前に散々やったのですが、これまでの知見も踏まえてもう一度やってみたいと思います。
桶狭間の合戦の経緯がわかる重要資料として信長公記があります。信長公記は実際に桶狭間合戦に従軍した太田牛一が書いたもので、おそらくこれ以上正確な資料はないと思われます。もちろん信長公記とてどこにも間違いがないとは言えませんが、たとえば甲陽軍鑑が描く川中島よりよほど正確だろうぐらいです。この信長公記のお蔭で信長の動きはある程度把握するのは可能です。問題は義元の動きです。太田牛一は織田軍にいたので織田軍の動きには詳しく記述していますが、今川軍の動きについての記述は必然的に乏しくなります。
義元が5/17(新暦、以後同じ)に沓掛城に入り、5/18夜から作戦行動を起こし、5/19に桶狭間方面に進出していたのはおそらく間違いありません。そうじゃなきゃ討ち取られません。結果だけはわかっているので義元が桶狭間にいた理由として、緒戦の勝利に油断しきった義元が昼食のためにのんびり休憩しているところを信長が奇襲して勝利したの説明が行われ、これが長い間の定説となっていました。この延長線上で時代劇などで描かれる義元は怠惰な愚将のイメージで描かれ、これまた定着しています。
しかし義元は決してそんなバカ殿みたいな愚将ではありません。義元の前半生は苛烈なもので花倉の乱と呼ばれる継承紛争を勝ち抜き、この継承紛争に介入してきた北条氏綱のために富士川以東を奪われる(河東の乱)なんて試練が起こっています。義元の20代は北条氏に奪われた河東の地の奪還に費やされ、北条氏康を相手にこれを実現しています。また領国統治も万全で、今川氏といえば富強を謳われ、当時の感覚では「今川氏 >> 武田氏」ぐらいの力関係であったとしても良いと思っています。
義元が桶狭間に進出してきた理由も「天下が欲しくなったから」ではないと見ます。義元が最も警戒していたのは東の北条氏です。今川氏は伝統的に西に勢力を拡張していますが、西に延びる時に一番懸念されるのは背後を北条氏に衝かれることであったと見ています。そこに越後の謙信が台頭します。謙信が関東管領として関東に大規模介入する情報を義元はかなり正確に把握していたと考えています。謙信が関東に介入すれば北条氏は西に動く余裕はなくなるだけでなく、背後の今川氏を味方につけておく必要があります。
実際のところ謙信の越山と義元の桶狭間はほぼ同時に行われています。wikipediaには、
5月、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎は北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越える。
これは結果的にそうなったなっただけで、謙信の関東介入に合わせて尾張切り取りを狙った義元の計算尽くの行動と見る方が良いと思います。また後に上洛軍と評されるほどの大軍を動員できたのも北条氏が動けない状態があったこそのものであり、義元が入念に作戦を練り上げたものと私は思います。
桶狭間の謎のカギは義元がどう動いたか、いやどう動くつもりであったのかの気がしています。しかし残念ながら信長公記でも今川軍の動きは断片的であり、ましてや義元がどう動くつもりであったかとか、なぜに運命の時刻に桶狭間にいたかについての説明は皆無として良さそうです。わかっているのは中島砦まで進出した織田軍主力の近くに本陣を置いていたぐらいです。でいつもの事ですが、「わからない」からあれこれ考えを広められるムックを楽しみたいと思います。
必要な部分だけの概略図を描いてみました。
当時の街道(道路一般)はプアだったとはいえ、軍勢の移動は基本的に道に従います。これは大軍になればなるほどそうなると考えています。義元は5/12に駿府を立ち5/17に沓掛城に入っています。これは基本的に東海道を進んできたとの理解で良いかと思います。この沓掛城と織田氏との最前線との間には桶狭間丘陵があるぐらいの理解で良いと思っています。沓掛城から尾張に進出するには
- 鎌倉往還
- 桶狭間道(仮称)
鎌倉往還(鎌倉街道)は丹下砦の北側ぐらいで上中下の3つに分かれ熱田に向かいます。なぜに北側に鎌倉往還が迂回しているかですが、当時の海岸線の状況で良さそうです。地形図の海岸線は豊明市HPの国指定史跡桶狭間古戦場伝説地を参考にしたのですが、私の海岸線の描きようにもなるのですが、当時の地形、とくに満潮時には大高城のある地域と鳴海城がある地域は分断されていた可能性がありそうに思います。この辺は桶狭間当時にどれほど堆積が進んでいたかになるのですが、古代東海道が敷かれた頃は鳴海さえ海だった可能性があり、桶狭間の時も波打ち際に近かったと推測します。
