神戸の善光寺

通勤途中に立派なお寺があり気になっていたのですが、先日ようやく確認すると、

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こうなっていました。「へぇ」と感心して職員に話すと全員知っており、知らぬは私ばかりなりってところです。善光寺との関係は、

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ちゃんと信州善光寺の分身如来って書かれています。それにしても神社で分祀はいくらでもありますが、お寺でも似たようなケースはあるんですねぇ。ただこれを見ながら不思議に思ったのは善光寺分身如来があり、善光寺と名乗っているのに御本尊は不動明王となっています。それより何より善光寺って天台宗だっけとムック心が湧いてきた次第です。


善光寺の宗派

お手軽にwikipediaより、

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている

私もそう聞いた覚えがあります。ただですが、

山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。

山内の塔頭天台宗と浄土宗によって構成されているのがわかります。天台宗と浄土宗が共存しているのも驚かされますが、無宗派とは言いながら実質的に天台宗と浄土宗の寺と見て良さそうで、さらに浄土宗側は尼寺なので天台宗塔頭の数からしても「やや優勢」ぐらいに思えないこともありません。であれば「善光寺」と名乗る寺が天台宗であってもそんなに無理はなさそうです。。ほんじゃ神戸の善光寺信州善光寺天台宗大勧進25院の系列かといえば、どうもそうではなさそうです。


神戸の善光寺の由来

神戸善光寺HPより、

当寺は、もとは江戸寛永年間より宝乗院と称し、天台宗総本山 比叡山延暦寺 東塔北谷の一院でした。

江戸初期に比叡山に建てられた宝乗院が始まりのようです。比叡山の宝乗院がなぜに神戸に移ったかですが、

明治2年に火災で御堂を焼失。幸いにも本尊不動明王、脇士二童子(県重要文化財)は前日に移動していたため、被災を免れました。明治時代に、兵庫湊川に移転再興後、信州善光寺の御分身一光三尊善光寺如来を請来し、大正8年に宝乗山善光寺と改称。昭和15年には六甲山麓の現在地に移転しました。

自院のHPですから一番信憑性が置けるとみたいところですが、どうも話がスッキリしません。火災があって本尊が難を逃れたのは事実として、なぜにわざわざ神戸の湊川に移転再興したんだろうです。気になったので現在の比叡山に宝乗院があるかどうかを確認したら、神殿大観比叡山のところに北谷の虚空蔵尾に宝乗院があるのがわかります。どうも比叡山の宝乗院も火災後の「いつか」は不明ですが再建された可能性があります。

比叡山の宝乗院についての情報はこれぐらいしかないのですが、神戸の善光寺についてもう一つ情報があります。神戸市HPにも神戸善光寺の由来が紹介されています。

もともと、比叡山北谷の宝乗院にあったものが明治2年に寺が焼失し、坂本の里坊に安置された後、昭和50年に現在の善光寺に移されたものです。

神戸市もHPで紹介するにあたり神戸善光寺に由来を確認したと思うのですが、ストーリーが若干違います。神戸市のニュアンスでは、

  1. 神戸に善光寺の分身如来を祀っていた善光寺があった
  2. ここに比叡山の宝乗院火災後に坂本の里坊にあった不動明王を昭和50年に移した
なんかこう取れそうな気もしないでもありません。神戸市もHPに紹介するにあたって神戸善光寺に確認したと思うのですが、どうも微妙に内容が違う感じがします。もうちょっと情報がないかとググっていたら、天台宗兵庫教区寺院大図鑑にかなり詳しい経緯が記されていました。

当山はもと宝乗院と号し、比叡山延暦寺東塔北谷の一院であった。地圓和尚(寛永二年寂)を第一世と為し、その世譜は江戸年間に連綿と続いたが、明治二年十二月朔日の火災で堂宇を焼失した。本尊不動明王・脇士二童子は火災の前日幸いにも隣の安禅院に移されていた為被災を免れたが、誠に奇瑞というべきで、この間の事情は不動明王台座裏に墨書された宝乗院第二十五世慈常和尚による明治三年の銘文に明らかである。明治三十八年恵玄和尚、宝乗院住職拝命、兵庫湊川に移転再興、信州善光寺御分身一光三尊阿弥陀如来を請来し、大正八年寺号を宝乗山善光寺と改称した。昭和十五年に恵能和尚が現在地に移転、昭和五十一年宝乗院再興七十周年を期に、比叡山坂本町の旧宝乗院里坊跡に安置されていた本尊不動明王(藤原時代)脇士二童子鎌倉時代)尊像を奉迎遷座した。

明治2年の火災時に不動明王が生き残ったのは「なぜか」前日に隣の安禅院に移されていたからとなっています。この時の宝乗院住職は「宝乗院第二十五世慈常和尚」で良さそうです。その後の宝乗院住職がどうなっていたかは不明ですが、火災から36年後の明治38年に恵玄和尚が住職に命じられたとなっています。恵玄和尚は善光寺分身如来を迎え入れて本尊とし、大正8年に宝乗山善光寺と改称したで良さそうです。さらに後継の住職と考えられる恵能和尚が現在地に移転したのも事実のようですし、昭和51年に不動明王が移されたののも事実のようです。


