桶狭間の合戦ムック1・地形比定編

前に積み上げたものの再考編です。今日は地形の比定を中心にムックします。


鎌倉往還と桶狭間

桶狭間の合戦があった地域も当時と今では様相がかなり変わっています。とりあえず現在の地図では住宅がビッシリって感じで建ち並び、往時をここから想像するのは無理です。少しでも往時の様子を推測するために明治初期の地図を主に使っていますが、明治期の地図でも合戦時とはかなり様相が変わっています。とりあえず大きく変わっているのは海岸線で、河川による沖積作用と江戸期の干拓により合戦当時と様相を変えています。戦国期以前の海岸線に関する資料は毎度のことながら乏しく推定に難儀させられました。

もう一つ難しいのが当時の道路の様子で、これに関しても情報が乏しいところです。まずわかっているのは鎌倉往還(≒ 古代東海道)と江戸期の東海道ではルートが異なっていることです。ここで桶狭間の谷あいを抜ける道を桶狭間道と呼ぶことにしますが、江戸期東海道は池鯉鮒から西に直線的に桶狭間道に向かい鳴海に出ます。これに対し鎌倉往還は池鯉鮒から北西の丘陵地帯に向かい沓掛から古鳴海に向かいます。

義元が池鯉鮒から沓掛城に向かったのは確実ですから合戦当時も池鯉鮒から沓掛までは鎌倉往還を利用したのは間違いなさそうですが、問題は沓掛から古鳴海に向かう鎌倉往還の位置付がどうであったかです。歴史的と言うか、通説では江戸期東海道桶狭間道になったため古鳴海に抜ける鎌倉往還は寂れ廃道状態になったとしていますが、結果としては変わりませんがチョット様相が違う気がします。字でばっかり書いてもわかりにくいと思いますから当時の推測地図を示します。

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赤線が鎌倉往還なのですが古代は笠寺が半島状になっており、古鳴海から島田に回り込んで熱田に向かうルートになっています。その頃は鳴海もまだ海だったと見ても良いはずで、鎌倉往還が最短ルートだった訳です。これが時代が下ると古鳴海と笠寺半島の海がドンドン浅くなり、鳴海付近にも陸地が形成されます。鳴海城は応永年間(15世紀初頭)に築城されたとなっていますから、その頃には人が住み田畑があっただけではなく交通の要衝的な位置づけになっていたと見ることも可能です。笠寺半島と鳴海の交通は信長公記より、

浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ

上の道は鎌倉往還で島田を回る道ですが、中の道は笠寺半島から直接古鳴海に向かう道であり、下の道は古鳴海もカットしてさらに南につながる道になります。笠寺にはこの当時も城があり織田氏と今川氏が争奪戦を演じていますが、見様によっては笠寺経由で鳴海に向かう交通量が多かったとも考えられます。

沓掛を起点に考えると熱田に向かうのに鎌倉往還で古鳴海から笠寺半島に向かった方が鳴海経由より近い気がするのですが、ここで桶狭間道が出てきます。この道は谷間の道なんですが、一番高いところで30mぐらいです。それに対して鎌倉往還では沓掛からまず70m程度の峠を越え、扇川に下りてからもう一度50mぐらいの丘を越えて古鳴海に至るコースです。どうもなんですがとくに最初の峠を越える部分を嫌がられた気がします。少々距離が延びても桶狭間道で鳴海に向かう方がラクだったぐらいでしょうか。


でなんですが義元は間違いなく池鯉鮒から沓掛に進んでいますが、問題は沓掛から西に向かうルートで地図上では、

  1. 鎌倉往還を使って古鳴海方面に進む
  2. 桶狭間道を使って鳴海方面に進む
この2つの選択があるはずですが、織田軍も今川軍も鎌倉往還ルートに注意を払った形跡が乏しいところがあります。もし鎌倉往還が交通路として健在なのであれば今川軍が鎌倉往還に別動隊を進ませる懸念が必ず出るはずです。沓掛から古鳴海方面に今川軍の別動隊が進出すれば鳴海城や大高城周辺に展開する織田軍は孤立しますし、信長だって清州から駆けつける事ができません。また信長が善照寺砦に入った後でも同様の効果が考えられます。これは城郭放浪記様からの引用ですが、

