桶狭間と信長公記

一の谷と並んで趣味の領域ですので御堪忍ください。前回は地形のおさらいをしましたが、今回は前回の地形を踏まえて信長公記を読み直してみたいと思います。


鳴海城と周辺の地形

鳴海城の描写として、

鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり。東へ谷合打ち続き、西又深田なり。北より東へは山つづきなり。

「黒末の川」とは天白川とする説と、扇川とする説があるので困るのですが、現在の地図と照らし合わせてみます。

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信長公記の描写から想像すると天白川の河口は扇川との合流部付近、いやさらに東寄り、いや鳴海城の南側に注いでいた能性が高そうに考えられます。でもって河口部より南側は「入塩海の差し引き」状態で、遠浅の海岸が広がっていたと考えて良さそうです。そいでもって鳴海城を取り巻く3つの砦には、

砦名 武将名
丹下砦 佐久間右衛門、佐久間左京助
善照寺砦 水野帯刀、山口ゑびの丞、柘植玄蕃頭、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉
中島砦 梶川平左衛門
武将数からして善照寺砦が鳴海付城群の中心であったと考えて良さそうです。この鳴海付近と大高城との地形描写ですが、

黒末入海の向こうに、なるみ、大だか、間を切り取り、御取手二ヶ所仰せ付けられる。

どうも鳴海城から見ると南側は黒末入海、つまり海というか干潟であったと考えられます。現在の地図でみると、

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ここから想像するのも大変なのですが、前回に作った推測図を出してみます。

地形的には丸根から鷲津に向かって丘陵が伸びているのがわかります。この丸根・鷲津の丘陵の北側は黒末入海であったと見て良さそうで、鷲津・丸根の2つの砦を築くことによって鳴海城と大高城の交通を遮断する戦術として良さそうです。


ちょっと寄り道

桶狭間の合戦前の一つの焦点が大高城攻防戦です。大高城は織田軍の付城戦術によって兵糧補給がままならず、今川軍は大高城への兵糧補給作戦を実行します。これは史実として良さそうなのですが、織田軍の本当の狙いは大高城ではなく鳴海城攻略であったと見る方が良さそうな気がします。ここは難しく考えるまでもなく、織田軍から見ると鳴海城を先に攻略してから大高城の攻撃に向かうのが順路だからです。鷲津・丸根砦を作ったのは大高城と鳴海城の交通斜断なのですが、鳴海城攻略に際して大高城からの援軍を阻止するのが一番の目的であったとみるのが自然な気がします。

さてここでなんですが、先に築かれたのは鳴海城周辺の付城であったと見て良いかと思います。配置からして鳴海城の陸路の兵糧補給は封鎖されていたと見て良いかと思います。続いて鷲津・丸根砦が築かれるのですが、先に兵糧で悲鳴を上げたのは大高城です。これは他の事情もあるのかもしれませんが、当時の兵糧補給路はどうだったんだろうってところです。

推測というか思いつきに過ぎないのですが、鳴海城は海路による兵糧補給が可能だったのかもしれません。城の南側に黒末入海が迫っており、ここの封鎖は織田軍でも不十分だった可能性です。黒末入海は完全な海ではなく干潟状であったと考えれますが、干潟であるが故に織田軍は付城建設も監視のための兵の常時配置も難しかったぐらいです。そのため満潮時に鳴海城に船で運び込まれる兵糧を十分に阻止する手段がなかった可能性はあります。大高城も海に近いところに位置しますが、鳴海城に較べると内陸部です。当時の岬が鷲津であったと考えれば、そこに砦を築かれると海路での兵糧補給が困難になったぐらいです。

つまり鷲津砦は大高城の海路の補給路斜断、丸根は陸路補給路斜断と、鳴海・大高両城の交通斜断ぐらいの意味合いです。


潮の干満

信長公記より

今川義元沓掛へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取手を払うべきの旨必定と相聞こえひし由、十八日、夕日の及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、其の世の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる。

ちゃんと読んでみるものです。佐久間大学は丸根砦、織田玄蕃は鷲津砦の守将ですが、5/19朝に黒末入海が満潮になるのを知っていたようです。さらにこの満潮時には鳴海城周辺との交通が遮断されるのも知っており、そのチャンスを活かして今川軍は必ず動くの報告を清州の信長に5/18の夕に報告しています。鳴海城方面交通斜断は、

