桶狭間の合戦・今川義元の復習

氏親と早雲

駿河守護であった今川義忠は応仁の乱の時に京都に上り、伊勢氏の娘であった北川殿を正室として迎えたとされます。北川殿は1473年(1471年説もあり)に龍王丸(氏親)を生みますが義忠は1476年に塩買坂の戦いで戦死、分家筋の小鹿範満が扇谷上杉氏の後援(小鹿範満の妻が扇谷上杉氏の一族)と家督争いが起こります。ここに介入したのが伊勢盛時北条早雲で)、伝説では一介の浪人であったとなっていますが、幕府の奉公衆であったのが確認されており、幕府の仲介による調停であったと今は見られています。

調停内容は小鹿範満が家督の代行者となり、龍王丸の元服後に家督を譲るみたいな内容であったとされますが、龍王丸さえ排除すれば小鹿範満が代行者から正式の家督相続者になれるため、両者の争いは調停後も続いています。龍王丸が15歳となった頃に早雲は再び駿河に向かい、1487年に小鹿範満を討ち氏親は正式の家督相続者になります。早雲はこの功績により駿河に領土を与えられ、やがて伊豆の堀越公方家を滅ぼし、さらには西相模の大森氏、東相模の三浦氏と滅ぼし、関東の覇者北条氏の基を築き上げたとなっています。

さて氏親と早雲の関係は非常に良好であったとされます。利害関係でいえば、早雲は伊豆から相模に進出するにあたり後方の駿河の支持は絶対に必要であり、氏親も西の遠江に勢力を伸ばすには早雲が後ろを守ってくれる方が望ましいぐらいです。ただそんな素っ気ない利害関係だけではなく、氏親と早雲の個人的な信頼関係も非常に強かったと見て良いかと思っています。


花倉の乱から河東の乱

早雲は1519年に亡くなり、氏親も1526年に亡くなります。氏親の跡は氏輝が継ぎますが、氏輝時代も今川氏と北条氏の関係は変わらなかったようですが、氏輝は1536年に弟の彦五郎とともに同日に急死。これには暗殺説も多くありますが、三男の栴岳承芳家督継承権が回り還俗して義元になります。しかし継承を巡り福島氏との対立が起こり、福島氏は自分の娘と氏親との子である玄広恵探(義元の異母兄)を立て花倉の乱と呼ばれる継承紛争が起こります。この時に義元支援に介入したのが北条氏綱です。

義元と氏綱は義元の家督相続に関連して氏親・早雲以来の同盟関係を再確認したように見えましたが、義元が甲斐の武田信虎との関係を深めると氏綱は反発し、1536年に東駿河に進攻し富士川以東を版図としてしまう河東の乱が起きます。ちょっと煩雑なので年表にしておきますが、

事柄 年齢
1519 * 義元誕生 0
1536 4 氏輝急死 17
5 花倉の乱始まる
6 花倉の乱終わる
1537 2 河東の乱 18
今川氏が氏輝の死後に武田氏との関係を急に深めだしたのが私には気になります。花倉の乱は1か月ほどで終息していますが、反義元派は駿河館まで攻め寄せています。この時は氏綱は義元を支持したので乱は鎮圧され家督相続を確固たるものにしていますが、そのままでは北条氏の影響力が大きくなる懸念を今川氏は感じたんじゃないかと思います。そこでパワーバランスを取るために甲斐の信虎との同盟を結んだぐらいです。この判断ですが、義元がどれぐらい関与していたかどうかは不明です。

義元は氏親の継承権として3番目にはなりますが、兄の氏輝が10年前に既に家督を相続していますから、氏輝に子が出来ればその時点で傍流になります。ただ継承権者として微妙な地位にいたので、争いの火種にならないように僧になっていたわけで、家督を継いだ時点での政治経験は薄かったとも見れるからです。ですので甲斐との同盟関係についての主導権は当時の義元には乏しかった可能性はあります。まだ18歳ですからねぇ。