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鳴海から熱田に至るルートには城砦群が築かれていますが、沓掛から古鳴海方面の鎌倉往還ルート上には何もないのがわかってもらえるかと思います。無いということは織田氏も今川氏も沓掛から古鳴海に至る鎌倉往還は既に軍用道路として使える状態でないと見なしていたと考えるのが順当な気がします。ということで、

    合戦当時でも既に主要街道は桶狭間道にシフトし、鎌倉往還は軍勢が通れない道として見なされていた
こう結論しても良いかと思います。そうなると義元は沓掛城から少し南下して桶狭間道を通って桶狭間に布陣したと考えるのが妥当になります。


知多湾

桶狭間の合戦の前半部分は大高城への兵糧搬入になるのですが、まず当時の推測地形図を見てもらいます。

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とにかく知多湾が奥深くまで広がっているのがわかってもらえると思います。沓掛からであれ池鯉鮒からであれ陸路では大高城に行けないと見て良いかと思います。もちろん海岸沿いの小道が通じていた可能性はありますが、そこを押し通るより海路を利用した方が効果的と考えます。だいたいこういう地形のところでは海岸線の道を作るより船での交通が発達するものです。松平元康は通説では5/18夜に沓掛城を出発したとなっています。そうであれば、沓掛城から南下して知多湾北岸から舟を利用して現在の大府市あたりに上陸するルートを取ったと考えられます。

ただもう一つ可能性はあると考えています。信長公記より、

今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ

別に大した事は書いていないのですが、少なくとも沓掛城から元康が出発したとは書いてありません。もちろん沓掛城から出発した可能性も十分ありますが、そうでない可能性もあるってぐらいのところです。というのも仮に大高城救援が当初から織り込み済ならば、池鯉鮒から重原に向かうルートもありそうな気がするからです。重原は舟運の拠点でもあったとされますから舟が集めやすいでしょうし、陸路で沓掛まで運ぶより距離がかなり短縮されます。もっとも知多湾の北岸にも舟運の拠点があっても不思議ないので、そういうルートも可能性としてある程度に留めておきます。

知多湾の広がりはむしろ他のところでポイントになります。たとえば義元が沓掛城から大高城に向かう可能性の有無です。義元がそうしようと思った時にルートとしては、

  1. 知多湾北岸から大府市辺りに上陸して陸路を進む
  2. 桶狭間道の途中から曲がって大高城を目指す
海路で目指したのであれば桶狭間丘陵にわざわざ入り込む必然性がないので没です。陸路は言い出したらキリがないのですが、桶狭間道から大高城に抜ける道ぐらいはあったとは思います。ただそこを義元が通るかどうかになります。端的には義元は移動に輿を使っていたとされますから、輿が通れるかの問題です。通れなければ馬に乗るか、歩くかになりますが、そこまでして大高城を目指す作戦を義元が取るだろうかの問題です。まあ義元が乗らなくても輿だけでも運ばないといけないのもありますからねぇ。

もう一つは今川軍敗戦後の元康の帰国です。緒川城の水野氏からあれこれと連絡があったとの記録がありますが、元康が帰国するには桶狭間の戦場は避けたいでしょうから、基本的には来た道を知多湾まで引き返し、そこから舟が必要です。舟の調達には水野氏の協力が必要でしょうから水野氏との関係は重要になります。また舟に乗ったとしても沓掛や池鯉鮒方面も避けたいところでしょうから、知多湾を南下し、三河湾から矢作川を遡って岡崎を目指したとする説も成立するぐらいです。


鳴海付近の推測地形

信長公記より鳴海城の描写です。

鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり

鳴海城の南側には海が迫っており、満潮時には城の南側は海になっていたことがわかります。合戦当日の5/19の潮の様子ですが信長公記より、

  • 十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由
  • 浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ

ここから読み取れる事は

  1. 合戦当日は満潮であった
  2. 満潮になると鷲津・丸根砦と善照寺砦の間の交通が遮断される
大高城の付城である鷲津・丸根砦と鳴海城の付城である善照寺砦の間の交通は浜沿いであったと見て良さそうで、これが満潮になると通れなくなる地形であったようです。推測地形図を出してみますが、

