桶狭間の合戦余談・梁田政綱ムック

梁田政綱と言えばお手軽にwikipediaより、

桶狭間の戦いの功績の内容は不明だが、一説には、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝え、義元の首を挙げた毛利良勝よりもその功績は大きいとして、沓掛城主となったという。

恥ずかしながら結構長い間史実と思ってましたが、これもwikipediaより、

しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗者である今川家にはこの前後の感状が残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。

ほんじゃ出どころはになりますが、またまたwakipediaより、

簗田出羽守の勲功第一という表現に比較的近いものは、小瀬甫庵の『信長記』や『武家事紀』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分

甫庵信長記を読んでみましたが、該当しそうな部分を見つけられませんでした。そうなると武家事紀を読まにゃなりません。


武家事紀

武家事紀は山鹿素行が書いたもので延宝元年(1673)の序文があります。さっそく梁田政綱の部分を書き起こしてみます。

戸次右近大夫、初名梁田出雲守。信長にツカヘテ戦功アリ、桶間合戦ニ、信長自義元ノ旗本へカケ入テ、勝負スヘシト議セラル、群臣アヤフミテ不一決梁田一人信長ト議ヲ一ニシテ、竟に義元カ旗本ヘ押カカリ、義元ヲ討捕、由此信長軍功ヲ賞シ沓掛三千貫ノ領知ヲ梁田ニ賜う(毛利新介得義元首梁田賞賜倍毛利)。元亀元年、小谷放火、八相退口ニ、抜鉄砲五百挺、騎射五十人ヲサツケテ殿タラシム(一梁田、二佐々、三中條)。天正3年、加越平均ノ時、加賀国ヲ賜テ敷地ノ天神山ニ在城ス、同年賜戸次氏改左京大夫、而メ加州一揆蜂起、天神山ノ在城不叶メ大聖寺ニ引退、因っ此加賀国ヲ佐久間玄蕃允政盛ニワタシ、安土ニ蟄居スル也

ちなみに桶狭間以外の事績は信長公記で確認可能な部分が多く、

武家事紀 信長公記
賜戸次氏改左京大夫 簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ
加賀国ヲ賜テ敷地ノ天神山ニ在城ス 賀州能美郡.江沼郡、二郡御手に属すの間、檜屋城、大正寺山、ニツこしらへ、別喜右近、佐々権左衛門、江相加へ、入れ置かせられ、
八相退口ニ、抜鉄砲五百挺、騎射五十人ヲサツケテ殿タラシム(一梁田、二佐々、三中條) 殿に諸手の鉄炮五百挺、?に御弓の衆三十計り相加へられ、簗田左衛門太郎、中条将監、佐々内蔵介両三人御奉行として相添へられ候。敵の足軽近々と引き付け、簗田左衛門太郎は中筋より少し左へ付きて、のがれ侯。
梁田政綱が簗田左衛門太郎が同一人物なのか、それとも親子なのかは見解が分かれるところのようですが、実在の人物であるのは間違いありません。実在どころか信長公記

御家老の御衆、友閑は宮内卿法印。タ庵は二位法印。明智十兵衛は、維任日向になされ、簗田左衛門太郎は別喜右近に仰せ付けられ、丹羽五郎左衛門は惟住にさせられ、忝きの次第なり。

簗田左衛門太郎が家老であったのも確認できます。


手柄部分

武家事紀が参考にしたんじゃないかと思われる資料を挙げてみます。

作品名 著者 年代 内容
信長公記 太田牛一 江戸初期 記述無し
甫庵信長記 小瀬甫庵 元和8年(1622) 梁田出羽守進来テ仰最可然候 敵ハ今朝鷲津丸根ヲ責テ其陣ヲ不可易然レハ此分ニ懸ラセ給ヘハ敵ノ後陣ハ先陣也 是ハ後陣ヘ懸リ合フ間必大将ヲ討事モ候シ只急セ給ヘト申上ケレハイシクモ申ツル者哉ト高声ニ宣フ
三河風土記 不詳 寛永2年(1624) 梁田出羽守政綱仰尤ニ候 敵ハ昨日城ヲ攻メシ陣ヲ不改此道筋ノ押寄セハ必敵ノ後ニ出テ大将ヲ討事アラン急キ玉ヘト云ケレバ
武家事記 山鹿素行 延宝元年(1673) 桶間合戦ニ、信長自義元ノ旗本へカケ入テ、勝負スヘシト議セラル、群臣アヤフミテ不一決梁田一人信長ト議ヲ一ニシテ、竟に義元カ旗本ヘ押カカリ
信長公記には梁田政綱はまったく出てこないのですが、甫庵信長記三河風土記には出てきます。ほいでもって甫庵信長記三河風土記の内容は非常に似ています。とくに甫庵信長記信長公記の中島砦への移動に際し重臣が止めに入ったシーンも取り入れていますから、武家事紀は甫庵信長記を参考にした可能性があります。甫庵信長記を参考にした傍証として三河風土記には「政綱」の名前が出ていますが、これは残された資料で唯一名前が出ているものだそうですから、武家事紀では政綱の名が無い点から三河風土記ではなく甫庵信長記を参考資料にした可能性が高いと考えます。三河風土記の政綱の名が出ている個所を見てもらいます。