この駿甲同盟を口実にして氏綱は東駿河に侵攻します。ここも見方が微妙になるのですが、これを今川氏の外交の失敗と見るかどうかです。氏綱は河東の乱に際して入念な外交政策を行っています。花倉の乱の反義元派は遠江に多く、そこに工作して呼応するようにけしかけています。これは義元に効果的で、東西両面に敵を抱える状態になり苦戦し、北条氏の東駿河占領は1545年まで続くことになります。そんな状態になれば今川氏は滅亡したっておかしくないのですが、義元はこれを持ちこたえます。

今川氏が河東の乱の時点で北条氏に併呑されなかったのは見方を変えれば甲斐の武田氏との同盟があったからだと見れない事もありません。北条氏は駿河にも手を出していますが主戦場は関東です。北条氏も両面作戦を行っているわけで、甲斐の武田氏の支持がある状態で、西駿河まで手を伸ばす余裕がなかったぐらいにも見れます。これじゃわかりにくいのですが、そもそも駿甲同盟を結ばなかったら北条氏は駿河に手を出さなかったかと考えれば良いかと思います。甲斐との同盟がなければ駿河に侵攻してきた北条氏を支えきれなかったとも見れるんじゃないでしょうか。


桶狭間まで

河東の乱への対応は家督を継いだ義元に大きくのしかかったと見ます。今川氏にとっても危急存亡の時としても良いのですが、義元はここから巧みな手腕を見せます。まずは領国統治の強化です。この統治の成果は今川氏と言えば富強と言われるぐらいの成果を収めることになります。同時に遠江の反義元勢力の掃討です。この間にも武田氏との同盟強化のために晴信(信玄)の信虎追放にも手を貸しています。最大の課題である東駿河問題は巧みな外交手腕を発揮します。関東の反北条勢力を巧みに指嗾して大勢力を出現させ、これへの対応に1541年に氏綱死後に北条氏を継いだ氏康も大苦戦させられます。このため氏康はやむなく東駿河を義元に返還し1545年に駿相同盟を結ばざるを得なくなります。この時に義元は26歳です。

家督継承以来の課題であった東駿河問題を解消した義元は西に勢力を拡大していきます。遠江の次は三河ですが、相手は織田信秀。信秀は尾張半国が版図でしたが、その尾張国内での強勢は尾張の旗頭的な地位にあり、その勢力を背景に三河、美濃に伸ばそうと暴れまわっていたいたぐらいの理解で良いかと思っています。これも1549年に安祥城を攻略で三河の支配を確定し、信秀が亡くなり信長が継承戦争、尾張統一戦をやっている間に沓掛城から大高城、鳴海城へと南尾張の支配に成功しています。ここも年表にまとめみます。

事柄 年齢
1519 * 義元誕生 0
1536 4 氏輝急死 17
5 花倉の乱始まる
6 花倉の乱終わる
1537 2 第一次河東の乱 18
1545 第二次河東の乱 26
1548 小豆坂の戦い 27
1549 安祥城攻略、三河支配下に置く 30
1551 鳴海・笠寺・大高・沓掛入手 32
1554 笠寺失う、鳴海城周辺に付城構築される 35
1559 大高城周辺に付城構築される 40
1560 5 桶狭間の合戦 41
義元は18歳から26歳までの8年間を東駿河の奪還のために費やしています。相手はいうまでもなく北条氏であり、さらに氏綱・氏康相手です。氏綱も出来物の評価の高い人物ですが、氏康は北条五代の内で最も傑出していた、もしくは初代早雲に匹敵するとの評価さえある人物です。そんな北条氏を相手に回して東駿河を奪還したのが義元です。東駿河奪還後は西の三河攻略になりますが、河東の乱から4年ほどで完了しています。松平家の内紛に付けこんでのものですが、それでも4年です。