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大高城付近はもう少し海が入り込んでいたかもしれませんが、合戦当日の海の様子はこんな感じであったと考えられます。ちょっと意外だったのは丸根砦あたりから善照寺砦方面に内陸部ルートがあったと思っていましたが、軍勢の移動に使えるようなものは合戦当時にはなかったようです。信長公記太田牛一が実際に見聞したものが多いはずですが、当時の織田軍の常識として満潮になれば鷲津・丸根砦は孤立する状態であったようです。

それと鳴海城の付城群の配置ですが北側の丹下砦は古鳴海方面への防御、南東側の中島砦は桶狭間道方面の備えと見れそうです。善照寺砦は鳴海城と30m弱の丘を挟んで設けられており、丹下・中島砦を統括しながら鳴海城包囲を行うためのものぐらいに見えます。道に関しては鳴海城周辺がわかりにくいのですが、鳴海城周辺の地形情報を信長公記から拾っておくと

  • 東へ谷合打ち続き、西又深田なり。北より東へは山つゞきなり(鳴海城の描写)
  • 中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深困の足入り、一騎打の道なり(善照寺砦から中島砦への道の描写)

東は鳴海城の要害の谷間になっていたようですから、そこに街道を通していたかはチト疑問で、なんとなく潮の問題はあっても鳴海城の南側を通っていた気がします。ただ鳴海城の北側にも丹下砦から善照寺砦を結ぶ道はあったと見るのが自然そうに考えています。いくらなんでも鳴海城の真南の道を補給部隊が通っていたとは思いにくいからです。それと鳴海城周辺の地形として軍勢を広く展開するのは困難そうなのも読み取れます。もし展開出来るであれば潮が引いている時の南側ぐらいになるんじゃないかと推測します。


おけはざま

信長公記より

信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ

桶狭間の謎の一つである佐々・千秋の謎の突撃です。突撃理由は謎なんですが、桶狭間道を東に向かって突撃したのだけは間違いなさそうです。この突撃は佐々・千秋も討死するほどの惨敗なのですが、佐々・千秋隊は桶狭間道のどのあたりまで進めたんだろうかです。佐々・千秋隊の戦闘時間は明記されていませんが、どう読んでも短時間であったとしか受け取れません。短時間でこれほどの惨敗を喫するということは、桶狭間道の状態が「脇は深困の足入り、一騎打の道なり」でなく、それなりに広い戦闘スペースがあって包囲殲滅されたと解釈するのが妥当です。

そういうスペースがあるのは義元敗走シーンでも確認できます。信長公記より、

東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが

「東へ向つてかゝり給ふ」とは桶狭間道を沓掛城方面に逃げる義元を追撃する描写で良いかと思います。その時でも義元の周囲には300人ぐらい護衛隊が残っており、義元の周囲を囲んでいたとなっています。この丸く囲む陣形も戦国期の守備陣形としてポピュラーなものですが、そういう陣形を取れるだけのスペースがあった事も同時に示唆されます。もちろん桶狭間道全体がそうであった訳ではなく信長公記より、

おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。

ここの表現なんですが、桶狭間道の「おけはざま」という地点の描写とすべきかと考えます。ごく簡単にはそこまで比較的広かった道ないしスペースが急に狭くなっているところぐらいの見方です。それと、この「おけはざま」からの連想ですが、太田牛一は義元が「おけはざま山」に本陣を置いていたと書いています。単純な発想ですが「おけはざま」と「おけはざま山」は近い可能性が高いと思います。「おけはざま」に近いところの山(というより丘ですが・・・)だから「おけはざま山」と仮に呼んだぐらいです。

以上の事を念頭に置いて桶狭間道を見たいのですが、

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桶狭間道は谷間の道なんですが有松村あたりまでは比較的広くなっています。おそらく佐々・千秋隊は有松村までで包囲され惨敗を喫したと考えます。この有松村を東に少し進めば道が狭くなってるA地点がまずあります、またA地点を過ぎると谷間が南にも広がっているところがあり、そこもにも狭くなっているB地点があります。太田牛一の示す「おけはざま」とはこのどちらかの可能性が高いと考えられます。ではどちらかといえばA地点が有力の気がします。理由はB地点は狭すぎて「深田足入れ」の田が確認できないからです。さらに信長公記より、

