数えられたとなっています。明治期の地図で確認すると、

20160820084549

近崎は素直に東側に突出していた岬であったと見て良さそうで、岬ですから南北は海であったと見るのが自然です。近崎の東側に泉田の地名がありますが、ここも近崎とほぼ同じ標高の10mぐらいです。そこから考えると地図北側の東阿野、栄大脇あたりまで海であったとしても良い気がします。想像ですが近崎と泉田の二つの岬のおくに湾が広がっており、その景観を知多三崎としたのかもしれません。でもって東阿野と栄大脇の間を通る道は江戸期の東海道になります。ここに東海道が敷かれたのは桶狭間を通るためもあったでしょうが、南側に海が迫っていたからとも見ることも可能かと推測します。そこからの想像でもう一つ地図を見て下さい。

20160820085731

泉田から東側にも微高地に挟まれた低地が知立まで続いています。知立延喜式に遡る知立神社の門前町として発展した町で、天正年間には現在地に移っています。つまりは桶狭間期でも陸地であったはずです。ここで知立神社が標高3mぐらいですから、逢海村と記されている南側ぐらいまで海だったと推測しても良さそうな気がします。


緒川と刈谷

まずは刈谷城の江戸期の縄張り図を2つ示します。

縮小した関係で少々見にくいのは御勘弁願いますが、左の図で本丸の上に「入海」と記されています。そう、川ではなく海となっています。右の図では本丸が西に面していたことが確認できます。つまり刈谷城は西側の海を天然の外堀に見立てた縄張りであったことがわかります。そうなると近崎での考察と合わせて、

20160820092930

緒川城と刈谷城の間は海であったのが確認できます。水野氏は緒川水野氏を宗家として、知多半島に勢力を伸ばし大高城も水野氏の版図であったとなっていますが、三河に勢力を広げるには知多湾を渡る必要があった事がわかります。明治期の地図なら地点を選べば渡河できそうな気もしますが、桶狭間期は渡海しないと三河には進出は無理であったってことです。緒川城から三河に進出するには渡河後の拠点が必要であったのが理解できます。ちょっと想像を膨らませますが、松平清康三河を平定した時に水野氏と戦ったと見て良さそうです。清康は水野氏を三河から駆逐したのでしょうが、緒川までは攻めていないと見れそうです。これは刈谷まで進出しても緒川城を攻めるには知多湾を渡る必要があり、また陸路を迂回しようと思ったら遠すぎたためじゃなかったかと思われます。


村木砦の合戦再考

この合戦は義元が親織田勢力である緒川水野氏を叩く作戦であったぐらいの理解で良いかと思います。今川軍はおそらく池鯉鮒から重原城に進みこれを落とします。重原城を奪った後の今川軍は2つの作戦を展開します。

  1. そのまま進み刈谷城を包囲
  2. 原城から物資を運び村木砦を構築する
この状況を知多湾海岸線を含めて考慮すると、

20160820100034

村木砦の合戦の概要が見える気がします。今川軍が重原城を奪ったのは、とにもかくにもこれを落とさないと刈谷城に進めません。この重原城を奪ったので刈谷城を包囲できたのですが、これにより重原城から知多湾の東岸に進出できるルートが確保できたことになります。ここがポイントになる気がするのですが、今川軍は知多湾東岸から船で西岸の村木に渡り砦を作ったと考えるのが妥当です。そうなるとイメージが変わるのが村木砦です。もちろん緒川城攻略のために設けられたのですが、単なる付城ではなく、知多湾西岸の戦略拠点であることがわかります。つまり緒川城を攻めるためには、知多湾を渡る必要があり、さらに渡海した先に拠点が必要ぐらいの見方です。水野氏の緒川城と刈谷城の関係に似ています。恒久拠点が出来れば、ここに兵員と兵糧を運び込めば戦力強化が容易になります。

なんとなくなんですが、今川軍は緒川城を直接攻める気は薄かった気もしています。狙いは村木砦に有力な軍勢が長期駐留することによる威嚇戦術がメインで、時間が経っても退却はないぞのアピールです。あんなところに砦を構えられれると水野氏は常に臨戦態勢を解くことが出来なくなります。今川軍は同時に知多半島西岸の寺本城を外交で味方に引き込み、これにより織田氏との交通ルートも遮断してます。そういう状態にした上での今川軍優勢の和睦を成立させた上で、水野氏内部にいる織田シンパを追放し、その代わりに今川氏シンパを送り込んで取りこんでしまう戦略だったぐらいでしょうか。

信長は寺本城からのルートが使えないため知多半島を回り込んで緒川城の南側に上陸し、村木砦を攻略しています。これにより今川軍の緒川城攻撃拠点が失われ、水野氏の抱き込みは失敗したと判断し、撤兵したのが合戦の成り行きぐらいに推測します。まあ、刈谷城ぐらいは行きがけの駄賃として落としておいても良かった気がしますが、刈谷城は包囲するだけで十分で、水野氏が今川氏と和睦したら割譲させる予定ぐらいだったので、無理な力攻めを避けたぐらいなのかもしれません。


そうなると大高城食糧補給ルートは?

原城桶狭間期でも今川方です。重原城が今川方にあるため刈谷城は抑え込まれた状態にあるため、知多湾の海路を今川方は使えることになります。つうか知多湾があそこまで広がっているのなら、

  1. 原城から村木砦を作った時に利用した陸路で知多湾東岸に出て、現在の大府市あたりに上陸して大高城に進む
  2. 知多湾北岸から海路を利用して、現在の大府市あたりに上陸して大高城に進む
海路が使えれば緒川城の水野氏の妨害を受けずに大高城に進むのは可能と見えます。ここでなんですが桶狭間後に元康が岡崎に帰ったルートもイマイチ良くわかっていないそうです。その帰還ルートの伝承の一つに舟で岡崎に戻ったってのもあるそうです。最初に聞いた時には「なぜに舟?」だったのですが、大高城への食糧輸送に海路を使ったのであれば、帰りも舟を使ったというか、使わないと知多湾を渡れません。舟を使えば義元戦死で状況がどうなっているか不明な池鯉鮒経由の陸路を通るより、知多湾を南下し矢作川を遡って岡崎を目指す可能性はありかと思った次第です。