続いて尾張です。笠寺・鳴海・大高・沓掛を入手したのは山口氏の離反によるものですが、これにより知多半島を含む伊勢湾東岸が今川氏の支配下に入り、津島の商業を重要な財政基盤としていた織田氏にとって重大な脅威となっていたのはわかります。伊勢湾東岸地域の支配権を失うとは、同時に制海権も失うことになり、この地域の支配権の回復は織田氏にとって重要な意味を持っていた事になります。つうかこれがわからないと

  1. 鳴海城に対して丹下・善照寺・中島砦を築く
  2. 大高城に鷲津・丸根砦を築く
こういう対応策を信長がなぜに取ったのか理解できない事になります。笠寺城を信長が奪還したのは、奪還しないと熱田方面への直接の脅威になり、鳴海城周辺に付城群を築くにしても障害になるからぐらいに思われます。ただなんですが、付城群は兵糧輸送ルートの遮断にはなっていなかったで良さそうです。理由は単純で1554年に鳴海城に付城群が築かれても1560年の桶狭間合戦時まで鳴海城に兵糧問題が起こった気配がありません。この間が6年ですから、そんな莫大な兵糧が積み上げられていたとするのは無理がありますし、それだけの期間、孤立無援状態であったとするのも無理があり過ぎです。

織田の付城は陸路こそ遮断していましたが、海路については無力だったと見て良い気がします。一方の大高城ですが、1559年に付城が築かれて1年ぐらいで逼迫した状況になっています。この理由を考えてみると、海路での輸送は黒末入海、つまり鳴海城と大高城の間にあった干潟に陸揚げされていたんじゃないかと推測します。鳴海城は南側まで黒末入海に面していますから、陸揚げ後に短時間で城内に搬入できたぐらいに考えます。一方の大高城は低いとはいえ丘越えの陸路になります。それを封鎖する形で築かれたのが鷲津・丸根砦であり、大高城への兵糧輸送を効果的に斜断出来たぐらいに考えます。


桶狭間

今川氏が西に延びるのは地政学的な意味もありますが、1551年に山口氏の離反により笠寺・鳴海・大高・沓掛城を入手した後にすぐに行動に移らなかったのかの疑問が出てきます。1560年の桶狭間までは9年間もあります。俗説では義元が歌舞音曲に明け暮れていたなんてしていますが、そんな愚かな人物でないのはその経歴が示しています。ですからこれは義元が進みたくても進めない事情があったからぐらいで良い気がしています。義元だけではなく今川家の重臣に常に念頭にあったのは

    北条氏の脅威
第二次河東の乱は追い込まれた形で氏康が義元に譲る形で東駿河を明け渡しています。義元にすれば東駿河は父祖伝来の地ですが、氏康にとっても父の氏綱から受け継いでいた地です。氏康も隙さえあれば奪還を考えていると義元は当然考えていたと思います。氏康は第二次河東の乱で義元に譲った後に川越城の夜襲をきっかけに山内上杉氏を駆逐していきます。この北条氏の関東攻略ですが平井城攻略で一つの節目を迎えたと見ることができます。平井城を追われた上杉憲政は越後の謙信を頼って落ち延びざるを得なくなります。

この平井城攻略が1551年で、ちょうど笠寺・鳴海・大高・沓掛城を義元が入手した時期になります。北条が関東に主力を傾けての攻略が終わると余裕が生まれ、今度は義元が再び北条氏の脅威を意識する時期に入ることになります。もちろん北条氏もそれだけ大きくなっているからです。義元から見ると、隙を見せれば氏康はいつでも駿河に進みかねないの懸念が常にあった気がしています。今川氏が西進するとは遥か尾張国境に主力を配置することになり、必然的に駿河は手薄にならざるを得ません。また合戦は水ものですから、尾張戦が長引いたり、ましてや負けでもしようものなら北条氏が再び駿河に侵攻する懸念です。