若者ども追ひ付き追ひ付き、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。

ここは「おけはざま」が節所であるとの描写に続く部分ですが、桶狭間まで踏み込んだ織田軍が今川軍の将士を打ち取ったのはすぐにわかりますが、その首を信長に見せに行ったともなっています。ここの取りようなんですが、信長は義元本陣を襲撃した時にはそれこそ先頭を切るぐらいの勢いで突撃したと考えられますが、義元が本陣を追い崩されて桶狭間道に下り「おけはざま」に逃げ込むあたりからは有松村あたりで後方指揮に変わっていたと受け取れます。ほんじゃ肝腎の義元本陣があった「おけはざま山」はどこであったかですが、幾つか条件が出てきます。

  1. 信長は佐々・千秋隊の惨敗を見ていますから桶狭間道には直接進んだとは考えにくい
  2. 桶狭間道より南側の山では織田軍がさらに南方から追い落とせる進撃路が設定不可能のため除外
  3. A地点と仮定した「おけはざま」から西側に下りられる山でないと「東へ向つてかゝり給ふ」が出来なくなる
  4. たぶん「おけはざま」に近い
  5. 本陣だから中島砦に近いところは除外
これらの条件を満たしそうな場所はC地点のあたりがとりあえず該当します。ここを北側もしくは東側から追い崩されれば有松村方面に逃げざるを得なくなります。その辺りは広くなっているところですから、丸い守備陣形を組みながら東に逃げたとしても話は合います。この辺はまだ逃げてはいても、ある程度踏みとどまりながらの退却だったかもしれません。しかし丸い陣形はある程度の幅が必要です。「おけはざま」では陣形の組直しが必要になるのですが、織田軍の追撃が厳しく崩されてしまい「おけはざま」を抜けたあたりからは乱戦になってしまい義元も討ち取られてしまったぐらいを想像しています。

この辺は異論もテンコモリあるかもしれませんが、この仮説を補強するには信長が「おけはざま山」を北側ないし東側から攻め込むルートを取っていた証拠を拾えるかになります。


沓掛の到下

桶峡合戦記とは尾張藩士田宮如雲が山澄英竜の桶狭間合戦記に様々な注釈を加えたものです。読みにくいところがあるので原本で示しますが、

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ここは「どうも」桶狭間の従軍者の記録としてしばしば引用されている部分かと思われます。つうかその原本を探して見つけたつもりですが、読めば読むほど怪しい記述です。桶峡合戦記の体裁は本文の山澄英竜の桶狭間合戦記が罫線1行を使って書かれており、田宮如雲の注釈部分が罫線1行に2行の体裁で挿入されています。画像で示した部分は注釈部分であり「予」とあるのは田宮如雲になるはずですが、田宮如雲は文化5年(1808)生まれであり、桶狭間の合戦は永禄3年(1560)です。孫だって生きているはずがないってところです。

探しあてた部分は期待外れでしたが、関心を引いたのは最後の部分です。

惣見記ニ余リニ強キ雨風ニテ沓掛ノ山ノ上ニ生タル二カイ三ガイノ松ノ木楠ノ木ナドモ吹倒ス計リナリト云々

この記述は信長公記

沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ

ここに該当します。惣見記自体はレファレンス事例詳細より、

『織田軍記』は、織田信長の事蹟を編年的に叙述した戦記です。『総見記』、『織田治世記』ともいいます。著者は遠山信春で、23巻、23冊から成っています。1685年(貞享2)ごろに完成したようです。序文によると、遠山信春が小瀬甫庵の『信長記』を読んで、これに補足・訂正・考証して『増補信長記』と名付け、のち『総見記』と改め、さらに信長の子孫に校閲を依頼して成立したものといわれています。史料的価値はあまり高くありませんが、一部に他書に見られない記事を含んでいます。なお、『織田軍記』という書名は表紙に付けられた題名によります。諸本内題は『総見記』です。

史料評価としてはイマイチですが、沓掛の到下(峠)とは「沓掛ノ山ノ上」している点は注目したいと思います。沓掛の山とは沓掛から見える山で良いでしょうし、そこには鎌倉往還が通っています。具体的には

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つまり「72m地点」とした丘が沓掛峠と比定して良さそうです。「72m地点」は二村山で豊明市の最高峰と紹介されています。そこで強風のために大木が倒れている光景を太田牛一は実際に見たことになります。見えるところまで近づいている訳ですから、濁池付近まで織田軍は進出していた傍証になります。この「沓掛の到下」から読み取れることは、