20170323183306

この三河風土記も内容から甫庵信長記の影響はありそうな気はしています。推定成立年代が甫庵信長記の後と考えられていますし、信長公記には梁田政綱は出てきません。ただどこから「政綱」が出て来たかは不明です。どこからと言えば武家事紀が「出雲守」としている根拠が不明ですが、書き間違いの可能性はあります。

それと手柄部分の記述ですが、迂回襲撃すれば義元を打ち取れると甫庵信長記でも三河風土記でも書かれていますが、私が覚えている梁田政綱が義元本陣を見つけて報告し、信長がそれを聞いて動いたエピソードがありません。後方からの襲撃案は信長が出して、重臣たちが反対する中で梁田政綱が信長の意見に強力に賛成したとなっているだけです。なんとなく甫庵信長記のこの部分が後年にさらに膨らんだぐらいが想像されます。


沓掛城主

甫庵信長記桶狭間部分を隅から隅まで読んでも見当たらないのを遺憾としますが、武家事紀には政綱に毛利新介の2倍の3000貫の所領を沓掛に与えたとしています。wikipediaより、

簗田出羽守(政綱)が沓掛の領主であった事は、里村紹巴の『紹巴富士見道記』にも見られる。

紹巴富士見道記とは永禄10年に紹巴が富士を見るために駿河に行った記録で、同時代人の記録であり客観性の高い資料と考えられます。ネット時代は有難いものでこれも目にすることができます。ただ出来るんのですが殆ど読めません。これは純粋に私の能力不足で流麗な崩し字が読めないのです。それでも頑張って梁田政綱の名が出てくるところを見つけ出しました。出てくるのは全部で2ヶ所で

20170323185502

4行目の下の方から5行目にかけて「梁田出羽守息 酒もたせ給えるに」と読むのだそうです。もう1ヶ所は「時鳥」から始まる1句が書いてあって、その次の行に「○○○○城○○出羽守」とあります。それ以外には私が探す限り梁田政綱は出てきません。

読めるところを断片的に解釈するとまず「廿日」に九坪松元院に行っているのがわかります。この松元院は曹洞宗・月峰山松元院として健在です。健在なんですが何度も衰微・中断を繰り返して紹巴が訪れた時の住職は不明だそうです。でもって松元院には九之坪(西春日井郡西春町大字九之坪)にあり、そこの氏神十所社には、

神社の棟札によれば「永禄二年(1559年)九之坪の領主梁田出羽守社殿を造営し、天正十年(1582年)梁田弥冶右衛門社殿を寄進」とある。

桶狭間の合戦は永禄3年ですから、梁田出羽守が社殿を造営したのはその前年になります。九之坪にも城はあり、ここは梁田氏が城主であったとなっていますが沓掛に3000貫をもらっても九之坪城主であった点は変わっていなかったので、紹巴がやってきたら出羽守の息子が接待にでたぐらいにも見えます。たしかにそう見ても良いのですが、梁田出羽守が関係しそうな城名は、

20170323192641

これしか見当たらないのですが、これがいくら崩し字だからといって「沓掛」とか「くつかけ」と読めるかというとチト疑問です。紹巴富士見道記のどこに梁田出羽守が沓掛城主であるかを書いてあるかは謎として残った次第です。


感想

梁田政綱(ないしその子)は信長の重臣であったのは確実で、桶狭間以降の合戦で活躍しているのも史実として良さそうです。ただ一番有名になった桶狭間の手柄については曖昧な部分が多そうの感触だけ残りました。ムックした範囲で武家事紀の沓掛3000貫の論拠はwikipediaより、

太閤記』によると、桶狭間の戦いの戦功によって3,000貫文の知行と沓掛城を与えられたとしている。

まさかと思いますが、これしかないのかもしれません。ちなみに甫庵信長記が元和8年(1622)、甫庵太閤記寛永3年(1625)に出版されたとなっていますから、小瀬甫庵信長記を書き終えて太閤記を書いた時に話が膨らんだ可能性が一つあります。ただ梁田政綱が沓掛城主でなかったかといえばこれも言い過ぎで、重臣の一人として対三河の前線基地である沓掛城主になったのはあり得ます。

甫庵の作品には脚色部分が多いのですが、どこかで甫庵が梁田政綱が桶狭間の後に一時的に沓掛城主であった話を聞き、そこを膨らませて有名なエピソードに仕立て上げた感触はあります。まあ甫庵の信長記にしろ太閤記にしろ現在でこそ歴史資料としての評価は低くなっていますが、私の子ども時代の教科書レベルでも甫庵の説が史実として扱われていましたから、江戸期ならなおさらであったぐらいがムックの感想です。現在でも司馬遼太郎作品の歴史が史実であると信じて疑わない人がいるのと似ている感じですかねぇ。