そういう状況に変化をもたらしたのが越後の虎である謙信です。謙信は亡命してきた上杉憲政から上杉の家名と関東管領職を引き継いでいます。引き継いだだけではなく、これを非常に有難がって本気の関東管領職になろうとします。そのために謙信はわざわざ越後から上洛し、義輝から管領並みの資格を受けます。あくまでも「たぶん」ですが、関東管領になった謙信は関東の平定の決意を表明したと思っています。もちろん戦国時代もこの時期になると、幕府の威権は地に落ちていますから、謙信の本気度について義元は情報を集めていたんじゃないでしょうか。

謙信は1560年3月に越中からの援軍要請に応えて出兵していますが、それに引き続いて本気で関東出兵の準備も進めているとの情報を義元はつかんでいた気がしています。謙信が関東に出兵すれば氏康はその応対に忙殺されるだけではなく、背後の今川氏との同盟の堅持に努めざるを得なくなります。謙信が関東に出兵した理由としてwikipediaには、

5月、桶狭間の戦いにより甲相駿三国同盟の一つ今川家が崩れた機会に乗じ、ついに景虎北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣、三国峠を越える。

当時の情勢からそうとも見れますが、私は違う見方をします。義元は謙信の関東出兵をわざと誘発させたんじゃないかと見ています。義元の西進は信長公記で4万5千、話半分としても戦闘員だけでも1万5千ぐらいはいたと考えています。今川氏にとっても空前の大動員で、軍勢の召集・編成には時間が必要です。この準備期間をわざと喧伝していたんじゃないかと考えています。これは尾張の勢力への脅しと、脅しによる離反勢力が出ることを期待したとも思いますが、謙信に聞こえるようにしたとも考えられるからです。

謙信の関東出兵に対する懸念は北条氏の同盟軍である武田氏と今川氏の動向です。この3つの勢力が一つになって対抗されたらチト厄介ぐらいです。3つが一つになって挑んできても謙信の性格なら決戦に応じかねないところもありますが、一つでも減った方が嬉しいのが本音ではないでしょうか。今川氏が大軍で尾張攻略を行えば、謙信が関東に出兵しても北条氏に有力な援軍を送れなくなります。これこそ天来の妙機と謙信が感じ取ったとしても不思議ありません。そうやって謙信が関東出兵の準備を進めれば、これも北条氏に聞こえます。義元の尾張に向かうための謀略として、

  1. 謙信は本気で関東管領職として振る舞いたそうで、そのために北条氏征伐をやりそうである
  2. 謙信の関東出兵を誘発するために尾張への大規模遠征の準備を派手に進める
  3. 義元の西進に連動しての謙信が関東出兵の決断する
  4. 氏康は謙信の関東出兵情報で今川どころではなくなる
義元が駿府を立ったのが5/12となっていますが、氏康もまた義元が尾張に進むのは謙信の関東出兵が確実になっていると受け取ったかもしれません。とても駿河を襲う気にはなれなかったんじゃないでしょうか。そんな謀略戦が本当に行われたかどうかは何の証拠もありませんが、後世から見れば「ありうる」ぐらいにしておきます。


義元の戦術能力評価

今川氏の富強を築きあげた点だけで内政に秀でていたのは間違いないと思います。外交手腕はは第二次河東の乱だけでも十分に証明されています。当時の関東四強(今川、北条、武田、上杉)実力評価で確実に信玄を上回っており、謙信や氏康と肩を並べていたとして良いかと思います。ただなんですが軍事については少し疑問点が残ります。これは戦略もそうですが、戦術部分はさらに能力が低そうな気がします。義元の戦歴として、

  1. 花倉の乱でも苦戦した部分がある
  2. 第一次河東の乱でも結果として北条氏の東駿河支配を許してしまっている
とくに第一次河東の乱は今川氏が武田氏と同盟を結んだのが主原因とされていますが、花倉の乱の時に介入した氏綱が義元の戦術能力を見切った面もある気がします。この第一次河東の乱でも北条氏は全力を傾注して駿河に攻め込んだ訳ではないと思っています。北条氏の勢力伸長の主戦場はあくまでも関東であり、駿河は従の戦線です。つまり氏綱は従の戦力で駿河侵攻が可能と見ただけでなく、背後の今川氏を敵に回しての両面作戦になっても十分対応できると踏んでいたとも言えるからです。事実として義元は富士川でなんとか北条軍を食い止めはしますが、その後8年もの間軍事力での奪回は出来ていません。