  1. 信長は鎌倉往還を通り沓掛峠が見える地点に進出している
  2. 中島砦から沓掛峠の間で今川軍による妨害は皆無である
こうして良いと考えています。


山際

信長公記より、

山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。

大木が東に倒れている訳ですから西風です。この西風が今川軍に取っては向かい風、織田軍に取って追い風になるシチュエーションはどんな状況になるかです。単純には東西で対峙し、西側に織田軍がいる位置になりますが、それでは中島砦のいる時と同じです。ただ「山際」となっている点が注目されます。沓掛峠に向かうに相原から八つ松に向かって扇川沿いに東に進む必要があります。この時の状況なら鳴海方面を向いている今川軍に取って向かい風になり、東に進む織田軍は追い風になります。

それと山際とは山の稜線が空と接するところの意味もありますが、山の麓、山の裾って意味もあります。この場合稜線と空では意味不明になりますから、山の裾って表現が妥当です。ここまでの仮定では織田軍は扇川を東に進み沓掛峠を目指したとしていますが「山際まで御人数寄せられ侯ところ」とわざわざ書いているのは、縦列状態でばらけた軍勢を一旦集結させたぐらいのニュアンスじゃないかと思います。問題はどこから山際に向かったかです。信長が中島砦にいたのは間違いありませんから、

  1. 中島砦から直接山際に向かった
  2. 古鳴海に戻り山越えで相原郷に出た
実はどちらも可能性があります。私は2.の可能性をずっと考えていました。中島砦は今川軍前衛部隊の視界内にあったのは確実で信長公記にも

無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由

この状態で中島砦から相原郷の鎌倉往還を目指すのは余りにも無理がある戦術だからです。中島砦(当然ですが善照寺砦も見えていたはず)が見えるのであれば、相原郷への移動も今川軍に確認されてしまいます。そのためには一度今川軍の視界から消えるために古鳴海方面に後退してから山越えで相原郷に出る戦術の方が妥当だろうの見方です。この日を象徴する激しい風雨は山際で集結中に起こったと信長公記でなっており、中島砦から風雨が始まっていたならまだ可能性はありますが、そうでないと無理があるってところです。

ほいじゃ1.が完全に否定されるかといえば、そうとも言い切れない部分がしっかり残ります。太田牛一は清州から中島砦までの信長の動きをかなり詳しく書いてくれています。もし信長が古鳴海に後退してから鎌倉往還を使う戦術を取っていたならば、これを書き落としている理由がちょっと思いつかないところです。中島砦は最前線もエエところのうえ、既に佐々・千秋隊の壊滅、前田利家らが敵の首を打ち取って信長に見せたりしています。つまり血の匂いが将士を興奮状態に追い込んでいるところだと想像します。

そういう状況で戦術的退却を見せるのは士気の問題に直結します。どちらかと言わなくても今川軍に負ける予感を嫌でも抱いているわけで、そういう状況で戦術的でも退却すると総崩れになる懸念さえあります。太田牛一もどこに突撃するのかピリピリしながら信長の命令を待っていたはずで、私の想像した戦術的退却を行ったのなら必ず書きそうなものです。山際の前の文書の続き具合も

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ

右の衆とは前田利家以下の事ですが、ここはどう読んでも中島砦での檄に引き続いて比較的短時間で山際に集結したとしか読みようがありません。つまり中島砦と山際はかなり近く、太田牛一が描写しなかったのではなく、そもそも古鳴海への戦術的退却などなかったからだとも十分に解釈できます。そうであれば

    中島砦 → 山際(相原郷)→ 沓掛峠 → おけはざま山 → おけはざま
こういうルートで信長は進んだ事になり、太田牛一はかなり正確に中島砦以降の信長の動きも描写している事になります。だとすれば今川軍はなぜに織田軍を見失ったのだろうの疑問は残ります。大木が倒れるぐらいの激しい風雨だったので山際に移動した織田軍を今川軍が見失ったぐらいになりますが、そんな説明で良いかどうかは悩ましいところです。

それと信長は沓掛峠の近くまで進んだ事は間違いありませんが、そこから義元本陣にどんなルートで迫ったのかは完全に謎です。おそらく太田牛一も途中からわからなくなったというか、描写できる目ぼしい地点が無かったぐらいにしか想像できません。