つまりは鳴海場周辺と大高城周辺は連続した地形と必ずしもいえず、むしろ海によって分断されていた可能性があると思っています。中島砦も扇川と手越川の合流部まで入江が入り込み、その中に出来た三角州に作られたものではなかったと考えています。
桶狭間の合戦の焦点の一つに大高城救援があります。大高城は織田軍の付城作戦によって兵糧補給が滞り、ここに兵糧を運び込むことが命題になっていたのは史実です。これに従事したのは松平元康・朝比奈泰能の2人で、5/18夜に沓掛城を出発したとなっています。この2人がどういうルートで大高城に向かったのかも不明なんですが、夜間行軍でもあり大高道(仮称)を通ったと推測しています。松平元康・朝比奈泰能は徹宵行軍で大高城に兵糧を輸送したのに引き続いて5/19の3時頃から鷲津・丸根砦の攻撃を行い、おそらく午前中、たぶん10時頃にはこれを陥落させたとぐらいで良さそうです。
この5/19の午前中なんですが鎌倉街道と桶狭間の戦いより
海上保安庁の潮汐推算で計算すると、信長が熱田神宮から移動した午前8時は満潮時で217センチメートル潮位であることがわかる。
これは大高城・鳴海城方面も同様として良いかと思いますから、善照寺砦方面にいた織田軍は救援に駆け付けたくとも無理だった可能性はありそうです。なんとなくですが、今川軍はそういう機会を狙って大高城救援作戦を展開したんじゃなかろうかと思い出しています。大高城救援部隊は徹宵行軍からの合戦ですから、合戦後には休養が必要です。鷲津・丸根砦を落としても、その草臥れきったところを織田軍に襲われたら、いくら軍勢が多くとも追い散らされる可能性があるからです。
信長も今川軍が鷲津・丸根砦を攻撃したと聞いて出陣するのですが、この時に信長がどういう戦術を思い描いていたのでしょうねぇ。
桶狭間の合戦は沓掛城から大高城の別動隊が出て鷲津・丸根砦を攻略し、その翌日には義元が討ち取られてしまうので、私は大高城方面をどうしても注目していました。もう少し具体的には
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大高城 → 鳴海城 → 熱田
そういう戦術が取れるのはイチにもニにも今川軍が織田軍より兵力が多い点になります。もちろん今川軍(織田軍もそうですが・・・)が実際にどれほどであったのか確認しようがないのですが、たとえば織田軍3000に対し今川軍1万5000なら5倍になります。それぐらいの兵力差はあったんじゃないかと考えています。それを前提に考えると
- 5/18夜に沓掛城を出た大高城別動隊は、目的を果たした後は5/19は休養日。5/20から北上予定。
- 沓掛城の今川軍は5/19朝に出発し、
- 義元率いる主力軍は鎌倉往還を通って熱田方面への進出を目指す
- 別動隊を編成し、桶狭間道から鳴海方面を目指す
- 義元率いる主力軍は鎌倉往還を通って熱田方面への進出を目指す
清州城内でも籠城派と出撃派に分かれていたとなっていますが、義元も信長が出てくるか籠城するかの判断に迷っていた部分はありそうです。おそらくというか「たぶん」ですが義元の基本的な判断は、
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信長は清州に籠城する
- 桶狭間道を進む鳴海城別動隊だけでは織田軍主力とほぼ互角になってしまう
- 熱田に進出した段階で鳴海城方面に信長が率いる主力軍が頑張られると補給路の斜断、沓掛城への中入り戦術の懸念も出てくる
義元が鳴海城別動隊との合流地点も結果的に良くなかったと思っています。桶狭間丘陵は高いところで50〜60メートル程度ですが、間に手越川に沿って谷間があり、今川軍は分散して高地に布陣せざるを得なくなります。高地に布陣するのは戦術の基本ですが、軍勢としての連携があまり良くないものになったんじゃないかと見ています。つまりは各個撃破の危険性が高くなります。この辺は鳴海城の東側に軍勢を展開させる適当な場所がなかった、もしくは敵前で陣営を設置するリスクと天秤をかけたのかもしれません。つうかやっぱり万全を期すために大高城別動隊の合流を目指していたので、5/19は守りの姿勢だったのかもしれません。
史実は豪雨を衝いて信長は突撃するのですが、そこが義元本陣であったかどうかは信長も確信はなかった気がします。「いるらしい」の情報はあったとされますが、信長の本音としてはとにかく今川軍の一部隊を景気よく蹴散らしてやろうぐらいじゃなかった気がしています。豪雨は今川軍の連携をさらに悪くしますから、最終的には義元本陣勢と織田軍主力の決戦になり、今川軍を撃破しただけではなく義元の首まで取れたってところのように見えます。
信長には言行録みたいなものが殆どないとされています。また懐古趣味もなかったとされますが、とくに桶狭間については触れもしなかったとする説があります。これは信長にとっても怪我勝ちであったのを身に染みていたからの気がしています。