桶狭間の合戦・緒川水野氏研究と元康の兵糧搬入

桶狭間の合戦の序盤戦は5/18夜に行われた松平元康による大高城への兵糧搬入と、引き続き行われた5/19の1時〜2時ごろから行われた元康の丸根砦攻め、朝比奈泰朝の鷲津砦攻めがあります。これは史実なんですが、この時に松平・朝比奈の大高城別動隊はどのルートを通ったかは信長公記にも記載がありません。念のために三河物語も確認してみましたが

永禄元年戊午の年、御年十七歳にシテ、大高之兵粮入ヲ請取せラレ給ひて入サせ給ふ

どうも結果だけしか記述されていないようです。ここで義元が5/17に沓掛城に入ったのは間違いなく、元康の大高城への兵糧搬入も沓掛城から出発したとして良いでしょう。前回出した地図を再掲しますが、

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私は漠然と

    沓掛 → 刈谷 → 大高
こういうルートを考えていましたが、このルートの途中の刈谷城の水野氏は織田方なんです。つまりこのルートを使うのはリスクが非常に高くなります。この水野氏と元康との関係を少し調べてみます。


水野氏と松平氏

水野氏はwikipediaより、

戦国期において水野氏が勢力を伸ばすのは、15世紀中頃水野貞守が尾張国小河(現在の知多郡東浦町緒川)に緒川城と狭い入り江挟んで隣接する三河国碧海郡刈谷城の二つの拠点を置いたのに始まる。その後、水野氏は佐治氏、戸田氏と争いながら勢力を広げ、大高城、常滑城、亀崎城、宮津城、鷲塚城等を有した。

水野宗家は水野忠政の時には貞守以来の緒川城と刈谷城を領有したうえ知多半島を南下、佐治氏、戸田氏を圧迫し、三河においては西尾城の吉良氏を圧迫した。

水野氏は鎌倉時代の地頭職であったぐらいはある程度確実にたどれるようです。その前も家系伝説はあるようですが、歴史にまず出てくるのは忠政ぐらいのようです。ただ忠政の業績とその子の信元の業績は重複して書かれているようで、ここは二代にわたる成果ぐらいにしておきます。とにもかくにも桶狭間合戦の時期にはwikipediaに書かれている版図を有しています。忠政が歴史に名を遺したのは軍事的業績ではなく、忠政の取った婚姻政策によるもので良さそうです。忠政は松平氏との関係を重く見たようでwikipediaより、

当時三河で勢力を振るっていた松平清康の求めに応じて於富の方を離縁して清康に嫁がせ、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年(1541年)に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)、於大は広忠の長男・竹千代(後の家康)を出産した。

ここなんですがチト違う気がします。清康は英雄的な人物であったようで三河に勢威を揮います。おそらく清康の圧迫のために清康の求めに応じて水野忠政は妻と離縁し、これを清康に嫁がせます。華陽院と言われる女性で、後に駿府に人質に送られた家康の育成にあたったとなっています。ちなみに家康と華陽院の関係は、家康の母が於大の方で、その於大の方は華陽院の娘になるので孫にあたることになります。華陽院についてはこの程度で良いと思いますが清康在世中は

こういう力関係であったぐらいに見て良さそうで、こういう力関係の下での婚姻外交が行われたぐらいです。ところが清康は1535年の森山崩れで急死します。広忠が跡を継ぐのですが、
事柄 広忠年齢
1526 広忠誕生 0
水野忠政、清康に敗れ妻の於富の方をさしだす
1535 清康急死 9
松平信定、岡崎を押領
1539 伊勢に逃亡し、さらに駿河に逃亡 13
1540 義元の庇護の下、岡崎帰城 14
信秀に安祥城を奪われる
1541 水野氏より於大の方正室に迎える 15
1543 家康出生 17
1544 水野信元が織田氏に付いたため、於大の方と離縁 18
まだ元服前の広忠は松平信定岡崎城を奪われます。信定は清康の叔父にあたる人物ですが、岡崎で勢威を揮います。岡崎城を追われた信忠はその後も信定の圧迫を受け遂に伊勢に逃亡、伊勢も危なくなると義元を頼って駿河に逃亡しています。ここで義元の後ろ盾を得て1540年に岡崎城に戻ってきています。この辺の経緯は異説がたくさんあるようですが、清康から広忠への家督相続は大混乱になったのだけは確かなようです。またこの騒動により松平氏の独立性は失われていき、今川氏の属国化が進められたぐらいとしても良さそうです。

