桶狭間の合戦ムック2・信長の戦術編

地形編は1回で終るつもりで本来は信長の純戦術編の準備をしていたのですが、結果的に地形編もミックスしながらの戦術編になっています。


佐々・千秋の突撃再考

信長公記より

信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ候。

ここが気になって仕方ありません。佐々・千秋は中島砦の東側にいたと推測されていますが太田牛一は、

    義元へ向つて
こう描写してますし、義元本陣で謡をする様子も書いています。この部分を後から集めた情報で再編集したと見る意見にも説得力はありますが、実際にそうであった可能性もあるんじゃなかろうかです。つまり佐々・千秋隊は義元本陣めがけて突撃し、義元の見ている前で惨敗を喫し、それを見て喜んだ義元が謡を歌わせたって事です。後はそんな事が実際の地形で成立するかです。

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ここも謎の一つですが佐々・千秋隊はどこから出現したのかもあります。大高城付城群には鷲津・丸根砦の他に氷上山砦は千秋四郎が、正光寺砦は佐々隼人正が守っていた説があります(向山砦は水野氏)。信長公記から解釈すると今川軍の接近に伴って鷲津・丸根砦以外は撤収され、佐々・千秋隊は鳴海方面に配置されたぐらいが一番可能性がありそうです。部署は出典がわからなかったのですが中島砦の前方となっており、桶狭間道から進んでくると予想される今川軍に備えていたぐらいでしょうか。

運命の5/19に義元以下の今川軍が沓掛城から鳴海方面に動いたのは史実ですが、桶狭間道の地形からして今川軍の前衛部隊がまず前進して中島砦方面を塞いだとするのが順当です。そうやっておいて後方に陣地を順次設営する段取りです。高根山・幕山には松井宗信が布陣していた伝承があり、とくに幕山の麓に松井宗信の陣幕があったので幕山と呼ばれるようになったともされています。この伝承を信じれば今川軍の前衛部隊は松井宗信になります。

ここも微妙なところがあって史実では5/19に今川軍は決戦を挑みませんでしたが、当初の予定では鳴海城付城群を押し潰す予定ではなかったとも考えています。前夜の鷲津・丸根砦攻略の時点で清州の信長が動かなかったので、鳴海城付城群に対しても同様に動かない、もしくは撤退してしまうんじゃないかの予想です。そういう見方が出ても不思議はないと思います。どうもなんですが、義元は鳴海方面に信長は出てこない判断を強めに持っていた気がしています。

そういう仮定を置くとチョットだけ話の筋が見える気がします。松井宗信は前衛部隊ですが、織田軍の抵抗がなければそのまま進んで中島砦攻略に取り掛かる予定ではなかったかと考えています。義元本陣を赤色のあたりに私は比定していますが、5/19に鳴海城付城群の攻略にあたるのなら位置として妥当な気がするからです。

ところが佐々・千秋隊が先に展開しており、どうも織田軍は尻尾を巻いて撤退する気がないどころか、鷲津・丸根砦が落ちてもやる気まんまんの様子が窺えたぐらいです。この辺の時刻関係が信長公記にも明記されていないので推測するしかないのですが、佐々・千秋隊がいたがために今川軍はストレートに中島砦に進むのを中止し、桶狭間道でにらみ合いをしながら陣地構築に移行したぐらいの見方です。義元の判断として、清州から信長が主力を率いて来ているのなら鎧袖一触で鳴海城付城群を粉砕するのは難しいぐらいの見方でしょうか。でもって、

    信長、善照寺へ御出でを見申し
ここをどう解釈するかで議論が分かれるところですが、端的には後詰が出来たとまず解釈できます。他の見方なら御大将の見ている前で先陣の手柄を挙げられるがあります。だから佐々・千秋隊は突撃し、義元本陣から見下ろされるところで惨敗を喫したと見るのも可能ですが、本当は違うんじゃないかと考え始めています。


信長の馬廻り衆

信長公記では

    信長の善照寺砦到着 → 佐々・千秋隊突撃 → 中島砦への移動 → 中島砦で檄を飛ばす → 馬廻り衆の合流
こういう具合なんですが信長公記より、

前田又左衛門 毛利河内 毛利十郎 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人
右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯

この9人はすべて信長の馬廻衆であり、前田又左衛門、毛利河内、木下雅楽助は赤母衣衆でもあります。この9人のうち前田又左衛門だけは信長公記より、

此の比、御勘気を蒙り、前田又左衛門出頭これなし。義元合戦にも、朝合戦に頸一ツ、惣崩れに頸ニッ取り、進上侯へども、召し出だされ侯はず侯ひつる。此の度、前田又左衛門御赦免なり

これは永禄4年の森部の合戦のときの記録ですが、前田又左衛門は馬廻り衆であっても独自行動を取っていたと見ても良さそうですが、残りの8人は信長の命なく勝手に動けないはずです。それとこの9人の馬廻り衆はどこで今川軍と戦って首を挙げたかです。ここで太田牛一桶狭間の合戦に面白い表現を使ってくれています。

  1. 朝合戦
  2. 惣崩れ
惣崩れは義元本陣突入時で異論はないと思いますが、朝合戦は佐々・千秋隊の突撃と比定してしまっても良い気がします。現実にそれ以外の合戦を太田牛一は記録していませんし、あちこちで小競り合いが起こっている状況にも読めません。そう考えると馬廻り衆が首を取った合戦は佐々・千秋隊の突撃になります。


朝合戦

佐々・千秋隊の突撃に信長の馬廻り衆も参加していたのであれば、これは信長の命による突撃と見たいところです。数の劣勢は十分に意識していたはずの信長は無駄な合戦は避けたいはずですから、佐々・千秋隊に馬廻り衆を加えれば「勝てる」算段で突撃させたと私は見ています。なぜに勝てると判断したかですが、中島砦で信長が将士に飛ばした檄にヒントがある気がします。

あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。

これってよくよく読むと変です。指しているのは鷲津・丸根砦を攻撃した松平元康・朝比奈泰朝隊であるのは明らかですが、信長がこれから戦おうとしている今川軍は「つかれたる武者」ではなく織田軍と同様の新手です。信長はこの時点で大きな誤認をしていた可能性があるんじゃないかと考えています。タイトルが書かれていないのでこのページからの引用としますが、

「長坂道」は、北は相原郷付近の鎌倉街道から分岐したとみられており、鳴海村・有松村・桶廻間村・伊右衛門新田・横根村を経たところで境川逢妻川を越えて三河国へと至るという道筋をたどっている[76]。すなわち三河国刈谷に至る近道として[77]「三州道」・「刈谷街道」・「刈谷街道」と呼ばれたこともあり[78]、江戸時代以前より存在していたと考えられる古い街道である[76]。他方、飯沼如儂の手になる『尾陽寛文記』という書物には、有松村に始まり大符村(おおぶむら、現大府市)・緒川村(おがわむら、現知多郡東浦町)・半田村(はんだむら、現半田市)など知多半島東部の海岸沿いを南下して師崎村(もろざきむら、現知多郡南知多町)に至る街道を「東浦街道」と呼ぶとあり[79][注 7]、『尾張国知多郡誌』(1893年明治26年))では、有松村にて第一号国道より分岐して師崎村へと至る県道を師崎街道、俗称を東浦街道としている[80]。

また後者の「大高道・大脇道」は、東は東阿野村(ひがしあのむら、現豊明市)付近に端を発し大脇村・桶廻間村を経て西大高村(にしおおだかむら)へと至る道筋である。これも鎌倉街道と同様に江戸時代以前から存在していた官道で、東海道の開通に伴い1601年(慶長6年)に官道を解かれている[76]。

これから合戦当時の街道を再構築すると信長の脳裡にはこんな地図が浮かんでいた可能性があります。

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信長は今川軍が沓掛城から鳴海方面か大高方面の二択で攻め寄せると見ていた気がしています。ここで今川軍は大高城にまず動くのですが信長の判断は、

  1. 今川主力軍は大高城方面に向かった
  2. 前夜から夜襲もやっているので疲れている
  3. 大高と鳴海の浜沿いの道は満潮で使えない
史実は今川軍は別動隊で大高城に兵糧を搬入し、別動隊で鷲津・丸根砦を攻め潰していますが、信長はこれを今川主力軍によるものと誤認していたぐらいでしょうか。桶狭間道方面にも備えは置いてあるかもしれないが、ここは手薄のはずで、これを突破して沓掛城の兵糧を焼いてしまおうぐらいの算段でしょうか。

