第2部桶狭間編:フローズン・ダイキリと梁田政綱

彼女が飲んでいるフローズン・ダイキリはラムとライムジュースと砂糖とクッラッシュドアイスをミキサーに入れて混ぜ、シャーベット状にしたものです。これもヘミングウェイ・カクテルの一つですが、ヘミングウェイがスロッピー・ジョーで作ったオリジナル・レシピは少し違ったようです。ラムをダブルにしグレープフルーツ・ジュースを入れ砂糖を抜いたものだったとされます。これは当時ヘミングウエイが糖尿病を発症しており、少しでも糖分を減らすためだったといわれていますが、糖尿病に良かったかどうかは大いに疑問です。でも、まあ気は心ってところでしょうか。ちなみにヘミングウェイ・オリジナルのものはダイキリ・ア・ラ・パパとも呼ばれています。

前回の帰りに腰に手を回して喜んでいたのですが、今日のコトリちゃんは妙に身を乗り出して話してきます。彼女の吐息を感じるぐらいの近さです。恋人同士なら普通の光景ですが、ここまでコトリちゃんが近づいて話されると、それだけで心臓のバクバクが止まりません。だって一〇センチも離れていないのですから。ただ会話の内容は残念ながら恋人同士の甘いささやきではなく桶狭間です。

    「梁田政綱はどう思う」
今日はコトリちゃんが口火を切ってきました。
    「信長に義元の所在地を知らせて奇襲を成功させた立役者やな」
    「ホントにそう思う?」
そうは思っていないのですが政綱の知識はチイと手薄なのでコトリちゃんの次の発言を待ちます。こういう時は様子を見るのが吉です。ごくごく無難に
    「政綱は実在の人物で織田家の家老だったのは間違いないね」
信長公記

御家老の御衆、友閑は宮内卿法印。タ庵は二位法印。明智十兵衛は、維任日向になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ、忝きの次第なり。

梁田左衛門太郎は異説もありますが政綱と同一人物であり、これも信長公記に登場する梁田弥次右衛門と同一人物として良いと考えています。信長公記には弥次右衛門は桶狭間より前に大名に取り立てられたとしており、その所領が九之坪(西春日井郡西春町大字九之坪)で良いはずです。

    「そうなのよ、松井有閑と武井夕庵は文官やけど、政綱は明智光秀丹羽長秀と並んで書かれている武官の重臣だったと見れるわ」
ここら辺は問題ないのですが
    「他にも九之坪の氏神の十所社の棟札に

    永禄二年(一五五九年)九之坪の領主梁田出羽守社殿を造営し、天正十年(一五八二年)梁田弥冶右衛門社殿を寄進

    永禄二年は桶狭間の前年やけど梁田出羽守が領主であったってわかるし、この出羽守が政綱で翌年の桶狭間に参加しているはずなの。でも問題は信長公記桶狭間に政綱がまったく登場しない事よ」

    「でも政綱が桶狭間の後に沓掛城主になったのは紹巴富士細見記に書かれてるよ」

    「紹巴富士細見記を知ってるのはさすがやけど これはは永禄一〇年(一五六七年)のものだから桶狭間の手柄とは限らないよ。姉川の手柄もあるやん」

姉川の手柄とは信長公記の 

殿に諸手の鉄炮五百挺、並に御弓の衆三十計り相加へられ、簗田左衛門太郎、中条将監、佐々内蔵介両三人御奉行として相添へられ候。敵の足軽近々と引き付け、簗田左衛門太郎は中筋より少し左へ付きて、のがれ侯。乱れ懸かつて、引き付け侯を、帰し合ひ、帰し合ひ、散々に暫し戦ふ。太田孫右衛門頸をとり、罷り退かれ、御褒美斜ならず。

これは姉川の前哨戦段階ですが信長の評価は高かったのがわかります。

コトリちゃんの主張は明快で政綱の功績は
  • 甫庵信長記には重臣が善照寺砦からの出撃を反対する中、政綱が信長が支持し勝利に導いた
  • 甫庵信長記の三年後に出版された甫庵太閤記では義元の所在を信長に報告した
小瀬甫庵も創作ばかりじゃなく太田牛一が書き漏らした真実もあるかもしれませんが、義元を討ち取った毛利新介を上回る一番手柄なのに、たった三年間で内容がゴロリと変わるのは妙で、これは甫庵の創作だと断定しています。
    「そうだよね、政綱が毛利新介の二倍の一番手柄だったら太田牛一も記録するはずやもんね」
    「そうなのよ、姉川の政綱の手柄を記録するぐらいなら桶狭間に書かないことはありえないもの」
    「じゃ、甫庵はなぜ政綱の手柄を創作したのかな?」
    「それは甫庵が信長が勝った理由と言うか、どこを信長が進んで、どこで義元を襲ったかわからなかったからやと思うの」
信長公記では清州で信長が敦盛を舞うところから、中島砦に移動するまではかなり詳細に書かれています。しかし中島砦から出撃した後にどうしたのかは非常に読み取りにくいというか、はっきり言ってわからないとしても良い内容です。
    「甫庵はね、信長が何をしたのかわからへんから、逆に大胆な創作を施したと思うの」
    「言いたいことがわかってきたぞ。とりあえず甫庵信長記の方は信長公記

    • 無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切って中島へ御移り候。
    • 中島より叉、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども

    信長が善照寺砦から中島砦に移る時も、中島砦から出撃する時も重臣たちは反対してるんだ」

    「そういうこと、それを信長は振りきっているんやけど、どっちの砦も小さいから政綱が一番手柄になるような信長支持発言をしていたら太田牛一が書き落とすはずがないと思うの」

    甫庵太閤記はさらにエスカレートしてるわ。なんとなく甫庵は信長公記をかなり無視して創作に走ってる気がする」

    「そうなのよ、後世には甫庵太閤記の方が歴史として広まってるけど、最大の変更点は義元の所在地を桶狭間山からどっかの谷間に変えてしまったところやと思うの」

    「ここはこう言い換えてもエエよね、甫庵が義元は移動中とした」

    「そうそう、移動中の義元が油断して休息しているところを信長が襲ったストーリーを創作したのよ。義元が移動中じゃ所在がわからへんから、これを見つける役者が必要で政綱になぜか白羽の矢が立ったぐらいじゃない」

甫庵の創作した義元油断説は信長公記からわりと簡単に否定できます。甫庵が義元油断説の拠り所にしたのはおそらく

鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯

これは十時頃のお話です。一方で信長が義元本陣を襲ったのは未の刻となっており十四時ぐらいです。つまりは四時間も酒盛りを続けていたことになります。そりゃ、そんだけ油断していれば負けてもしかたないですが信長公記にはこうもあります。

是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯

これは佐々隼人正・千秋四郎の突撃が惨敗に終わったとの描写ですが、これが午の刻で十二時ぐらいのお話になります。佐々・千秋の突撃があった時には義元は本陣で悠々と構えていたのがわかります。

この辺でお開きになったのですが、なにかコトリちゃんの目が前より訴えている気がしてなりません。いつもならコトリちゃんが仕掛けてきた時に成功すれば満足そうな笑顔になるのですが、今日はなにかもっと言いたそうというか、なにかを求めているような気がしてならないのです。なにか気に障る事でも言ったのかなぁ。一生懸命思い返しても、とくに変なことを言った記憶はありません、ただ別れ際に

    「山本君って、優しすぎる気がする」
なんとなくいつもと違う顔つきで言われました。私は女性に対して優しいと言うより優柔不断なだけですが、それをコトリちゃんがなにか気に入ってないって意味なのでしょうか。わからない、こんなの付き合い始めてから初めてです。