こういう状況で水野氏との縁組が行われます。この縁組も微妙というか不思議に感じるもので、松平氏は1540年に安祥城を信秀に奪われます。この結果、岡崎城の外堀ともいえる矢作川西岸まで信秀の勢力圏になっています。見ようによっては岡崎の松平氏は危急存亡というか、風前の灯火状態であったとしても良いぐらいです。松平氏が生き延びられたのは後ろ盾に義元がいたからぐらいしか理由が浮かびません。そんな状態の松平氏と姻戚関係をわざわざ結ぶ意味が思い浮かびません。

水野忠政は今川氏と結んでいる松平氏の存在を高く評価したのでしょうか。それとも義元の意向が働いていたのでしょうか。なんとなく後者の気がしないでもありませんが、この決断が江戸期の水野氏の繁栄につながったのだけは間違いないというところです。


緒川城と刈谷城

水野氏が緒川城から刈谷城に進出したのは忠政の時代とするものと、その子である信元の時代とするものがあります。さらには刈谷に城を作ったとする説と、刈谷にある城を奪ったとする説もあります。ここで両城の位置関係ですが、

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異常に近い。直線距離で1kmも離れていません。この近さから信元の時代に作ったの説を私は取りたいです。根拠なんですが両城の間に流れる境川尾張三河の国境線になります。清康時代の松平氏の勢力は強く、三河平定のために三河南西部に勢力を広げていた水野氏と争ったはずです。水野氏は三河を駆逐され、清康は刈谷まで陣を進めて和睦交渉に入ったぐらいを想像しています。緒川城攻撃のための本陣なら場所として悪くなさそうな気がします。この時の和睦条件として

  1. 両者の堺は境川とする(境川以西の水野氏の領土は清康に割譲)
  2. 姻戚関係を結ぶために忠政の妻を清康に差し出す
本当に忠政が清康に妻を差し出したかについて異論もあるようですが、水野氏に取ってはかなり屈辱的な条件であっただろうぐらいは推測されます。忠政時代はそれでも松平氏との姻戚関係を深める路線でしたが、次代の信元は織田氏と結んで松平氏を攻める路線に変換したぐらいです。松平氏と手を切り織田氏と結んだ信元は三河南西部の旧領回復に向かったと取りたいところです。その時に屈辱の和睦を結んだ地である刈谷三河侵略のための拠点となる城を作ったぐらいの見方です。水野氏から見れば三河進出のための前進拠点であったので、隣接していても二つの城を維持するのは意味があったぐらいでしょうか。


織田勢力の退潮と村木砦の戦い

信秀は1540年に安祥城を奪取した頃から主戦場を美濃に移します。この美濃の蝮の道三との抗争は1548年に濃姫を信長の正室に迎えるまで続きます。この信秀の対美濃戦はどう贔屓目に見ても信秀の負けです。対美濃戦により求心力の衰えを感じた信秀は再び三河に兵を向ける事になります。しかし1548年の第二次小豆坂合戦で敗れ、さらに1549年に三河攻略の最重要拠点であった安祥城も奪われてしまい、三河からも織田勢力は駆逐されてしまう状況に陥ることになります。1551年に信秀は死亡し信長が家督を継ぎますが、信長継承には異論が多く尾張もまた内乱状態になります。このため三河国境沿いの豪族が動揺します。簡便にwikipediaより、

  • 天文21年(1552年)、織田方であった鳴海城主山口教継・教吉父子が今川義元の傘下に入った。
  • その策略で天文22年(1553年)大高城、沓掛城が今川方に奪われ、知多半島西側の寺本城主花井氏も今川方に転じた。