桶狭間道に今川軍は現れましたが、これは小部隊のはずであり佐々・千秋隊に加えて馬廻り衆を後詰にすれば容易に蹴散らせるはずだの判断が朝合戦だったんじゃなかろうかです。信長公記では朝合戦の後に中島砦に信長は移動しますが、これは朝合戦の結果で動いたのでなく、もともと桶狭間道を突破する作戦であっただけだった見たいところです。つまり朝合戦は単なる前哨戦でなく、佐々・千秋隊が今川前衛部隊を蹴散らしたら信長は引き続いて主力を率いて合流し桶狭間道を東に進む予定であったって見方です。


中島砦の信長

中島砦は位置的に桶狭間道を見通せる位置であったと考えています。つうかそのために設けられた砦のはずです。中島砦に主力を率いて入った理由は、佐々・千秋隊は敗れてしまいましたが、桶狭間道突破作戦はまだ捨てきっていないぐらいです。そこで信長が見たのは今川軍が予想していたより遥かに多い点だったと見ています。ここでも信長は今川主力軍が大高城方面に回ったはずだの誤認を引きずった判断を下したと考えます。

  1. 佐々・千秋隊の惨敗から今川前衛部隊は強力である
  2. それ以外に見える今川軍は徹宵行軍で大高城に移動した後に、引き続いて鳴海方面に引き返してきた「つかれたる兵」である
さすがに今川軍の前面は強力だが、そこさえ迂回すれば残りは疲労と寝不足でフラフラの軍勢のはずだぐらいの判断です。もう一つですが、今川軍の布陣は当初がこの日に鳴海城付城群攻撃の予定であったため、桶狭間道中心というか、桶狭間道の南側に偏ったものであった可能性があります。つまりは桶狭間道の北側丘陵への展開がなかったんじゃなろうかです。微妙なんですが、高根山が仮に今川軍の最前線基地だとすれば、地形的に善照寺砦ぐらいまでしか見えない気がします。

信長公記では信長は中島砦から山際に移動していますが、山際が相原郷あたりだと比定すれば、今川軍には善照寺砦に戻ろうとしているぐらいにしか見えなかったのかもしれません。いやそう見えるはずだと判断しての信長の移動であった気がします。


まとめ

桶狭間は日本史に残る合戦ですから信長勝利の原因の仮説は多数あります。信長が戦術的に動いていた証拠として、

  1. 満潮で孤立する鷲津・丸根砦の撤退を行わなかった
  2. 今川軍の鷲津・丸根砦攻撃の報告に反応して清州を出陣している
これだけで十分と考えています。しかしこれだけではさして信長が有利になったわけではありません。諸説はこの状態から義元本隊を破った理論を作られていますが、どう作ったところで無理が出ます。私もその路線で推理したことがありますが、三国志演義諸葛孔明のような神算鬼謀を行うか、小瀬甫庵のように緒戦の勝利に酔った義元が油断して酒盛りをしていたぐらいの義元大間抜け説になってしまいます。これは史実の義元本隊と織田軍の兵力差が圧倒的で、そうでもしないと信長が勝てないからです。

信長が優れた戦術家であることは否定しませんが、孔明ほどの神算鬼謀で合戦を行っていないのは信長の戦歴から確認できます。また圧倒的な兵力差があるのに、義元が大間抜けであることに賭けて清州を出陣したとも思えません。少なくとも鷲津・丸根砦が攻撃された時点で鳴海から5/19は桶狭間方面では今川軍と互角ないしやや優勢であると信じたから清州を出陣したんだと見ています。

信長の戦術根拠は鷲津・丸根砦を攻めているのは今川軍主力であり、鳴海方面に進出している今川軍は背後を衝かれないようにするための別動隊ぐらいと信じていたんじゃないかが私の仮説です。それぐらいの状況でないと野外決戦での目途すら立ちません。この錯覚は最後まで信長を支配したが故に、是が非でも5/19中に今川軍と決戦と考えて動き回った信長に幸運の女神が微笑んだ結果ぐらいでしょうか。

まあ私のも仮説の一つに過ぎませんが、そう仮定すると信長公記の信長の動きをほぼ説明可能であるぐらいにさせて頂きます。