第2部桶狭間編:ミモザで中島砦まで

彼女はミモザを飲んでいます。ミモザシャンパンにオレンジジュースを入れてステアしたもので、この世でもっとも贅沢なオレンジジュースとも言われていますが、そんな華やかなカクテルは彼女にとってもお似合いです。カクテルは彼女にマッチしているのが確かなのですが、前回の別れ際の言葉がどうしたって気になります。

    「ちょっと聞いてもエエ」
    「なに?」
    「ボク、なんか悪いことコトリちゃんした。もしそうやったら言うてな、気に障ったんやったら謝るし、もうせえへんようにするから」
    「なんにも悪いことなんてしてへんよ、なんにも、本当になにひとつしてへんよ、なにひとつもね」
    「なんか引っかかる言い方やなぁ」
    「ゴメン、気にせんといて。優しすぎるからちょっと言ってみただけ」
どうにもスッキリしない会話でしたが、これ以上ははぐらかされて、少々強引な感じで歴史談義に持ち込まれてしまいました。
    信長公記を読んで面白かったんは、清州出陣の時にホンマに信長は敦盛を舞って出陣したんやねぇ」
    「そうなんや、舞った後に『馬引け』って感じで近習だけ連れて出陣するのもホンマやったもんね」
    「でもさぁ、合戦前夜の様子は少しだけ時代劇とかと違うね」
    「微妙やけど違うね。清州城内で籠城が出撃で意見が分かれていたのも事実やったみたいやし、信長がどちらにするかの意見を曖昧にしてたのも事実で良さそうやけど、さっさと奥に引っ込んで不貞寝していなかったのだけはわかる」
    「そうなのよね。信長公記には、

    其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。

    なんか独裁者信長のイメージと違うけど、夜中まで世間話をしていたってなってるもん。信長って言葉が短いイメージがあるけど、桶狭間前夜はそうじゃなかったみたいやね」

    「興味深いね。さて信長公記には五月十九日の決戦で時刻を示しているところが、


    • 清州を出陣したのが夜明け方
    • 熱田を出発したのが辰の刻
    • 佐々・千秋が突撃したのが午の刻
    • 義元本陣に突撃して逃げる義元を追撃したのが未の刻


