梁田政綱からの桶狭間雑考

例の小説のために桶狭間を調べ直していた時に思ったお話です。梁田政綱については桶狭間の合戦余談・梁田政綱ムックでやりましたがまずは復習です。とりあえず実在の人物で信長公記にも

御家老の御衆、友閑は宮内卿法印。タ庵は二位法印。明智十兵衛は、維任日向になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ、忝きの次第なり。

これは天正3年(1575)のお話で、明智光秀の惟任、丹羽長秀の惟住と並んで梁田左衛門太郎が別喜(= 戸次)への改姓を命じられています。他にも合戦での奮闘ぶりや

賀州能美郡.江沼郡、二郡御手に属すの間、檜屋城、大正寺山、ニツこしらへ、別喜右近、佐々権左衛門、江相加へ、入れ置かせられ

加賀で城主になったりもしてる重臣だったと見て良いでしょう。他にも梁田氏が根拠地であった九之坪(西春日井郡西春町大字九之坪)の氏神の十所社の棟札には

永禄二年(1559年)九之坪の領主梁田出羽守社殿を造営し、天正十年(1582年)梁田弥冶右衛門社殿を寄進

永禄2年は桶狭間の前年ですから梁田出羽守が翌年の桶狭間の合戦に参加していた可能性は十分にあります。梁田出羽守の名前は永禄10年(1567)の紹巴富士細見記にも見られ沓掛城主でもあったとなっているですから、桶狭間合戦当時の梁田家の当主は出羽守であったと見て良さそうで、少なくとも天正3年まではそうであったと見ても良いかと考えます。一方で左衛門太郎は少なくとも元亀元年(1570)の姉川の合戦には明記されていますから、

    出羽守 = 左衛門太郎
この可能性は出てきますが、出羽守が梁田家の世襲名の可能性も残るので左衛門太郎が政綱ではなく、政綱の息子の可能性もあります。それと政綱の諱ですが、寛永2年(1624)成立の三河風土記にのみしか残されておらず、本当に政綱であったのかどうかについても不確かな部分は残ります。いずれにしても政綱に該当しそうな人物が桶狭間の合戦に梁田の姓で参加していた可能性は高く、少なくとも物頭クラスの末席ぐらいにはいたと考えても良いとは思われます。


梁田弥次右衛門

左衛門太郎の他にもう1人梁田姓の人物が信長公記の首巻に登場します。

さる程に、武衛様の臣下に簗田弥次右衛門とて、一僕の人あり。面白き巧みにて知行過分に取り、大名になられ侯子細は、

武衛とは尾張守護の斯波義統の時で良いと思うのですが、義統の家臣の梁田弥次右衛門のエピソードが載せられています。「知行過分に取り、大名になられ侯」の理由は、

弥次右衛門、上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣、内々申し上ぐるに付いて、御満足斜ならず。

これだけじゃわかりにくいので補足が要りますが、斯波家は守護ですが弱体化して下四郡守護代家の大和守家に庇護される状態でした。信長と大和守家は対立関係なのですが、大和守家の有力家臣に那古屋弥五郎というのがおり、弥五郎と弥次右衛門は男色関係で二人が信長への離反を共謀し、他の大和守家臣も引き込んで信長に報告します。どうも信長への直接の使者に立ったのが弥次右衛門だったようで信長に大いに喜ばれたってお話です。このエピソードの後に斯波義統は大和守家に攻められて自害し、これに対して信長が動き大和守家は滅ばされるのですが、弥次右衛門は大名に取り立てられたとなっています。

ちょっと引っかかるのはこの時代の大名の定義です。江戸期には1万石以上を大名としていますが、この時代はもう少し大雑把で比較的多くの所領を持つ者ぐらいの意味にも使われたようです。それでも1万石近くはあったかもしれません。この頃の尾張の実高が50万石程度とすれば相当な厚遇であり、厚遇であったから太田牛一も驚きをもって信長公記に書き記したと考えられます。

関心は何故に信長はこれだけの厚遇を与えたかになりますが、内応の功は当然あるだけでなく、弥次右衛門の器量も評価していたはずです。信長は無能な人物を引き立てたりはしないからです。他にも理由を考えれば、明智光秀の例が思い出されます。光秀も非常に有能な人物でしたが、期待された役割に旧幕臣の吸収もあった気がします。ひょっとして斯波家の旧臣の吸収も期待されていたのかもしれません。

弥次右衛門が大名になった時期は義統が自害した天文23年(1554)頃と考えられますが、この時に与えられた所領が九之坪であったと見て良さそうです。さて弥次右衛門の年齢ですが、男色相手の那古屋弥五郎は16〜17歳となっています。であれば弥次右衛門も同年輩の可能性があります。この若さも太田牛一を驚かせたかもしれませんが、そうであれば桶狭間の時には20歳過ぎぐらいになる可能性が出てきます。話を継げば年齢的に