  1. 鳴海城方面からの援軍が期待できない
  2. 退路も断たれる
鷲津も丸根もさしたる天険があるわけではなく、さらに守兵も多くありません。今川軍が有力部隊を差し向けたら陥落必至ってところでしょうか。5/18夕にあった注進のココロは鳴海城方面への撤退要請でもあった気がします。信長が何を考えていたかなんて誰にもわからないのですが、ヒョットして迷っていたのかもしれません。満潮により孤軍になる鷲津・丸根砦に今川軍が攻め寄せる可能性は十分あるが、大高城方面を無視して鳴海城方面に進出する可能性もまたあるぐらいです。鳴海城周辺を制圧されれば鷲津・丸根砦は戦略的意味も、戦術的意味も失い自然に陥落します。

織田軍が戦力的に劣勢なのはもちろんなのですが、この差を少しでも縮めるためには今川軍が分かれてくれる必要があります。今川軍が大高城から鷲津・丸根砦攻略に別動隊を送れば、今度は満潮により別動隊の分だけ今川軍が減ります。つまりって程ではありませんが、

  1. 鷲津・丸根砦の守備兵を鳴海方面に撤収させても主力決戦での兵力差にほぼ変わりはない
  2. 下手に早期に撤収させると今川軍は別動隊を送らずに鳴海方面に全軍で寄せてくる
信長にとってベターなのは鷲津・丸根砦に有力な今川別動隊が送られ、その別動隊が大高方面に分断され、鳴海城方面に来ない状態ぐらいでしょうか。そんな見殺し戦術を作戦会議で話すわけにもいかず
    其の世の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる
信長が動くのは信長公記より、

夜明け方に、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取かけ候由、追々御注進あり。(中略)螺福ふけ、具足よこせと、仰られ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。

今川別動隊が本隊と分断されている機会をとらえての出陣と見れないこともありません。信長公記にも時刻が出てくるのですが、当然の事として時計などありません。どうやって時刻を推定していたかですが、昼間は太陽の位置であるていど可能と思います。問題は夜になります。おそらくなのですが、

  1. 日没前後の2時間が酉の刻
  2. まだ西の空に明るさが残っている時間帯を戌の刻
  3. 東の空が白み始める頃を寅の刻、その前が丑の刻
  4. 夜明け前後が卯の刻
  5. 夜が明けきると辰の刻
信長が出陣したのは「夜明け前」となっていますから、卯の刻で午前5時ぐらいだったと推測されます。


善照寺まで

信長公記より

あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の刻に源太夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上がり候。

辰の刻は7時から9時ぐらいなのですが、信長は騎馬で駆け抜けたので早く着いたでしょうが、清州からの歩兵は三里なら3時間程度はかかります。3時間程度は信長は熱田神宮で兵が集まるのを待っていたと思われます。そこからの進路ですが、

浜手より御出で候へば、程近く候へども、塩満ちさし入り、御馬の通い是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取手へ御出で候て、夫より善照寺、佐久間居陣の取手へ御出であって、御人数立てられ、勢衆揃えさせられ、様体御覧じ

ここに描写されている進路については鎌倉街道と桶狭間の戦い の地図を見て欲しいのですが、

熱田から丹下砦に向かうには上中下の三道があります。「浜手」とは中の道からさらに下の道を通るものであったとしてよく、満潮のために使えず上の道から丹下砦、さらには善照寺砦に進んだとして良さそうです。


義元は何処

まずは

御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬休息これあり。

これは結果論で書かれていると思うのですが、最低限わかるのは桶狭間丘陵(手越川の南北の丘陵)のどこかの丘に本陣を置いているぐらいです。

牛の剋、戌亥に向かって人数を備へ、鷲津・丸根攻め落とし、満足これに過ぐべからざる由にて、謡を三番うたわせる由に候

戌亥とは北西になります。義元の次の攻略目標が鳴海城付城群であれば、桶狭間丘陵に本陣を置き、軍勢が北西方向に向かっていたとしても不思議はありません。注目したいのは午の刻です。これは現在でも正午の言葉が使われているように12時頃を指します。もう少し幅を広げれば11時から13時ぐらいの間ですが、午の刻には義元は桶狭間にいたことになります。これの具体性を考えてみたいです。