    こうなってる。ほいでもって日の出が四時半ぐらい、日の入が十九時ぐらいになるねん」

    「そうなると清州出陣は卯の刻ぐらいで四時ぐらいかな。辰の刻は七時ぐらいで、未の刻は十四時半ぐらいやね」

    「まあ、だいたいやけど、それぐらいでエエと思う。だいたいなのは時計の無い時代やから太田牛一も同じやろ」

    「信長が清州出陣を決意した今川軍の鷲津・丸根砦攻撃に意味はあるの?」

    「それこそ信長にでも聞いてみないとわからへんけど、信長も潮の干満は気にしていた気がする」

    「五月一八日に報告受けてるしね」

    「潮が満ちている状態で鷲津・丸根砦が攻撃を受けたら孤立無援の上、撤退するのも難しい状況になるのも知っていたと思うねん」

    「そうね」

    「そこに信長は意義を見出していたぐらいにしか思えへん」

    「でもそれじゃ、鷲津・丸根砦の織田軍は見殺しやん」

    「そうなんやけど、鷲津・丸根砦を捨て駒にすることで何か有利な条件が出来ると思ったぐらいにしか考えられへん」

    「そうかもね。鷲津・丸根砦は五月一八日段階で撤収可能やったのに放置したようなもんやもんね」
今川軍の来襲が間もなくあるのは五月十八日に鷲津・丸根砦から撤退要請があったのでもわかります。それも五月一九日の午前中は満潮で撤退不可能になるので、退くのなら今のうちしかないとの要請です。にもかかわらず信長は無視しています。軍議を開かなかった解釈は様々にありますが、もし軍議を開けば丸根・鷲津砦問題は必ず出てくるのでこれを嫌ったのも一因かもしれません。そりゃ、開けばなぜに事実上の見殺しをするのかの理由を説明しないとならなくなります。
    「この合戦で信長が負っている巨大なハンデは兵力差でエエと思う」
    「うんうん」
    「少なくともだだっ広い平地で戦えば間違いなく負ける」
    「うん。小勢で勝つには地形を味方に付けるのが常套戦術やから、義元が熱田に進出する前に決戦を挑む必要があったってことね」
    「そう、信長が勝てる可能性がゼロでない地形は桶狭間あたりしかなかったとも考えられる」
    「そこはわかるけど、鷲津・丸根砦の放置の理由は?」
    「兵力差を少しでも縮める作戦やないかと思てる」
    「そっかそっか。今川の大高城別動隊は満潮時に鷲津・丸根砦を攻めてるわけやから、織田軍も援軍に行けない代わりに、大高城別動隊も鳴海方面に来れないってことね」
信長が出陣を決意したのは今川軍の鷲津・丸根砦攻撃が始まった報告を受けてからになります。どう読んでもこの報告に反応して清州を出陣したとしか考えられません。
    「それだけやないと思うねん。もし鷲津・丸根砦を五月一八日に撤収させていたらどうなると思う」
    「どうなるって、松平元康・朝比奈泰朝が大高城に兵糧を運び込んで」
    「運び込んでどうなる?」
    「そっか、鷲津・丸根砦がカラやったら寝てまうんや」
    「たしかに五月一九日の午前中は潮が満ちてるかもしれへんけど、時間が経てば引くやん。信長は大高城別動隊を寝させない必要があると判断したんやと思うねん」
    「そのためには鷲津・丸根砦の将兵は死ぬまで戦う必要があったってこと?」
    「熱田を出る時に信長は鷲津・丸根砦方面からの煙を確認するシーンがあるけど、これで大高城別動隊は徹夜仕事になったと思ったんじゃないかなぁ」
    「えらい冷たい計算やけど、そうやったかもしれへん」
信長の計算としては鷲津・丸根の損害で大高城別動隊を五月一九日を使用不能に出来れば十分すぎる効果と判断したと考えています。
    「でもって信長は熱田から善照寺砦に急行した」
    「熱田から善照寺砦までどれぐらい?」
    「ざっとやねんけど一二〜一三キロメートルぐらい」
    「二時間半ぐらいとして信長の善照寺砦到着は九時〜十時の間ぐらいかな」
    「そんなもんやと思うねん」
    「でも信長は午の刻の佐々・千秋の突撃まで善照寺砦から動いてないよ」
    「たぶん軍勢が集まるのを待ってたのと、休憩時間やないかなぁ。信長の出陣方式は、信長が突然駆けだして全軍が後に続くスタイルやから、遅れる奴は遅れると思うねん」
    「うんうん」
    「とにかく今川軍の方が多いのは知ってるから、決戦を挑むにしても1人でも多く集まるのを待ってたんじゃないかと思てる」
    「でさぁ、今川軍はもう来てるよね」
    「そうなんや。信長公記