    弥次右衛門 = 出羽守 = 左衛門太郎 = 政綱
この関係が成立します。


政綱の桶狭間の手柄

これは2つ伝えられています

  1. 中島砦から出撃する信長の強襲案に重臣が反対する中で政綱が強くこれを支持して桶狭間の勝利に導いた
  2. 義元本陣への奇襲を模索する信長に本陣の所在地を知らせた
この2つの話の出どころですが信長公記にはありません。ないどころか信長公記桶狭間には政綱自体が出てきません。私が調べた範囲では1.は甫庵信長記から、2.は甫庵太閤記からが初出と見て良さそうです。小瀬甫庵が政綱の桶狭間の手柄を2つとも初出で書いている点に興味を抱きます。また政綱の手柄が義元の首を取った毛利新介より重かったとしている話も甫庵太閤記が初出の可能性が大です。どうもなんですが、政綱の桶狭間の手柄はすべて甫庵の創作ではないかと考えられます。甫庵信長記が元和8年(1622)、甫庵太閤記寛永3年(1625)に出版なので、政綱の手柄について甫庵が明確な根拠を持っていたのなら、手柄の内容がこれほど変わるのは妙だからです。


甫庵が信長記なり太閤記を書くにあたり太田牛一信長公記を参考にしたのは間違いありませんが、信長公記桶狭間では中島砦からの信長の足取りがはっきりしません。具体的には最終的に義元本陣に突撃したのはわかりますが、どういう経路を通って、どこにある義元本陣を襲ったのかが非常に読み取りにくいのです。私も悪戦苦闘しましたが、甫庵もまた同様でおそらく

    信長の襲撃ルートは不明
こういう結論に達したと考えています。不明となれば自由に描ける範囲が飛躍的に増えます。甫庵得意の創作です。まあ商売にする読み物を書くのが甫庵の仕事ですから創作したことを非難できませんが、信長公記の記述を少なくとも2点改変しています。
  1. おけはざま山の義元本陣を桶狭間のどこかの谷間に変更
  2. 信長が義元本陣に突撃した時には「空晴るゝを御覧じ」なのを雷雨の中に変更
これが長い間信じられ流布され定着し、数えきれないぐらい映像化された桶狭間合戦のシーンとなっています。しかし事実は雷雨の中を信長は移動し、雷雨が上がったところを信長は桶狭間山の義元本陣に突撃している訳です。私は甫庵がもう一つ創作した部分があるとして良いと考えています。甫庵太閤記の政綱の手柄の原因である
    義元本陣の所在地が不明だった
信長公記桶狭間は首巻に書かれていますが、研究では最も後に書かれたものではないかとされています。信長公記にも今川陣内の動きが書かれていますが、これは太田牛一が従軍者として実際に見たり聞いたり出来るはずもないので、後から聞いて付け加えたのは間違いないところです。ただなんですが善照寺砦なり、中島砦から見えたものは事実として見れます。たとえば

御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。

後の太田牛一の伝聞とも解釈は可能ですが、一方で義元は桶狭間山に陣を構えていたのが見えていたと解釈できます。また

佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ

ここの義元を今川軍と置き換えて読むことも可能ですが、佐々・千秋は義元本陣が見えたのでそこに向かって突撃したとも十分に解釈できます。佐々・千秋の突撃は謎が多いのですが、義元本陣が見えたので信長が善照寺に到着すれば決戦の先駆けとして突撃したと解釈する事もできるからです。

本陣の位置を隠すか隠さないかは合戦の状況によっては変わると思いますが、桶狭間の場合は義元が隠す必然性に乏しいと考えます。本陣は敵の攻撃目標になりやすいですが、本陣とは司令部であり、ここから合戦場を見渡して采配を揮ったり、将兵の戦いぶりを督戦するところでもあります。たしかに本陣は敵の攻撃目標になりますが、一方で敵の攻撃ルートも絞れるところがあり、織田軍より優勢の今川軍は本陣を明示することにより小勢の織田軍を誘い込んで袋叩きにする戦術も取れるわけです。私は美々しく飾った堂々の本陣を義元が桶狭間山に構え、これが織田軍にも見えたと思います。

ではなぜに甫庵が義元本陣の位置を不明にしたかというと甫庵の脚色だと思います。今川が大軍で織田が小勢であるのはこれ以上の脚色の必要はありませんが、大軍である今川軍が無残にも負けた部分に脚色を加えたと考えています。そこで出て来た創作が義元の油断で、あの有名な酒盛りのシーンです。これはおそらく信長公記

鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯

ここから酒宴まで甫庵は話を盛ったと見て良い気がします。さらにがあって義元の油断を強調するために酒盛りの場所に創作を加えます。酒宴は沓掛城からの移動中に設定し、さらに酒宴場所を谷間に移します。つまり谷間で勝利の酒宴をやっているところに雷雨を降らせて信長が駆け降りるシーンを演出したぐらいです。こういう演出をした時に伴って出てきた問題点は、