義元の作戦を仮にこう考えます。

  1. 5/18夜に大高城に別動隊による兵糧輸送と、未明から鷲津・丸根砦攻略を行う
  2. 5/19に鳴海城付城群攻撃のために沓掛城から桶狭間丘陵に本陣を移動する
義元も夜明けとともに沓掛城を出発し、桶狭間丘陵に本隊を展開し翌日の攻撃に備えて野戦築城していたと思うようになっています。鳴海城の付城は3つありますが、主目標はやはり善照寺であったと思われます。善照寺が落ちれば残りの2つは撤収を余儀なくされるぐらいでしょうか。鳴海城方面の作戦開始を5/20にした理由は、
  1. 5/19に攻撃予定であれば、そもそも桶狭間の信長の勝利はありえない
  2. 5/18時点で大高城別動隊は休養が必要だが、5/19になれば使える手駒になる(潮の状態によっては大高城からそのまま北上も可能)
明日の戦いに備えての陣どりであれば、善照寺砦を見下ろせる丘の上に本陣を構えたと考えたいところです。そうなると義元本陣から善照寺砦が見えたのなら、善照寺砦にいる信長からも義元本陣は見えたなんじゃなかろうかです。今川軍から見下ろされている状態の描写は具体的には、

信長御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深困の足入り、一騎打ちの道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。

これは佐々・千秋の突撃が惨敗に終わった後に信長が善照寺砦から中島砦に移動する時の描写ですが、今川軍陣地から確実に見下ろされている状態とはっきり書かれています。さらにその陣地は佐々・千秋の突撃を余裕で粉砕する布陣であったのも事実して良いかと思います。義元本陣での謡の話は、後から作者の太田牛一が聞いた話で付け加えた可能性は否定できませんが、歌声はともかく、踊っている様子が善照寺砦から見えた可能性は残ると思っています。


信長の思惑

とにもかくにも信長が鳴海城方面まで進出したのは、これをやらないと尾張での信長の求心力が地に落ちると考えたぐらいに思っています。とにかく織田軍が劣勢なのは織田の全軍が知っているわけであり、戦国期でなくともそういう状況になれば裏切りが続出します。大高城から鳴海城方面に今川軍が圧力をかけているのに、信長が清州籠城方針で動かなかったたら、尾張の諸勢力は雪崩を打って今川に付く可能性は十分にあります。また織田軍の中でも比較的精鋭は鳴海城・大高城方面に展開していた可能性が高いと見ています。信長にしてみれば最低限の戦略行動として、

  1. 最前線の鳴海方面に主力を率いて登場し、存在感を示す必要がある
  2. 退却するにしても鳴海方面に展開している軍勢を収容する必要がある
実はこれだけでも苦しくて、鳴海方面の兵をまとめて退却しただけでは信長の求心力は崩壊する可能性があります。最上は史実のように義元を打ち取って今川軍を撃破することですが、これは結果論としての僥倖で、鳴海方面で今川軍になんとか一撃を加え、形の上で勝った上での退却が求められると考えていた気がします。せめて今川軍の侵攻が鳴海ぐらいで留まってくれるぐらいの結果になれば上々ぐらいでしょうか。

善照寺砦から中島砦に進出した理由をあえて考えると、佐々・千秋部隊が敗れて動揺する織田軍に対し、あえてそれでも前に出る姿勢を示す必要を感じたからだと思います。信長が善照寺砦から中島砦まで進んだことで、織田軍は佐々・千秋の敗戦の動揺が鎮まったんじゃないかと思うからです。


さて佐々・千秋部隊がどこにいて、どこの今川軍に対して突撃したかは信長公記には書かれていません。出典は不明ですがwikiprdiaには、

正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。

中島砦は位置的に桶狭間道方面の備えぐらいに考えています。ですので佐々・千秋は桶狭間道に突撃した可能性が高いと考えています。この突撃と惨敗の様子は善照寺砦いた信長にも見えた可能性は十分にあるはずです。つまりは桶狭間道への攻撃は無理であるとの判断材料になったと思います。それでも善照寺砦から中島砦に信長は進んでいますが、この時に信長は軍勢を義元にさらしています。なぜにそうしたかは不明なのですが、結果として信長は新たな情報を手に入れた気がします。

それは今川軍が5/19には動かない感触です。信長の目的は今川軍のどこかに一撃を喰らわせることですから、チャンスは大高城別動隊が動けず、本隊も待機している今しかないとの判断になったと推測します。


最後に残る謎

信長公記より、

山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかかる。

ここが問題の個所で「山際」とは一体どこなんだろうです。まず注意深く読み直すと、雷雨が降り始めたのは中島砦から山際に移動した後であるのがわかります。ここも地図があった方がわかりやすいと思いますから明治期の地図で示します。