    午の剋、戌亥に向つて人数を備へ

    戌亥って西北やから、善照寺砦の東南のどこかに義元本陣のある『おけはざま山』があった事になる」

    「そんな時に佐々・千秋の謎の突撃が起こる」

    「この突撃の解釈もいろいろあるんやけど、ボクはまず先陣の手柄を焦った結果ぐらいに解釈してる」

    「具体的には?」

    「ちょっと地図を見て欲しいのやけど

    20171005073146

    おそらく佐々・千秋隊は中島砦の東南ぐらい、桶狭間道の出口ぐらいに布陣していたと考えてるんや」

    「たぶんそうやろね」

    「そこにいれば今川軍が着々と布陣しているのが見えるはずやねん」

    「見えるでしょうねぇ」

    「信長が善照寺砦に来ているのを確認してからの突撃となってるから、軽く一当てして先陣の手柄を狙ったぐらいや」

    「それが今川軍の反撃が凄まじくて佐々・千秋も討死するぐらいの惨敗になった」

    「それが一つの可能性」

    「他もあるの?」

    「佐々・千秋の突撃は暴発じゃなくて信長の命令の可能性もあるかもしれへんということ」

    「どういうこと」

    「善照寺砦の信長からも今川軍の布陣状況は見えると思うから、決戦を挑むなら布陣が完了する前にしたかったぐらいや」

    「うんうん」

    「まず佐々・千秋に突撃させて有利に展開したら善照寺砦から全軍突撃みたいな作戦」

    「なんか無理あるなぁ、先陣説にしても作戦説にしても」

佐々・千秋の突撃の理由ははっきりしていません。暴発説とか、大高城方面からの無断撤退の責任説もあります。なんとか合理的な理由を付けるとしたら、午の刻には織田軍もそろったので信長は今川軍に攻撃をしかけたぐらいです。その先陣が佐々・千秋であったぐらいです。ただこの説明も信長はまだ善照寺砦にいた点で不十分です。
    「だから謎の突撃なんやけど、これで信長は一つわかったぐらいに思てる」
    「なにがわかったの?」
    桶狭間道で決戦を挑んでも勝てそうにないってこと」
    「そりゃそうでしょうけど、じゃなんで中島砦に移動したの?」
    「そこになんらかの作戦意図があったとしか言いようがあらへん」
今日はこの辺でお開き。いつものように駅まで送り、振り払おうとしても、どうしても気になる彼女の微妙な態度の変わり方を考えながら家に帰ると電話がありました。コトリちゃんからでなく、彼女が天使のコトリちゃんだと教えてくれた小学校からの例の旧友からです。
    「聞いたで。コトリちゃんと付き合ってるんだって」
    「まあ、そうやけど、誰に聞いたん」
    「ちょっとね。でもビックリしたわ」
    「ボクもビックリしてる」
かなり冷やかされましたが、どこかで心地よい感じがしたのも確かです。
    「ところでさぁ、コトリちゃんに彼氏がいたの知ってる」
    「うん、知ってる」
    「誰か知ってる?」
    「聞いてないから知らへん」
    「アンタらしいわぁ」
どうも話に嫌な含みを感じます。旧友はなにを言いたいのだろうってところです。でもって彼氏の名前を聞いて仰天しました。
    「えっ、えっ、コトリちゃんの前の彼氏ってアイツ」
    「そう、私も好きやったし大学も一緒やったから聞いててん」
アイツなら知っています。サッカー部だったのですが、当時のサッカー部はそれなりに強くてクジ運にも恵まれたのもあるでしょうが、県のベスト4かベスト8まで進み、弱小が多かった運動部の中でかなりトピックになってました。ひょっとしたら全国大会に応援に行くかもって話題が飛び交ったぐらいです。アイツはキャプテンで、エース・ストライカーだったかキーパーだったかは忘れましたが、もててました。これは私の僻みを差し引いても爽やか系のイケメンでしたし、そのうえ成績優秀でしたから旧友が憧れていたのも悔しいけど良くわかります。旧友だけではなく女子のかなりの割合で『好き』だったのはいたと思います。そんな学校のヒーローでありアイドルでもあったあの野郎と私は較べる次元が違うってところです。
    「前に高校の同窓会あったやん。あん時からの付き合いらしいで」
同窓会は欠席したので全然知りませんでした。
    「お似合いのカップルやと思とってん」
だろうな、天使とアイドルなら悔しいけど文句のつけようのないゴールデン・カップルです。今の彼女との状況がなければ嫉妬より遠い世界の話として納得してたと思います。
    「それが別れたと聞いてビックリしたんやけど、次の相手が選りに選ってまさかのアンタとはねぇ」
『選りに選って』は余計なお世話と思いましたが、あの野郎と比較されたのでは文句すら言えません。私とコトリちゃんでは美女と野獣と言うより、美女と貧相なオタクですから。
    「誤解せんといてや。これでも私はアンタを応援してるんやから」
旧友はありがたい。でも『これでも』はないでしょう、頼りにしてるんですから。
    「実はね、前の彼氏が復縁したがってるみたいやねん」
    「でも、二度と会わへんって言うてたで」
    「そうかもしれへんけど、コトリちゃん悩んでるみたい」
これは重大情報です。こんな『ド』が付く強力なライバルとは、まともに同じリングに登ったらスペックで勝てる要素がありません。辛うじて勝てるのは歴史知識ですが、こんなもんじゃ大した武器になりませんし、歴史知識だって下手すれば負けるかもしれません。それぐらいアイツは手強い。
    「でもねぇ、今のところ本命は不思議やけどアンタみたいやで」
だから『不思議』は余計だって。そう言いたくなる気持ちはわかるけど、いくら旧友でも少しぐらい気を遣って欲しいところです。私だって傷つくんだぞ。
    「コトリちゃんがね、アンタのこと『優しすぎる』っていうてた」
    「うん、そう言われた。だったらワイルドなのがエエん?」
    「アンタにワイルドは似合わんわ」
大きなお世話です。
    「べつに優しいのは悪くはないんやけど、なんて言うのかなぁ、引きつけて離さない強さを感じないってところかな」
    「どういうこと、やっぱりワイルド路線?」
    「じれったいな、コトリちゃんをちゃんと彼女として扱えってことよ」
    「わかりにくいわ。心の底からコトリちゃんを彼女と思って大事にしているつもりやけど・・・」
    「だから、大事にし過ぎやねん。アンタはコトリちゃんを天使扱いしているみたいやけど、コトリちゃんは天使やなくて普通の女の子だってこと。これ以上言わせんといて」
コトリちゃんが私の優しさというより優柔不断な態度に不満を持ち、前彼に心を惹かれかけている事だけは理解しました。ついでに前彼の正体も。ホントによくまぁ、前彼から私にコトリちゃんが乗り換えてくれたものだと今さらながら驚いています。ここで逆なら当たり前と思う自分が悲しいです。ただ前彼がいかに強敵であっても、今回だけは負けられません。旧友から聞く限りコトリちゃんは悩みながらも、まだ私に未練、もとい私を本命と思ってくれているようです。旧友はあれでも信用できますから、コトリちゃんをしっかり捕まえておけという戦略だけは教えてくれました。しかし具体的な戦術は教えてくれませんでした。それぐらいは男ならわかるだろうってココロのようです。

しかし悲しいですが私には具体的な戦術が思い浮かびません。一方でいかに危機的な状況かはヒシヒシと実感できます。時間が経てば経つほど前彼が有利になることです。こうやって悩んでいる間にも、コトリちゃんの心の天秤は前彼の方に傾いていく気がします。待っても悪くなるのなら動かないといけませんが、強大な義元の進攻情報を聞いた清州城の信長はこんな気分だったのでしょうか。信長は起死回生の作戦を展開して義元に勝利しました。この先例にならいたいところです。ただ義元の強大さは前彼に匹敵しますが、私が信長かと言われれば考えるだけで空しいなぁ。