歴女の会の代表は私とサキちゃん。これにコトリ先輩が加わります。サキちゃんも尻込みしてましたが、とりあえず歴女の会で一番の信長ミーハーなので、他よりマシだろうと受けてもらっています。私とサキちゃんは及ばずながら桶狭間の勉強をやりました。負けるにしても、あまりにみじめな姿をさらしたくない一心です。
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「でもシノブちゃんさぁ」
「なにサキちゃん」
「歴研の人たちはスノブな質問するんでしょうねぇ」
「う〜ん」
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「でもね、歴女の会が公認サークルでなくなっても続けようね」
「うん。歴研なんかと一緒にやれないもんね」
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「私が司会と審判をやるからよろしく」
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「わざわざ常務の手を煩わせるような問題では・・・」
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「ほほう。この討論会は歴女の会に十分な歴史知識があるかどうかをテストするものと聞いたが」
「はい、そうです」
「では、誰が判定するのかね」
「それは、我々歴研のメンバーが・・・」
「それはおかしいだろう。こういうジャッジは第三者が行うべきじゃないのかね」
「でも、その、今回の討論会の取り決めとして・・・」
「私では第三者のジャッジとして適していないと言うのかね」
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「臨時の助っ人は歴研として認められないのだが」
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「小島君は歴女の会の初代会長だ。出場資格に問題はないと思うが」
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「今回の判定基準は歴女の会に歴史知識が十分あるかを歴研が判断するであったが、これを少し変更して、審判である私が判断する。双方に異議はないね」
ただ、それでも圧倒的に不利な状況には変わりありません。高野常務とコトリ先輩の登場によって、絶対に勝てないから、ゼロではない程度にしか状況は良くなっていないからです。基本的な状況設定は、歴研側が圧倒的に有利な状況に変わりないからです。討論会は歴研側の先攻と言うか、歴研側が口火を切って始まりました。
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「お嬢さん方、頑張って勉強していたみたいだね。まずはお手並み拝見といこうか。信長は鳴海城、大高城攻略を目指して付城群を築いたが、どんなものがあるか知っているかい」
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「鳴海城には丹下砦、善照寺砦、中島砦。大高城には鷲津砦、丸根砦です」
「なかなか良く勉強しているようだ」
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「他はありませんか」
「他ってどういう意味かな・・・」
「大高城には正光寺砦、向山砦、氷上山砦が確認されています。他にもあったとの説もありますが、御存じありませんか?」
「あぁ、そんなのもあったな・・・」
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「梁田政綱について知っているかね」
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「義元の居場所を信長に知らせて奇襲を成功させています」
「それは太閤記だね。でもね、信長記では出撃を反対する重臣たちの中で信長を一人強力に支持したとなってるんだよ。まあ、信長記の原文は漢文なので君たちには読めないだろうけどね」
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「小瀬甫庵の信長記、太閤記ですよね」
「そうだが」
「甫庵信長記が元和二年、甫庵太閤記が寛永三年に出版されてますよね」
「そうだったかな」
「同じ作者なのに、たった四年の間に梁田政綱の功績が変わるのは変だと思いませんか」
「それは、その、まあそうなんだが・・・」
「私は梁田政綱の桶狭間での活躍自体が甫庵の創作だと考えています」
「なにを言いだすのだ」
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「それなら小島課長は梁田政綱が架空の人物とでも言うつもりか」