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佐々・千秋はwikiprdiaを信じれば中島砦の前方にいたわけでから、突撃方向としては江戸期東海道でもある桶狭間道であったと考えるのが妥当です。また善照寺砦から中島砦への移動に際し、軍勢の規模が丸見えになるとの懸念の記述がありますから、5/19の午の刻の今川軍は桶狭間道だけではなく、その南北の丘陵地帯にも陣地を敷いていたとして良いでしょう。仮に山際を桶狭間道方面と考えると、ほんの少し前に佐々・千秋が惨敗したところになり、そんなところに軍勢を集め、なおかつ雷雨があったにしても義元本陣までたどり着けるとは思いにくいところです。ちなみに義元本陣への突入時刻は、

旗本は是なり、是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向かってかかり給う。

これは義元本陣潰走時の描写ですが、未の刻とは13時から15時ぐらいになります。長く見れば3時間ぐらい、短くみれば1時間ぐらいになりますが、それだけの間、今川軍に気づかれなかったとするのは無理があると素直に思います。では桶狭間道でなく扇川に沿って桶狭間丘陵の北側を進んだはどうでしょうか。これも雷雨とはいえ「丸見え」状態であり、なおかつ今川軍にとっては織田軍が近づいて来るわけですから、これを漫然と見逃したは無理がありそうな気がします。

とにかく織田軍は雷雨があったとはいえ、義元本陣突撃まで今川軍に気づかれていなかったと考えるべきだと思います。そうなると織田軍の進路は今川軍から見えなくなる必要が出てきます。また織田軍は小勢とはいえ2000人ぐらいはいます。それだけの軍勢を道なき道を雷雨の中を進ませるのも無理があります。そうなると残るのは中島砦方面から善照寺砦、さらには丹下砦を抜けて鎌倉往還に進んだと考えるのが一番可能性があります。そういうルートを取れば、

  1. 今川軍の視界から織田軍は消える
  2. 織田軍が撤退したと思う
今川軍にとっては追い討ちをかけるチャンスでもありますが、雷雨なのでやめたぐらいです。この鎌倉往還ルートの場合、扇川の上流に織田軍は進出することになります。つまりは桶狭間丘陵を北側から強襲する形になります。ちなみに強襲時の天候は、

空晴るるを御覧じ、信長鑓をおつ取って、大音声を上げて、

雷雨は信長突撃時にはやみ、晴れていたとなっています。中島砦から山際に移動していた時に降り始めた雷雨は義元本陣突撃時は晴れになっていたと良いようです。今川軍は戌亥の方角に注意して布陣していたとなっていましたから、鎌倉往還を通った織田軍は今川軍のある種の死角に出現できたぐらいでしょうか。そこから義元本陣に突撃するのですが、崩れた義元本陣から義元は脱出します。

初めは三百騎計り真ん丸になって義元を囲み引きたるが、二三度、四五度、帰し合い、帰し合い、次第次第に無人となって後には五十騎ばかりに成りたる也。

おそらく義元の旗本衆だと思いますが、最初は300人ぐらいの集団で逃げます。信長公記に東に追いかけたとなっていますから、丘の上の本陣から桶狭間道に下り、沓掛城方向へ逃げたと考えるのが自然です。

義元が戦死した場所も不明といえば不明なのですが、ここも仮に伝義元墓の地だったとします。そこで戦死するには、おけはざま山が桶狭間道の北側にあった場合は自然です。北側から攻め落とされて桶狭間道を東に逃げる途中で討死です。これが桶狭間道の南側にあった場合は難解になります。信長が北側丘陵ルートであろうが、桶狭間道を通ろうが義元本陣へは南側から攻め寄せることになります。義元が伝義元墓の地に至るには、織田軍を突破しないとなりません。これはかなり無理があります。

そうなると織田軍は中島砦から南に回り込んで、南側から義元本陣を襲う必要があります。潮が引き始めて大高城方面へのルートが通行可能になっていたかもしれませんが、距離と時間が間に合うかどうかです。それと強襲が史実の様に成功すれば良いですが、どう考えても僥倖ですから、今川軍を突き崩せない場合は、今度は大高城方面の別動隊と合わせて袋の鼠になる危険もあります。そこまでの博打を打ったとは思いにくいところです。何回も桶狭間をやりましたが、

  1. 義元は桶狭間道の北側丘陵に本陣を構えていた
  2. 信長はこれを北側から強襲した
それにしても中島砦までの進軍路については作者の太田牛一はかなり詳細に記録してくれているのですが、中島砦から後は正直なところ曖昧模糊としており信長の足跡を追うのが困難になります。たぶんなんですが、太田牛一が決戦前の興奮で血が頭に昇りきり、途中から自分がどこにいるのかわからなくなった気がしています。それは仕方ないと思うのですが、他に信憑性がある記録が残らなかったのは残念ですが、こうやって何回もムックする楽しみが残ったので良かったのかも?