どうもなんですが・・・

あんまり寺院組織については詳しくないのですが、宝乗院を比叡山ではなく湊川に再建したあたりにカギがありそうな気がしています。再建といっても比叡山が資金提供するわけではないでしょうから、恵玄和尚が自力でというより、恵玄和尚のパトロンがいたと考える方が妥当そうな気がします。パトロンといえば聞こえが悪いですが寺を寄進するような有力者・後援者が湊川にいたんじゃなかろうかです。でもってその寺の住職に恵玄和尚が任命されたぐらいです。この辺はパトロン主導なのか、恵玄和尚主導なのか、共同作業なのかは確かめようがありません。

寺を建てるとなると本山の許可が必要なはずですが、その時になんらかの理由で明治2年に焼失した宝乗院の名を本山が与えたぐらいの経緯がありそうです。つうかそう名乗っているのは事実です。一方でなんですが旧宝乗院の不動明王は坂本の里坊におられた事になります。おられたといっても倉庫にしまっていたのではなく、里坊が寺となって管理する住職もいたとおもいます。なんといっても火事から36年経ってますから里坊も不動明王を本尊として独立の寺として運営されていたぐらいの想像です。

結局のところ恵玄和尚は比叡山から宝乗院の名跡を受け継いだものの御本尊は坂本の里坊に定着し、御本尊無しの状態になっていたと考えて良さそうです。御本尊なんて適当に祀り上げても良さそうな気がしないでもありませんが、恵玄和尚は由緒ある御本尊にこだわりを見せたぐらいには思えます。まあ御本尊の有難さは寺院の重要項目ですし、湊川では新たな寺ですから「売り出しの目玉」を重要視されたんじゃないかと想像します。そのために選ばれたのが善光寺分身如来であり、この御本尊がおられることをよりアピールするために宝乗山善光寺と改称したと考えるのはアリと思っています。

ここでどうしても分かりにくいのが坂本の里坊にあった不動明王を移したことです。表向きの理由としては里坊の維持が何らかの理由で困難になり、元をたどれば比叡山の宝乗院の後継寺院である神戸善光寺に戻したぐらいでしょうか。それはそれで良いのですが、どうしても違和感があるのが今度は御本尊を不動明王にされていることです。寺の御本尊は一つですから、こういう時には御本尊とは別になんとか堂を建ててお祀りするなんて手法は多いと思っていますが、今回のケースでは従来の善光寺分身如来がそういう待遇を受けたのでしょうか。


住職ワールドみたいなお話

うちの職員にお寺関係に相当詳しい方がおられまして、その辺の関係を聞いてみたのですが、

  1. 末寺を作るには本山の許可が必要
  2. 御本尊を変えるなんて考えたこともないから手続きは知らない
  3. 寺の名称を変えるなんて考えたこともないから手続きは知らない
まあ常識的にはそうでしょうが、あえて聞いてみると
    「住職が変わったからじゃない?」
末寺の住職の人事権は原則として本山が持っているとのことです。これも大きな寺ならわかりやすいのですが、町寺でも基本は同じだそうです。ただ町寺では容易に世襲は可能だそうです。息子なりが跡継ぎを希望すれば所定の手続きさえ踏めば次期住職になれるぐらいです。そのために何代にも渡って同じ家族が住職になるのは珍しくもなく、これを外から見ると住職家族の寺みたいに見えるってわけです。そういう町寺を私も幾つか知っています。しかし跡継ぎがいなければ新たな住職が本山から任命され、元の住職家族は寺から出ていかなければならなくなるそうです。

住職が変わっても同じ宗派の僧侶ですから基本は変わらないのですが、やはり同じ宗派の僧侶であってもやりたい宗教活動の方向性は違ってきます。たとえばこれも宗派で異なりますが、天台宗真言宗では僧侶ごとに念持仏があるそうです。住職が変わった時に自分の念持仏を御本尊にするのは「あるかもしれない」とされていました。これも必ずではなく、僧侶によってはそうする者もいるぐらいのお話です。

神戸善光寺の住職も湊川に再建されたときの恵玄和尚の家系が続いているかどうかは不明とされていましたし、それ以前に現在の神戸善光寺の住職家族もいつから住職かは不明とされていました。つまりは住職家族が何回か変わった可能性があるというところです。あくまでも想像ですが再建70周年を記念して坂本から旧宝乗院の不動明王を迎え入れた住職は不動明王信仰が強く、さらに旧宝乗院からの歴史に強い関心を抱いていた人物であったかもしれないぐらいです。

そんなに関心があるのなら紹介するから今の住職さんに話を聞いてみたらと言われましたが、たかがこれだけの事でそこまでするのはチョットと遠慮させて頂きました。