「いいえ梁田政綱に該当する人物は確実に存在します。梁田出羽守が九之坪の城主であった証拠は神社の棟札にも残されていますし、後に信長が明智光秀に惟任、丹羽長秀に惟住の姓を与えた時に、梁田左衛門太郎は二人に並んで戸次の姓を与えられています」
「そう、そうだよな」
「さらに梁田出羽守は紹巴富士細見記には沓掛城主として記録されています」
「紹巴って連歌師の里村紹巴だよね・・・」
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「そもそも政綱の諱はどこで確認できますか」
「そんなものはあちこちに」
「私の知る限り、三河後風土記に梁田出羽守政綱とあるだけです」
「そうだったっけ」
「梁田政綱の業績は甫庵信長記、甫庵太閤記以外に記録はありますか」
「それは三河後風土記もそうだし、えっと、えっと、山鹿素行の武家事紀にもある」
「三河後風土記にしろ、山鹿素行の武家事紀にしろ、成立は甫庵信長記、甫庵信長記の後です。そのうえ内容は甫庵信長記、甫庵太閤記に類似しております」
「えっと、そうだったよな」
「梁田政綱の桶狭間での活躍は甫庵信長記、甫庵太閤記から受け継いだものと見るのが自然だと考えています」
「だからと言って大元の甫庵信長記が信じられない理由にならないだろう」
「甫庵は流行作家として優れていたとは思いますが、正確な歴史記録者とは言えないと考えています」
「どういうことだ」
「甫庵が信長記を書くにあたって種本にしたものはなんですか」
「えっと、えっと、それは・・・信長公記じゃないかな」
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「そうです。甫庵が種本にしたのは太田牛一の信長公記です。その信長公記に対して甫庵は『愚にして直な』つまり馬鹿正直すぎると評価しています。これは甫庵が、歴史としての真実より、物語の面白さ、創作を優先させている証拠と言えます。ここから考えると太田牛一の信長公記にこそ歴史の真実があると見るべきかと。その信長公記の桶狭間部分には梁田政綱の名は一切出てきません」
「あぁ・・・」
「甫庵は政綱の功績は義元の首を取った毛利小平太以上の手柄としていますが、実際に参戦した太田牛一が一言も触れていないのは不自然です。さらにそれだけの手柄の内容がたった四年間で変わるのも不自然すぎます」
「うぅ・・・」
「義元の酒盛りについても、信長公記では佐々隼人正、千秋四郎の謎とされる突撃の後に謡があったとは信長公記に記録されていますが、酒盛りとは書かれておりません。言うまでもないかもしれませんが、信長公記では午の刻には義元は『おけはざま山』に本陣を構えたとなっています。桶狭間は後の江戸期東海道、現在の国道一号線ですが、地形的に南北の丘陵地帯の谷間になっております。そういう地形ですから、陣を構えるなら谷間でなく、山というより丘の上が戦術上の常識かと」
「でも、信長記には・・・」
「太田牛一は実際に合戦に従軍しています。そして、従軍した者が書いた記録は信長公記のみです。小瀬甫庵は、太田牛一の信長記をベースに脚色と創作を施しただけです。どちらに歴史の真実がより多く含まれるかは、言うまでもないかと」
「甫庵も信長記や太閤記を書くにあたって取材をしたとなってるが・・・」
「ではどういうルートを取って信長は義元本陣の襲撃に成功したとお考えですが」
「だから義元が油断して酒盛りしているところを梁田政綱が発見して・・・」
「それは太閤記と先ほど仰ったばかりじゃないですか。信長記では重臣が反対する出撃を政綱が支持したのを功績、太閤記では義元が谷間で酒盛りしているのを発見したのを功績。四年間で甫庵の記述が変わったのは、甫庵の脚色と創作の小道具として政綱が使われただけではないかと私は考えます」
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「もう今日の討議の目的は十分に果たしたと思うので判定を下したい。双方に異議がありますか」
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「まだ話は始まったばかりで、小島課長の説が正しいかどうかは・・・」
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「個人的には小島君の説をもう少し聞いていたい。しかし、今回の討論会の趣旨は説の真否を判定するのではなく、あくまでも説を立てるのに十分な知識量があるかどうかだ。歴研の諸君と、これだけ渡り合える知識があるのは既に証明されたと私は判定する」
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「高野常務の判断に異議はございません」
「では歴研と歴女の会の統合話はこれで無かったことになります。このことは私が報告しておきます」
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「つまんなかった」
「そうなんですか」
「あんな入口みたいなところで歴研が詰まっちゃったんだもん」
「あれが・・・入口ですか」
「久しぶりに本格的な歴史ムック楽しめると思ったのに」