戦術評価とは単純化すれば合戦場における采配部分になります。たとえばですが謙信も家督相続において同族間で血を血で洗う抗争を潜り抜けていますし、信長も同様です。義元も同様とは言えるのですが、謙信や信長は合戦での勝利を積み重ねることによって国内の評価を高め、求心力となっています。この辺は義元は家督継承権こそありましたが、あったが故に早々と仏門に入れられていたのは考慮しても良いかもしれません。つまりは謙信や信長に較べて実戦経験が乏しかった点です。それでも実戦での戦術能力はある意味天賦の才ですから、やはり義元の戦術能力は高くなかったとしても良さそうな気がします

尾張に関しても1551年に笠寺・鳴海・大高・沓掛を入手しておきながら、本格侵攻は9年後の1560年です。なぜにここまでかかったかは北条の脅威が第一でしょうが、義元の戦術能力の低さへの自覚もあったのかもしれません。いくら北条が脅威であっても、1万弱程度の兵力で笠寺・鳴海・大高・沓掛を足掛かりに熱田方面に支配領域を段階的に切り取っていく選択はあったと思います。1万弱だって織田氏にしたら十分すぎるほどの大軍です。その選択を行わなかったのは、

  1. 段階的切り取りでは守備兵力も多く配置せざるを得ず、対北条戦が不安
  2. 1万弱程度では織田軍に足元をすくわれる懸念があり、尾張で敗れると対北条戦が不安
つまりは「大軍に兵法なし」を文字通り実現できるまで義元はひたすら待っていたんじゃなかろうかです。


桶狭間の義元の戦略

桶狭間の合戦も義元のそんな面が出ている気がします。義元が取った戦略は、

  1. 大高城に兵糧を運び入れ、周辺の砦群を掃討する
  2. 続いて鳴海城周辺の砦群を制圧する
  3. そこから熱田方面に進む
これ自体は手堅い戦略であるとはいえますが、一方で相手の信長にも見え見えの戦略です。ここでですが大高城の兵糧事情が切迫していたのは事実と思いますが、大高城をあえて救援せず、直行で鳴海方面に進出する戦略もあったんじゃないかと思っています。鳴海城の付城群が落ちれば、鷲津・丸根砦は孤立化するというか、そういう展開になれば嫌でも鷲津・丸根砦から撤退せざるを得なくなります。孫子にいう「魏を囲んで趙を救う」の策の応用編です。

鳴海城周辺を制圧すれば、今川軍は干潮時期さえ狙えば上の道、中の道、下の道の三方向から熱田を目指せます。これを阻止する手段は信長にはなかった気がしています。そうやって熱田方面に今川軍が展開すれば清州までたったの3里です。熱田から鎌倉往還を北上する今川軍を迎え撃てる地形・地形などどこにもなく、信長は嫌でも清州籠城に追い込まれます。いや機敏な信長の事ですから、逸早く清州から落ち延びたかもしれませんが、そうなってしまえば信長の野望はここで潰えざるを得なくなります。

なんとなくですが、清州で信長が待っていたのは、今川軍が大高城救援に別動隊をわざわざ割くか、真っ直ぐに鳴海に向かうかの情勢を待っていたのかもしれません。ここでいきなり鳴海に出てこられると万事休すです。しかし実際には大高城に救援別動隊が送られています。信長にしてみれば、これでやっと鳴海あたりの地形を活かしての勝負の綾がほんの少しでも出たぐらいの実感でしょうか。だからこそ鷲津・丸根砦が実際に攻撃されるまで清州から動かなかったぐらいを想像しています。