ちょっと注釈を入れておきますが、水野氏と言っても一枚岩でなく多くの家に分かれていたようです。目ぼしいところでは

    緒川水野氏、大高水野氏、常滑水野氏
緒川水野氏が宗家的な位置にあったとなっていますが、他の水野氏との関係は対立関係ぐらいの気配があります。わかりやすいのは常滑水野氏との関係で、知多半島の支配権を狙う緒川水野氏と激しい抗争を繰り返しています。大高城が今川方に寝返ったのもその辺の関係の気がします。ここでなんですが、信長は水野氏との関係を重視していたようです。今川氏は三河の西南地域に勢力を持つ緒川水野氏の一掃を狙う作戦を行います。wikipediaより、

天文23年(1554年)、重原城も今川方に攻略され、緒川城は、寺本城・藪城・重原城に囲まれ孤立。刈谷城も包囲。今川氏は水野信元を攻め滅ぼさんと計画したのである。さらに今川氏は重原城経由で物資を運び、緒川城の眼前に村木砦を築き、ここに至って信元は、信長に救援を依頼した。同年1月24日、信長は居城の守りを斎藤道三からの援軍に任せるという思い切った策で援軍に駆けつけると、信元と協力して村木砦を攻略し、この村木砦の戦いに勝利はしたが、水野氏の織田家へ従属性は強まったといわれる。

参った、また城探しだ。とにかく土地勘がないので城を探すのも大変です。

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原城は水野氏の勢力圏でしょうから、刈谷から池鯉鮒方面に水野氏は勢力を伸ばしていたことが推察されます。ここで今川軍は重原城をまず攻略します。さらに外交戦術を展開して寺本城・藪城を味方に引き込んだぐらいで良さそうです。寺本城・藪城の意味に悩みましたがwikipediaより、

これに呼応し、織田方だった寺本城(現・知多市)が今川方に寝返り、信長の居城・那古野城と緒川城の間の道を塞いだ。

どうも織田氏との連絡は寺本城が中継地点であったようです。あったようですは良いのですが、寺本城までの交通はどうしていたのかと思います。那古屋から寺本城に向かうまでに鳴海城・大高城があり、これらは既に今川氏に付いています。この当時は付城群がまだなかったはずなので陸路では寺本城に行けそうにありません。そうなると熱田ぐらいから海路になると思うのですが、どうだったのでしょうか。とにもかくにも信長が熱田から海路を使ったのは間違いないようで、これもwikipediaから、

22日(23日)、渡海する予定だったが、非常な強風だったため船頭・水夫たちが船を出すことに反対した。これに対し信長は「源義経梶原景時が逆櫓論争をした時もこのような風が吹いていただろう。早く船を出すのだ!」と言い、無理に船を出させた。織田軍は20里ほどの道程を約1時間で進み、緒川城の近辺に到着。その日は野営をした。

どうも熱田から知多半島を一周して緒川までたどり着いたようです。そこから緒川城に入り村木砦を攻撃して落とすのですが、ここもよくわからないところです。たしかに村木砦は緒川城攻撃の前進拠点ですが、この砦が落ちただけで、なぜに今川軍の攻撃が終了してしまったのかです。もちろん砦の攻防戦で今川軍は大きな損害を出したからだとは思いますが、それこそ後詰はいくらでも動員できそうなものです。それと緒川城に並ぶ攻略目標であった刈谷城がどうなっていたかがはっきりしません。

刈谷城は元康も担当であったようなのですが三河物語には一度は落としたようですが、その後に緒川から信元軍が攻め寄せると今川軍は退却したぐらいに書かれています。ゴメン、三河物語の原文も読みにくくて「たぶん」そうだぐらいにしか言えないのですが、今川軍が占領したと思われる記述として

駿河衆も城を騎帰され

まずこうあり、その後に

早小河寄下野殿懸付給得ば駿河衆も足々?して引しりぞく

刈谷城は水野信元が奪還したぐらいで良さそうです。ほんじゃ信長はどうしたかですが信長公記には、

翌日には、寺本の城へ御手遣はし、麓を放火し、是れより那古屋に至つて御帰陣。

緒川から寺本城に向かい焼き討ちを行った後にたぶん熱田まで海路を使ったんじゃないかと考えられます。ただなんですがこの焼き討ちにより寺本城下は大きな被害を受けたとなっていますが、寺本城主である花井氏は桶狭間後に織田氏に帰属したと書かれているものが多いです。そうなると寺本城が健在なら緒川と信長の交通路は遮断されたままになります。この辺はよくわからないところです。村木砦の戦いもよくわからないところがありますが、信長が相当な無理を重ねて水野信元を助けたのは事実として良く、信元も織田氏への帰属を明確にしたぐらいは言えそうです。