    義元の所在地が不明になってしまう
そりゃ義元は移動中ですから、どこに義元がいるかは善照寺砦なり、中島砦からは見え様がありません。誰かが探し出して信長に報告しないとなりませんから政綱が登場する次第でしょうか。これが甫庵の創作である証拠としては佐々・千秋隊が壊滅した後にも

是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯

こうなってる訳ですから、もし甫庵の酒盛りが事実なら鷲津・丸根砦陥落から佐々・千秋隊の敗北、さらにそこから信長が襲いかかるまで延々と酒盛りを続けていなくてはなりません。そりゃ、そんな事をしていれば負けるのは納得できますが、義元はそんなバカ殿ではないのは明らかですから、甫庵の創作だと結論できます。それと甫庵の創作にはまだ無理があります。義元はこの時にどこに向かっていたかです。可能性としては2つで

  1. 付城群が排除された大高城
  2. 鳴海城方面
大高城に関しては信長公記に元康に居陣を命じたとなっています。大高城と鳴海城の付城群の排除はセットの戦略であり、別動隊が大高城に向かったのなら義元本隊は鳴海城方面に向かう以外に考えられません。沓掛城から鳴海城までの距離を考えても、義元は本陣予定地に直進していた訳で、仮に緒戦の勝利の祝杯を挙げたとしても本陣到着後になると考えるのが普通です。



ついでに甫庵信長記の政義の手柄部分は信長公記

中島より叉、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども

信長の中島砦からの出撃に重臣が反対しているのは間違いないですが、信長は独りで振りきって出撃したとなっています。政綱が強く支持した結果なら、広くもない中島砦内の事ですし、他の重臣が信長の出撃を思いとどまらせようとした描写までありますし、さらにこれが勲功第一等なら太田牛一も一言ぐらい触れるはずです。甫庵の桶狭間をまとめておくと、

  1. 義元は沓掛城から「どこか」へ移動中であった
  2. そこに鷲津・丸根砦陥落の報が届き、「どこか」の谷間で祝勝の酒盛りを始め信長に襲われるまでそこにいた
  3. 酒盛り中の義元を政綱が発見し信長に報告
  4. 雷雨の中を信長が突撃して義元は討ち取られる
この話が長い間(今もなお)、事実として信じられていたのは私も同様ですから、甫庵の創作力は卓越していたとは思います。


信長は襲撃ルートを知っていたはず

義元本陣の位置がわかっている状況で奇襲をかけるためには迂回ルートが必要になりますが、このルートの道案内を政綱がしたのではないかの考え方は出てきます。これについても私は懐疑的で、鳴海城・大高城の付城群は永禄2年に築かれていますが、この時に信長が他人任せにしたとは思えないからです。清州から日帰り圏内ですから、信長自身が見て付城の設置位置も直接指示していたと見た方が自然な気がします。また付城群が出来てから信長が一度も鳴海方面に顔を出さなかったとするのも不自然です。

鳴海城・大高城に付城群を築くとなれば、やがて今川軍がこれを救援するために襲来するのは必至で、その時には鳴海方面で今川軍と戦う事になります。史実のような大軍であることまで予想していなかったかもしれませんが、それなりの規模の今川軍を迎え撃つことは予期していなければ嘘でしょう。そうであれば、付城群だけではなく鎌倉往還、桶狭間道、さらには可能な範囲で桶狭間丘陵も自分で歩き、自分の目で確認していたはずです。信長とはそういう行動力がある人物であるはずです。信長は鳴海・大高付近の地形を熟知して義元を迎え撃ったと私は見ます。


沓掛城主

桶狭間後に信長は鳴海城・大高城だけではなく沓掛城も手に入れます。沓掛城は三河の最前線基地ですから信長にとって重要な戦略拠点であり、信頼ができ、有能な人材を城主に命じたと考えています。ただ織徳同盟が成立すると重要度が下がり、どちらかというと後方警備の色彩が濃くなる気もします。政綱が沓掛城主であったのは紹巴の記録から確認できますが、いつからかは不明です。なんとなくですが信長公記姉川のところで、

殿に諸手の鉄炮五百挺、並に御弓の衆三十計り相加へられ、簗田左衛門太郎、中条将監、佐々内蔵介両三人御奉行として相添へられ候。敵の足軽近々と引き付け、簗田左衛門太郎は中筋より少し左へ付きて、のがれ侯。乱れ懸かつて、引き付け侯を、帰し合ひ、帰し合ひ、散々に暫し戦ふ。太田孫右衛門頸をとり、罷り退かれ、御褒美斜ならず。

これは姉川の前哨戦段階ですが、この時の功績で沓掛城主を命じられた気もしています。これも領知付きの城主なのか、城代みたいな形であったのか不明ですが、梁田左衛門太郎自身は信長公記を読む限り最前線で活躍していたようですから、ある程度領知付きであった気もしています。それにしても甫庵はなぜ政綱をあんなに取り上げたのかは一つの謎です。やはり最初の内通で過分の褒美を得たエピソードからかなぁ。