実はこの村木砦の戦いからの想像ですが、信長は鳴海・大高城に付城群を築き陸路を封鎖する作戦に出ます。これは直接には鳴海・大高城への圧力ですが、同時に緒川の水野信元との連絡路を確保する狙いもあったんじゃないかと思っています。鎌倉往還は沓掛城が今川方ですから使いようがありませんので、桶狭間道や緒川から大高に通じていたであろう道を連絡路として確保する意図です。とくに桶狭間道は直進して抜けてしまえば沓掛城に近づきますから、桶狭間道の途中から大高に向かう道も確保していたんじゃなかろうかぐらいの想像です。


大高城への兵糧搬入

1554年の村木砦の戦いの時点では間違いなく水野信元は信長に味方しています。またこの戦いによってより信頼関係は強くなったと思います。ただそのまま水野氏が織田方として頑張られると元康の大高城への兵糧補給ルートの特定が難問になります。当時の道筋を推測するのは手強いのですが、水野氏の城が

こう並んでいる点から池鯉鮒から緒川に道が伸びていたとまず推測されます。大高城も水野一族が支配していた時期がありますから、緒川から北上して大高城を結ぶ道もあったはずだと思います。村木砦あそこに築かれたのは大高方面への道を塞ぎ、刈谷城との連絡を遮断する意味合いもあったとして良いでしょう。それとなんですがwikipediaより、

さらに今川氏は重原城経由で物資を運び、緒川城の眼前に村木砦を築き

これは重原城から刈谷城の妨害を受けずに村木砦方面に向かえるルートがあった事を示唆すると考えます。この辺の推理を地図で表してみると

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地図だけ見ていると池鯉鮒から村木砦に出るルートがあっても良さそうなものですが、その点は保留にさせて頂きます。地図だけの印象で言えば重原城から村木砦方面に向かうにも山越えみたいに見えますが、確認すると標高10mぐらいです。ですから地形的には十分可能ぐらいになります。桶狭間時に村木砦はどうなっていたかは「よくわからない」のですが、放置されていたぐらいに考えると、元康はこのルートを使って大高城への兵糧搬送を行った可能性は十分にありそうです。


桶狭間の時の水野信元は色分けとしては織田方ですが、日和見的な姿勢であったと見る説も少なくありません。そりゃそうで、あんだけの大軍が近くを進んでいる訳ですから織田が勝つとは信じにくいと思います。ほんじゃ、なぜに今川方に寝返らなかったかですが、村木砦の影響があったようです。桶狭間の合戦の時に水野の一族で織田軍に従軍したものは少なからず確認できます。つまり同じ水野の一族でもコチコチの織田軍シンパがいたわけです。信長は大変な苦労をして村木砦を落としているのですが、水野信元に対して何もしなかったはずもなく、監視のために織田シンパの水野の一族プラスアルファを送り込んでいたようです。ですから信元は今川に容易に走れなかったぐらいです。

信元の下へは大軍を背景とした今川軍からの工作もあったとするのが自然です。今川へのあからさまな寝返りは城内の織田シンパの存在から無理として、日和見を利用しての消極的協力への要請ぐらいはあっても不思議ありません。つまりは大高城への兵糧輸送の黙認です。黙認といっても白昼堂々、目の前を通るのを黙認すれば織田への明白な裏切りになりますから、夜間通過の黙認ぐらいです。つまり「夜だから見落とした」の体裁で、これなら万が一、織田が勝っても言い訳がたちます。

もちろん工作があったかどうかは不明ですが、今川にすれば信元は積極的に織田軍のために動かないだろうの見方はあったんじゃなかいと考えています。緒川から大高へのルートは私の推理以外のルートであっても、どうしても信元の監視下に入ってしまいます。積極的に動かないといっても、白昼堂々となると何らかのアクションを起こさざるを得ないので、それを予防するために夜間運送にしたぐらいに思っています。敵対する大勢力に挟まれた中小勢力が生き残るにはこれぐらいは「ありふれた」行動と考えています。